映画 ザ・スクエア 思いやりの聖域 | れぽれろのブログ

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前回、恩田陸さんの小説「蜜蜂と遠雷」をベースに、音楽を通して超越的なものに触れる体験と、それが人から人へ感染する体験について考え、あれこれと書いてみました。
では現代美術についてはどうか?
今回は2017年にカンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受賞したスウェーデン映画、リューベン・オストルンド監督の「ザ・スクエア 思いやりの聖域」をベースに、別の角度から超越的な表現の問題について考えてみたいと思います。
以下、この映画の概要と感想、自分が面白いと思うポイントを書いた後、最後にこの映画の中で挿話的に挿入されるエピソードを通して、現代美術における超越的な表現についての考えなどをまとめたいと思います。
ご興味のある方はお読みください。


「ザ・スクエア 思いやりの聖域」はスウェーデンの映画です。
一般にスウェーデンというと福祉国家でリベラルな国というイメージがありますが、実態は階級社会であり、富裕層と低所得者層は住み分けがなされており、街には物乞いが溢れていることが本作では描かれています。
また、立派な美術館があり様々な現代美術のアーティストが作品を制作していますが、キュレーターはプロモーションやその他雑務に忙殺されており、作品そのものへの思い入れがほとんどないように描かれています。
このような状況の中で、富裕層/低所得者層の境界、美術/非美術の境界が本作のテーマになっています。

お話は大きく3つのスレッドから成り立っています。
主人公は現代美術のキュレーターで社会的地位は高く、富裕層と言ってよい階級に位置付けられる男性です。
1つめのスレッドは彼が財布とスマホを盗まれ、それを取り返そうとするエピソードです。主人公は街中で詐欺に遭い、財布とスマホを盗まれますが、スマホにはGPSが実装されているため、その信号を手掛かりにかなり奇抜な方法で盗まれたものを取り戻そうとします。
主人公は盗みや詐欺を行うような社会的階級の人間を差別的に見ているような人間、しかし、この財布&スマホ奪還の過程で、ある低所得者層の少年と出会い、彼とのいざこざを繰り返すうちに、徐々に主人公の心境に変化が生じていきます。

2つめのスレッドでは、主人公がキュレーションを行っている現代美術の展示のプロモーションを巡るトラブルが描かれます。
展示作品の1つである「ザ・スクエア」という作品は、地面に正方形の境界を設け、その境界の内部では誰でも平等である云々のメッセージが込められた、非常にリベラルな意図を持った作品になっています。
この「ザ・スクエア」のプロモーションについて、主人公は上記の財布とスマホのトラブルに巻き込まれていたということもあって、プロモーターへの指示や確認がおざなりになり、結果として作品の主張と全く異なるプロモーションが行われ、それを巡るいざこざに主人公が巻き込まれていく、というのが2つめのスレッドです。

3つめのスレッドでは、主人公の女性関係が描かれます。
このエピソードはどちらかといえば挿話的で、上の2つのスレッドとは直接的な関連は薄く、かなり実験的に撮影されているようにも見え、ほとんどアドリブで会話しているのではないかと思えるシーンもあります。これ自体が1つの現代美術的な映像作品のよう。
以上の3つのスレッドをが混ざり合いながら物語が進んでいき、財布とスマホは、低所得者層の少年とのいざこざは、「ザ・スクエア」は、女性関係は、それぞれどうなるのか?、というのが本作の主なプロットです。


本作のテーマは境界です。
本作に登場する「ザ・スクエア」という美術作品は地面に領域を設けた作品であり、境界のアナロジーです。
上にも書いた通り、主人公は富裕層で、明らかに低所得者層を差別的に見ています。しかし、盗難事件をきっかけに出会った少年との関わりの中から、言葉にならないような気付きを得て、低所得者層に対する考えが変わっていきます。富裕層/低所得者層の境界に対する融和が本作のポイント。
この主人公の変化の過程が、ある種の強度を持って登場する少年の存在とその後の少年の不在、及び主人公の娘の映像を通して、感覚的かつ説得的に描かれるのが、本作の面白いところだと思います。

このように書くといい感じのヒューマンドラマのように感じられるかもしれませんが、さにあらず。
作品「ザ・スクエア」を巡るトラブルは、昨今のあいちトリエンナーレの問題を先取りしたような、道徳的フックによる炎上と表現の自由を巡るいざこざに発展し(奇しくも2020年の日本から見ると既視感あふれる問題 笑)、うんざりしてくるような展開が見られます。
主人公はキュレーターですが現代美術に関してほとんど愛着を持ってないように見え(展示中に棄損した作品を作家に連絡もせずこっそり修復しようとしたりする)、気にしているのは予算と広報のことばかり。

上にも書いた通り女性関係のエピソードの映像は実験的で妙な感じ。
さらに本作は映像と音声の関わりが何だか変な感じで、画面に映っていないところで様々な音がする(赤ん坊の泣き声、犬の吠え声、騒音、振動、奇声など)のが
鑑賞者にストレスを与える。
作中で主人公は車による接触事故を起こしますが、これも何に接触したのか分からないように描かれており、どことなく不気味な感じ。
このような社会の騒動や映像としてのある種の不穏さが入り混じり、現実社会の在り様のある種のリアルさと不安定さが描かれるが故に、上記の階級的融和への気付き(いわゆるリベラリズム的な思想に繋がる)が、より一層際立つのが本作のポイントであるといっても良いと思います。


本作は様々なエピソードに溢れ、あれこれといろんな見方ができる作品だと思いますが、自分が本作のクライマックスだと考えるのが、映画の後半に挿話的に登場する、猿の真似をする美術家のパフォーマンスをかなりの長回しで撮影したシーンです。この猿の真似がかなり真に迫っており、これが単なるパフォーマンスなのかそれともパフォーマンスを超える振舞いなのか釈然としなくなり、果たしてどのような帰結を迎えるのか、かなり手に汗握るシーンになっています。

ここでは美術/非美術の境界が問題化されます。
イコンなどの宗教画を思い出すと分かるように、古くは絵画は世界を指し示す超越的なものでした。それが時代を経て絵画の制作技術が発達するとともに、絵画からコンセプチュアル(概念的)な要素が薄まり、ビジュアル(視覚的)なものに移行(モーリス・ドニ「絵画は本質的にある順序で集められた色彩で覆われた平坦な表面である」)、これがモダニズムであり、その極北が20世紀中期アメリカの抽象表現主義である。
一方その反動として絵画に別の概念的なものを復権させたのがダダイズムに始まるコンセプチュアルアートであり、これがポストモダニズムに繋がり、いまの現代美術に繋がっている、というようなことは当ブログでも何度か書いてきたことです。

戦後コンセプチュアルアートの作家の一部は、パフォーマンスアートという形式を通して、再び美術が世界を指し示すような超越的な表現(時には過激な表現)を志向するようになります。その末路がこの映画に登場する猿の真似のようなパフォーマンスです。
60年代ごろまでのパフォーマンスアートは超越を志向するあまり過激になりがちでしたが、70年代以降は(とくに日本では)穏健なものに移行していきます。(映画前半の対談のシーンでロバート・スミッソンに言及されているのが示唆的です。このような変化について、自分は関西のアート集団ザ・プレイの展示を通して好意的に書いたこともあります。)
超越的な体験そのものから、寓意性・多義性・笑いなどの要素から世界を指し示すようなアレゴリカルな表現への移行に対して自分は肯定的であり、その意味で美術/非美術の境界を考えるなら、本作の猿真似パフォーマンスが現実にあったなら、こんなものは美術ではないというのが自分の考えです。(もちろん劇映画の1シーンとしてはOKで、非常に面白いです。)

前回の記事に引き付けると、自分が現在のクラシック音楽が好きなのは、行為が超越的に(例えばある種のロックフェスのように)過激化・事件化せず、プログラムとスコアの枠内にとどまるからであり、限定されたプログラムとスコアの中で、一瞬世界に触れたかのようなある種の超越的な感覚を(ジャズやポップスよりも強度的に緩やかな形で)得られるのがクラシック音楽の良いところだと感じるからです。
表現は超越を志向し、その超越性はときに豊饒な体験をもたらす。しかし表現の自由のあまり表現が一定の枠を踏み越えると、表現は表現でないものに頽落する。
このような考えを本作の猿真似シーンから考えることができます。


ということで、後半は美術史沿ったやや小難しい(?)解釈を書きましたが、階級社会に対する風刺、現代美術に対する風刺、ある種の実験映像、及びそれを超えて描かれるヒューマンドラマとして本作は面白く鑑賞できると思いますので、映画好きの方には本作はお勧めです。