インポッシブル・アーキテクチャー - 建築家たちの夢 | れぽれろのブログ

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1月19日の日曜日、国立国際美術館で開催されている「インポッシブル・アーキテクチャー-建築家たちの夢」と題された展示を鑑賞しました。
以下、覚書や感想などをまとめておきます。


本展は建築に関わる展示です。
実現しなかった建築物(アンビルト建築)、計画が残されているにも関わらず、様々な技術的・社会的問題により「建たなかった」建築物の構想・デザイン・図面・イラスト・模型・CG映像などがずらりと並ぶ、興味深い展示になっていました。
20世紀初頭のロシアの作品から、2010年代のフィンランドの作品まで、幅広い建築物が取り上げられ、日本の建築も多数。作家はほぼヨーロッパとロシアと日本、加えてアメリカや中東出身の作家も数名含まれています。

自分は絵画を中心とした美術に関心がありますが、建築についてはあまり詳しくなく、建築史についてのまとまった知識はありません。
自分は本展は空想上の建築物、作家の想像力による実現不可能なオモシロ建築が並ぶ展示と思い、建築史に詳しくなくても楽しめる展示かなと思いつつ鑑賞しましたが、さにあらず。全く夢想的な建築も登場しますが、どちらかと言えば、実現性はあったが諸般の事情によって建設できなかった建築物、もしかしたら「建っていた」可能性のある建築物が多く取り上げられているように感じました。
そういう意味で、本展は建築技術や建築史に詳しい人が、あれこれ考えながら鑑賞すると面白いようなハイコンテクストな展示であるように思います。
本展の正式な展覧会名は「インポッシブル・アーキテクチャー」と取り消し線が入れられており、これは実は不可能ではなかったのではないかという含意が込められています。


面白かったものをいくつか。

本展でとりわけ目立つのが、ソ連の作家ウラジーミル・タトリンの「第3インターナショナル記念塔」(1919-20)で、高さ400メートルに及ぶ巨大な鉄骨の斜めの塔は、曲線と直線が入り乱れる構造で、模型の細部を観察するのが楽しい。
展示の後半で最も目立つのが、アメリカの作家マーク・フォスター・ゲージによる
フィンランドの「ヘルシンキ・グッゲンハイム美術館」(2014)で、様々な現代的なオブジェクトを3Dデザイン化したものが外壁にゴテゴテと固められたデザインになっており、遠目で見ると装飾過多の昔の風変りなお城のようにも見えますが、細部を見ると現代的なデザインという楽しいもの。
この2作品をはじめ、本展示では全般的に戦前は旧共産国・枢軸国の作品が多く、後半は西側自由主義国の作品が多いですが(CG映像のBGMが「春の祭典」(ストラヴィンスキー、ソ連)で始まり、「クリープ」(レディオヘッド、イギリス)で終わるのが図らずも象徴的)、これは壮大な建築への意志が何に由来するか(国家的意志から市場的意志への変遷?)等々を考える上でも面白い。

美術との関連で言えば、まずシュプレマティズムの画家マレーヴィチの素描を元にした建築デザインが面白く、建物の模型を上部から見ると確かに抽象絵画のよう。
ヤーコフ・チェルニホフの「建築ファンタジー」(1933)はスターリン政権下でデザインされた101の建築イメージをまとめたものですが、遠目で見るとリシツキーのロシア・アヴァンギャルド時代の前衛デザインに見えてきて面白い。
ジョン・ヘイダックの「ダイヤモンドハウス」(1963-67)はモンドリアンの抽象画を元に建築物の間取りをデザインしたもので、確かにモンドリアンの「ブロードウェイ・ブギ・ウギ」などを思い出させますが、ダイヤ型の建物に対し垂直・水平に間取りしているので、部屋の隅に狭隘スペースができて何とも住みにくそう。

日本の作品では、近畿圏在住者としてはまずブルーノ・タウトの「生駒山嶺小都市計画」(1933、奈良県)が面白く、生駒ケーブルの山の上に大阪電気軌道(大軌、後の近鉄)がタウトに依頼した住宅団地の計画は、ドイツの城郭都市のよう。近鉄は戦後に奈良の学園前を中心に大規模な住宅地を造成しますが、その萌芽がここにあるのかも。
安藤忠雄の「中之島プロジェクトⅡ-アーバンエッグ」(1988、大阪市)は、辰野金吾の大阪市中央公会堂(1918)の大規模な改修案で、建築物の内部に巨大な卵型のドーム状ホールを設けるというかなり前衛的なデザインであり、個人的には実現しなくてよかったな(笑)と安心するような奇抜なデザインになっています。
(他府県民の一般的なイメージに反し(?)近年の大阪府民は実は保守的で、大阪地下鉄駅舎の前衛的な改築案について猛反対が巻き起こり、デザイン案が撤回されたのも記憶に新しいところ。フェスティバルホールも建て替え前とほとんど同じ構造で再建されたのも最近の話。公会堂の安藤案が実現しなかったのも頷けます。ちなみに自分も大阪府民ですが、この安藤案は絶対に嫌です 笑。)

岡本太郎の「おばけ東京」(1957)は、皇居から銀座を経てその一直線上の東京湾上に巨大な人工島を作り、そこに様々な文化施設・スポーツ施設を集約ささせるという壮大な都市計画。山手線を東側に拡張し、皇居の同心円状にある品川・渋谷・新宿・池袋・日暮里・亀戸と人工島を結び大環状線とする、人工島には銀座から車で20分、というとんでもない都市計画で、芸術家の想像力の面白さを味わえます。
黒川記章の「農村都市計画」(1960)は、上の岡本太郎とほぼ同時期の構想ですが、こちらは農村のイメージで、耕作地の上に、当時流行した(?)ピロティ式建築のように柱を設けて、その上にグリッド上に住居・学校・神社・行政施設などを建設するというこれまた斬新なデザイン。
この岡本太郎・黒川記章の時代は農村から都市へ人口の大移動が起こった時代ですので、それを反映するような、新しい現実の都市・農村の構想と考えると興味深いように思います。

展示の終盤近くでは、ザハ・ハディドのデザインによる「新国立競技場」(2013-15)が取り上げられていました。

ご存じの通りこの2020年東京オリンピックの競技場は、ザハのデザインは結局実現せず、別案で建設されることになりましたが、このザハ案が決して技術的に実現不可能なデザインではなかったこと、設計は完了しており後は決裁を待つだけの状態であったことが分かる展示になっており、ザハ案が変更になったのは社会的・マネジメント的問題が全てであるという主張が込められているように感じます。
ザハは2016年に亡くなりましたが、本展の「インポッシブル・アーキテクチャー」の取り消し線の部分を考えるに、ザハの名誉回復を1つの意図として本展は企画されたのであろうことが分かります。


感じたことなど。

よくよく考えると、世の中には風変りな建築というものはたくさんあります。
自分が住む大阪府では、何といっても太陽の塔(吹田市)やPLの塔(富田林市)であり、現在当たり前のように存在していますが、改めて考えると「なんでこんな変なもんが建っとんねん」というべき代物。インポッシブルであった建築として本展示に並んでいても全くおかしくない代物です。
本展の会場である国立国際美術館の外観も相当風変りですし、本展で展示されている村田豊「ポンピドゥー・センター設計案」(1971)は奇抜なものですが、実際に建てられたフランスのポンピドゥー・センターも相当変わった建物。菊竹清訓「国立京都国際会館設計競技案」(1963)に至っては、建たなかった本案の方が一見普通に見え、実際に今建っている京都国際会館のデザインの方がよっぽど奇抜でアンビルトなのではないか(笑)とさえ思えてきます。
ビルト/アンビルトは実は紙一重なのではないか、本展を見ているとそのように思えてきます。

本展から感じられるのは、歴史の必然性ではなく偶然性です。
ビルト/アンビルトは紙一重。今建っているものが当然の歴史的帰結ではなく、もしかしたら全く別の物が建っていたという歴史もあり得た。そう考えると本展で展示されている建築案は生まれなかった子供であり、幽霊と言ってもいい存在です。
建たなかった建築を知り、歴史の偶然性を考えることにより、未来に生まれる建築についての考察がより深まるのではないか。このととが幽霊たちに対する何よりもの弔いになるのではないか、このように本展を鑑賞して感じます。


ということで、面白い展示でした。
本展は建築に詳しい方が鑑賞するともっと違った視点で見ることができるのかもしれませんが、美術好き・歴史好き・都市好きな人が見てもかなり面白い展示だと思いますので、本展は美術・歴史・都市に関心がある方にもおすすめです。