滝山コミューン一九七四/原武史 | れぽれろのブログ

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原武史さんの「滝山コミューン一九七四」(講談社文庫)を読みました。
以下、前半でこの本の概要・感想などをまとめたあと、後半にこの本から思い出す自分の経験について書きます。


自分はおよそ1年半前から原武史さんの著作を集中的に読み続けています。
原武史さんは政治思想史が専門の学者さんで、天皇制や鉄道や団地についての重要な著作がある方。自分はまず原さんの天皇論から読み始め、続いて鉄道論、最近にになって団地関連の著作を読んでいます。ここ1年半の当ブログの記事でやたらと天皇だとか鉄道だとかが登場しているのは、原さんの著作からの影響が大きいです。

今回読んだ「滝山コミューン一九七四」は原さんのお仕事の中では団地関連の著作という位置付けになろうかと思いますが、原さんご自身の小学校時代の経験をルポルタージュ風にまとめた形になっており、教育がテーマの著作でもあります。
原さんは政治思想史の学者ですので、著作は基本的に学術書の体裁であり、こういった書籍を読み慣れていない人にとってはとっつきにくいものですが、「滝山コミューン一九七四」は原さんご自身の小学校時代の経験が物語風に描かれている作品ですので比較的読みやすく、学校が舞台の作品でもあり、内容も非常に面白いので、原さんの著作の中ではとくに多くの方にお勧めできる著作だと思います。


本書「滝山コミューン一九七四」の目的は、原さんが通っていた1970年代前半の首都圏郊外の団地周辺の小学校で、非常に左派的な平等主義・集団主義に基づく管理教育が徹底して実践されていたことを指摘することにあります。

日本の社会主義・共産主義の運動は、1917年のロシア革命を期に大正後期から昭和初期にかけて盛り上がりを見せますが、1930年代になると治安維持法をベースとした当局の激しい弾圧を受け、社会主義者・共産主義者たちは次々と獄中で転向、戦中期には左派活動はほぼ一掃されます。
戦後は東西冷戦の時代、ソ連が社会主義・共産主義の大国として登場し、米ソの対立を背景に再び日本でも社会主義・共産主義に関連する社会運動が急速に盛り上がり、これが大衆を巻き込んでの大騒動に発展するのが、1960年の日米安保条約の延長を巡る政治闘争、いわゆる60年安保です。
その後の60年代は高度経済成長の時代、主として地方から都市にやってきた多数の労働者に住居を提供するため、団地やニュータウンが次々と建設され、その中で個人主義化した人々の関心は政治から経済に移り、安保反対運動は収束、佐藤内閣が危惧した70年安保は杞憂に終わり、日米安保は全く何事もなく1970年に自動延長します。
1968年の左派系学生運動は世界的に盛り上がりを見せましたが、やがて左派運動はセクト主義に陥り大衆的なものからは離れていき、1972年の連合赤軍事件を最後に急進的な左派運動は自壊。
一般に60年代から70年代にかけては社会運動の凋落と個人主義の台頭の時代として位置付けられ、団地やニュータウンは家族主義化・個人主義化の象徴として位置づけられるようになります。

この単純な歴史観に異を唱えるのが原さんの団地論。
歴史は単純にリニアに進行するわけではない。60年代の団地は決して単純な家族主義・個人主義の場であったわけではなく、共産党等の革新運動家のサポートによる自治的コミュニティが団地でこそ形成されていた事実を、原さんは種々の著作により明らかにされています。
本書「滝山コミューン一九七四」はそういった著作の中の一冊。舞台は東京郊外の団地と小学校。団地住民がほとんどを占める東久留米市立第七小学校にて、全国生活指導研究協議会(全生研)に所属する教師により先導される、実践的左派教育の在り様が、原さんご自身の小学生時代の思い出と共に綴られています。

全生研が主導するのが班活動による徹底した平等主義・集団主義教育。
班をベースにした教育は落ちこぼれを出さないことを目的とし、学習の進捗は理解が遅い子供に合わせられる。
学習が低調になる一方、課外活動や委員会活動は非常に重視され、年間を通して様々なイベントが企画され、班ごとに主体的にイベントに取り組むように教師により主導される。
全体での平等主義が貫徹される一方、班単位では競争が強いられ、各種活動に対し減点法で各班が評価される。積極的に活動に取り組めない班は「ボロ班」の烙印を押されるため、子供たちはやがて「ボロ班」にならないように、協力して主体的に活動に取り組むようになる。
教師という前衛の主導により、児童一人一人の左派的・革新的主体としてのレベルが底上げされていく様子は、社会主義・ソ連的な教育方法であり、60年代後半の左派セクトの活動をも思わせます。本書ではこの班をベースとした左派的自治組織を、原さんが住んでいた滝山団地の名を取って、「滝山コミューン」と名付けられています。

やがてコミューンはエスカレートし、代表児童委員会は「革新的主体」を持った児童たちに席巻され、原少年のような自由主義的な個人は代表児童委員会の児童により糾弾されるようになります。
平等主義・集団主義が全体主義に頽落するアイロニー。
このようなコミューン的班活動が頂点に達するのが、1974年度の6年生による2泊3日の林間学校。各班は事前に様々な準備をし、3日間の林間学校ではイベントごとに各班が評価・採点され、結果が減点法により壁に貼り出される。キャンドルサービスの演出や合唱により児童が集団的陶酔に陥る様子はまるで戦前の枢軸国のようであり、コミューンが全体主義化していくような恐ろしさを感じます。
学習よりも班活動を重視するこのような学校生活に嫌気がさした原少年は、やがて毎週日曜日に開催される四谷大塚の日曜テストに救いを見出すようになり、自由に学習できる私立中学の受験を希望するようになります。平等主義的な小学校より競争主義的な学習塾が救いになるというのも、何ともアイロニカルです。

本書の目的は、日本の政治思想史(とりわけ左派運動の歴史)の中に、70年代初頭の団地や学校を位置付け、再考することにあると思われますが、本書の魅力はそれのみに非ず。
本書は原さんの小学4年生から6年生(1972~74年)の経験を中心にまとめられており、原少年の成長物語として読むこともできます。
この他にも、当時の社会状況や世相、児童の心理、西武沿線の武蔵野の風景や首都圏の様子も描かれ、幅広い面白さを持つ作品になっています。
ご興味のある方は、ご自身の小学校時代の記憶や思い出と比較して本書を読んでみても、きっと面白い読書経験になると思います。


さて、本書を読み終わった後、インターネットで「滝山コミューン一九七四」のレビューをあれこれと読んでいると、「まさかこんな教育があったなんて」という反応が多い中、「確かにこういう教育はあった」という反応も見られることに気付かされます。
自分の感触も後者です。
自分は1978年の早生まれで、大阪府の南河内の郊外住宅地で生まれ育ち、1990年の4月に公立中学校に入学し、3年間を過ごしました。
80年代の日本は校内暴力が急増した時代、とくに都市郊外を中心に「荒れる学校」が問題となった時代です。自分の育った環境も例外ではなく、校内暴力を告発した
「指導困難児-大阪・長野中学校教師の内部告発」という当時出版された本では、自分が住む同じ市内の中学校の惨状が描写されていました(この本は自分も中学生のときに読みました)。
このような流れから、おそらく80年代後半から90年代にかけて、校内暴力対策として様々な模索が続けられたものと思われ、その中に全生研的な手法も取り入れられていたのではないかと思います。
自分の通っていた中学校で90年代前半に経験したことは、「滝山コミューン一九七四」で描かれた班活動によく似ている部分もありました。

教室では机を前に向けて座るのではなく、机をくっつけて各班ごとに島を作る形で座る。発表や宿題の提出は班ごとに行われ、班のメンバー全員が宿題を提出しないと班全員が減点となる。
班ごとの教え合いが推奨され、学習理解が遅い生徒に対する班メンバーのサポートが重視される。自分だけが良い成績を取ろうとする生徒は徹底して糾弾され、班メンバーに成績が悪い生徒がいる場合は、むしろその班の成績優秀な生徒のサポートの不備が糾弾される。
授業ではしょっちゅう「話し合い」が行われ、クラスの様々な問題点に対し建設的な意見を自発的に発表することが強いられる。この「話し合い」では教師が生徒を指名して答えさせることはせず、教師はクラス全体に対し問いかけ、複数の生徒の自発的な発言が一定程度継続するまで「話し合い」は終わらない。教師の問いかけは発言しない生徒を糾弾する口調で行われ、多くの「意識の高い」生徒は、次第に積極的に発言するようになる。
教師はしばしば生徒の感情に訴え、「皆が仲間である」ことを強調、これに触発され泣きながら発言する生徒もしばしば現れ、この感情の発露を通して生徒同士の仲間意識の醸成が促進される。

今から振り返ると、このような施策により落ちこぼれをなくし、不良化・暴力化を阻止するというのが狙いであったように思います。
この狙いはある程度成功していたように思いますが、当然のことながらこのような班活動は非常に窮屈であり、「滝山コミューン一九七四」の原少年と同じく、自分はこのような環境を非常に嫌なものだと思っていました。
しかし自分は原少年のように表立ってこの体制に反抗するような勇気はなく、同調圧力に屈する形で班活動に溶け込んでいました。(なので、自分は「滝山コミューン一九七四」の小林少年のような子供たちの気持ちもよく分かります。)

自分が住んでいた南河内の郊外住宅地は、1970年ごろに開発された一戸建てが密集する住宅地であり、自分の一家は1983年に中古住宅を購入し、自分は1999年までここに住んでいました。
この郊外住宅地の一戸建ては皆似たような形をしており、中に入ると間取りも皆同じ。なので、友達の家に行ってもほとんど自分の家と同じというこの感じは、東京郊外-武蔵野の70年代前半の団地の感じと相通じるものがあるのではないかと思います。
環境が政治を規定するというのが原武史さんの著作から読み取れる仮説。
集団主義的・左派コミューン的教育が1974年の武蔵野から遠く離れた1990年の南河内で形を変えて復活し継続できたのは、集団としての性質が似ていたという面、団地と一戸建てという違いはあれ、集合住宅としての機能が類似していたとう面もあるのではないかと推測します。
「滝山コミューン一九七四」を読んで「確かにこういう教育はあった」と感じた人たちが、それぞれどのような環境で育ったのかも気になるところです。