蜜蜂と遠雷/恩田陸 | れぽれろのブログ

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新年あけましておめでとうございます。
当ブログにアクセス頂いている皆様、本年もどうぞよろしくお願い致します。

新年1発目は文芸作品の感想から。
年明け早々、直木賞と本屋大賞を受賞した超有名作品、恩田陸の「蜜蜂と遠雷」(幻冬舎文庫、上下巻)を読みました。
自分は本はたくさん読みますが、文芸作品はあまり読みません。かつ、ここ十数年の日本の小説となると全く読んでいません。(自分が読んだ一番新しい小説は、たぶん村上春樹の「1Q84」です。このようなレベルです 笑。)
年末の仕事関係者の忘年会で「クラシック音楽が好きで本が好きなら、この作品を読まないわけにいかない」云々の話になり、そういえば自分がアメブロでフォローさせて頂いてる方々の中で複数の方がこの本を読まれていたことも思い出し、読んでみることにしました。読んでみるとなかなか面白く、あれこれ書きたいことが出てきましたので、記事化しておきたいと思います。


本作は、芳ヶ江国際ピアノコンクール(浜松国際ピアノコンクールがモデル)に参加するピアニスト、コンクールの審査員、及びその関係者による群像劇です。
養蜂家の息子で自宅にピアノすらないが、著名ピアニストに才能を見出され、神がかり的な演奏する16歳の少年。天才ピアノ少女としてデビュー、母の死をきっかけに一旦商業音楽界から離れたが、時を経て再びコンクールに挑む20歳の女性。ジュリアード音楽院に在学し、若くして既に高い評価を獲得している、日系フランス人の19歳の男性。音大在学中に国内コンクールで好成績を修めたが、音楽の道を離れ会社員となり、アマチュアとしての音楽に価値を見出す28歳の男性。
舞台は日本の架空の都市、芳ヶ江(浜松がモデル)。物語のほとんどはコンクールを舞台に繰り広げられ、個性の強い主要登場人物4人が、コンクールに波乱をもたらす。
コンクールは1次予選、2次予選、3次予選、決勝戦の計4回戦。各ピアニストは各予選を突破できるのか、そして優勝は誰の手に?、というのが本作の主要なプロット。
合わせて、本文の多くは音楽の描写で占められ、各登場人物が目の前で繰り広げられる音楽をどのように受容したか、その内面の描写も本作の読みどころです。

本作のテーマは音楽を巡る超越と感染です。
人類は言語を獲得する以前から、音(歌)によってコミュニケーションを取っていたとされます。人間同士が発する音(歌)による感情のコミュニケーションがあっただけではなく、自然界の音(蜜蜂=虫の羽音=生物の音、遠雷=気象の音=無生物の音)を通して、生物・無生物に関わらず、ありとあらゆるものとコミュニケーションが可能であったのが、原初的な人類です。
遊動・狩猟採取社会から定住・農耕社会に移るにつれ、音(歌)は音声言語となり、やがて文字が現れ、文字による法が支配する社会へと変遷していきます。同時に世界(ありとあらゆるもの)とのコミュニケーションの程度が薄れ、世界(≒自然)は外部化され、防衛と収奪の対象となります。
人間社会内部においてもコミュニケーションは音声言語中心から文字中心へと頽落し、自然界のみならず人間同士においてもコミュニケーションが成り立たないほどに感情が頽落しているのが、現在の人類です。

人類は身体レベルで音(歌)により感情を揺り動かされる遺伝子を持っています。
文字社会において、感動的な音(歌)を何とか再現可能な形で記号化・文字化しようとして誕生したメディアが、スコア(楽譜)です。スコアにより豊かな音楽体験を記録・再現できるよになり、さらにスコア上の記号操作により、より複雑で豊饒な音楽を創造できるようになったのが、17世紀前後のヨーロッパ、この時点で西洋クラシック音楽が完成します。
19世紀~20世紀に至り、社会が複雑化するにつれ、音楽を再現するための1つの手段にすぎなかったスコアが絶対化され、巨匠のスコアが神格化され、スコア(≒テクスト≒文字)を忠実に再現することが重視され、スコア以前的な文脈(≒コンテクスト≒世界)が見失われがちになる。
同時にクラシック音楽はヨーロッパを離れてグローバル化し、そんな中で戦後に誕生したのが、世界中の人々がともに所定のスコアを再現し演奏について競い合うという、音楽コンクールです。

このような音楽コンクールの中で、スコア以前的で超越的な音楽の力を召喚し、かつてコミュニケーション可能であった世界を感じさせる、シャーマン的な存在として登場するのが本作の風間塵であり、他のピアニストや審査員はより身体的なレベルで彼の音楽に感染し、音楽への構えや、ひいては世界への向き合い方、生き方の構えに影響を与えていく、このように読むことができるのが、本作の面白いポイントだと自分は考えます。
言語と文字にまみれ、かつてあったような豊饒な世界体験を経験しにくくなっている人類にとって、音楽は世界へとつながることのできる一つの重要なチャネルです。
言語以前・文字以前・スコア以前的な音(歌)という超越(世界からの訪れ)に触れ、感染することにより、一瞬かつてあったような世界の在り様に触れたような気がする、この経験が人から人へ伝わり、豊饒な体験と共感に満ちた空間が立ち現れる。その様子を描写しきったところに、本作の面白みがあります。

もちろん、現実的に風間塵のようなクラシックのピアニストはまず現れません。
スコアに規定される(文字的なものに規定される)現代クラシック音楽にとって、音楽の超越性は立ち現れにくい。(超越性という点ではおそらくスコアに規定されにくいジャズやポップスをテーマにする方が現実的。多くのクラシック音楽研究者があれこれ聴きつくした果てにジャズに向かうのは、故ないことではありません。)
コンクールのリアリティという点でも、おそらく本作は現実性を欠いています。コンクールは演奏以外の様々な社会的文脈で勝敗が左右されることもあり、票が割れてもめるのが常態。また、コンクール期間内の極めて短い期間でピアニストの内面がこうまで成長するというのも考えにくい。
風間塵を完全に超越的な外部として描いていること(彼の人間的な内面には触れられず、極めてシャーマン的に描かれている)も、賛否の分かれるところではないかと思います。
しかし本作はそれを置いて余りある音楽による超越的体験の描写に満ちており(とくに第3次予選の描写は出色)、一定のリアリティを犠牲にしても、言語以前的な音楽による超越と感染を言語を用いて描ききったと読む方が、生産的です。

楽曲についての描写も面白く、著者が楽曲についてどう考えているか、どんな音楽が好みかについてもうかがい知ることができ、面白いです。決勝戦で脇役が演奏するラフマニノフの協奏曲2番、3番、ショパンの協奏曲1番について、主役の演奏を差し置いてやたらと詳しく描写されているのも、著者の好みの反映なのではないかと思います。(ちなみに自分も、ベタですが協奏曲ならなんだかんだ言ってこの3曲が好きです。)
芳ヶ江という架空の都市のコンクールを舞台にした作品ですが、4回選制であること、2次予選に邦人作曲家による課題曲があること、11月の開催であること、東京から新幹線で来られる都市での開催であり、海が近く、企業城下町で、楽器の街で(三味線まで売られている)、ウナギが名物という、浜松がモデルであることをとくに隠そうともしていない(笑)のも面白い。
本作の主役の1人は会期中にドキュメンタリーの撮影に協力していますが、実際2003年に浜コンを舞台にしたドキュメンタリーがNHKで制作されており(自分も当時見ました。須藤梨菜さんがメインで取り上げられていました。)、著者もこの番組を参考にしたのではないかと思います。


さて、現実に現在のクラシック音楽の演奏会において、超越的な体験、本作で描かれるような演奏者と鑑賞者の間での音楽的感染は、どの程度可能なのでしょうか?
自分はどちらかというと感動体質であり(何を見ても聴いてもすぐに泣く 笑)、ポップスは体験的強度が強すぎるということもあって、クラシックの演奏会ばかりに出かけています。(クラシックはスコアとプログラムにガチガチに規定されるので、予定調和的で鑑賞が楽。)
そんなクラシックのピアノ演奏会で、本作を読んで思い出した印象的な鑑賞体験を最後に2つ書いておきます。

1つは仲道郁代さんの演奏会。

ベートーヴェンのソナタ4曲を演奏するというハードな演奏会でしたが、本編よりもアンコールが印象的で、最後に演奏したショパンの遺作ノクターンが感動的、本編のベートーヴェンとはがらりと音色が変わり異様に綺麗、「この人はやはりベートーヴェンよりショパンがいいのかな」などと思いながら鑑賞していました。
するとアンコール後に仲道さんがマイクを持って再登場し、「本日はベートーヴェンの演奏会だが今ショパンを弾いて感じた。今会場はなぜかショパンを弾くのにぴったりの環境になっている。こういうことは珍しい。本来アンコールで弾くような曲ではないが、バラード1番をどうしても弾きたくなった。遺作ノクターンで終わる予定だったが、もう少しだけお付き合い頂き、バラード1番を演奏させてほしい。」とのコメント(細部はうろ覚えです)のあと、悠々とバラード1番を演奏し終えました。
本作で会場の雰囲気が一瞬でがらりと変わるという描写を読んで、思い出したのがこの経験。

もう1つは好きなピアニスト、シプリアン・カツァリスの演奏会の出来事。
カツァリスは19世紀的ヴィルトゥオーソの現代版ともいえる演奏家で、スコア以前的な音の力にかなり自覚的(それゆえに即興演奏を重視し、スコアの独自解釈や改変・編曲もする)、演奏中に「あ、今何かが降りてきているな」とでも言うような音になることもしばしば。
そんなカツァリスがショパンの協奏曲2番(ピアノ独奏の自主編曲版)を演奏した際、2楽章がとにかく綺麗で、本当に泣けるほど綺麗やなと思いつつカツァの顔を見ると、カツァ自身も泣いているように見え、感情が感染して感動具合が深まり、えも言われぬ音楽体験になったということがありました。
演奏後にカツァは舌を出しながら両目を触るしぐさをしており、これは涙の照れ隠しなのかな?と思い、帰宅後にネットで調べてみると、やはりあれは泣いていたのではという書き込みもあり。
本作の第3次予選の感情の描写を読んで、真っ先に思い出したのがこの経験です。