堺市 大仙公園とその周辺 | れぽれろのブログ

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8月24日の土曜日、大阪府堺市にある大仙公園に遊びに行ってきました。
以下、写真と覚書などを残しておきます。

大仙公園は堺市堺区にあり、昨今世界遺産に登録された百舌鳥古墳群のど真ん中、百舌鳥古墳群の中で最も大きい仁徳天皇陵(大仙陵古墳)と2番目に大きい履中天皇陵(ミサンザイ古墳)の間にある公園で、公園内にも小規模な古墳がいくつかあります。
最寄り駅はJR阪和線の百舌鳥駅。JR天王寺駅から快速と各停で15分くらいで到着。百舌鳥駅を降りるとすぐ西側に大きな公園が広がっています。
広々とした公園内には博物館、図書館、茶室、日本庭園などもあります。
公園のすぐ北側に有名な仁徳天皇陵がありますので、こちらにも合わせて訪問することができます。
戦後にできた公園ですので、同じ堺市の浜寺公園に比べると歴史の浅い公園ですが、見どころはたくさん。

以下、堺市博物館、公園の様子、仁徳天皇陵、駅周辺の様子について、順に取り上げます。



(1)堺市博物館

大仙公園のほぼ中央にどら池と呼ばれる大きな池があり、その池の東側にあるのが堺市博物館です。

外観はこんな感じ。


 

16世紀の南蛮人の顔出しパネルがお出迎え。

手作り感あふれる顔出しパネルです。


堺市博物館は堺市の歴史を展示する博物館ですが、展示内容はほぼ古墳時代前後と安土桃山時代前後に限定されています。
堺市といえば古代の百舌鳥古墳群と近世初期の自治都市、ということのようです。
多くの博物館では原始時代から現代まで、全時代を紹介するパターンが多いですが、堺市はポイントを絞っています。

百舌鳥古市古墳群が造営された当時、東アジアは魏晋南北朝時代であり、日本は倭の五王と言われる大王たちが治めていた時代でした。
これらの豪族の政権は奈良盆地にあり、大阪湾から奈良盆地に至る陸上ルートがちょうど百舌鳥~古市近辺にあたり、これらの古墳群は国家の威信のために造営されたものと思われます。この大規模な古墳群から出土された須恵器や埴輪その他の物が解説とともに展示されていました。
個人的に面白かったのが古墳の方向。
航空写真を見ると百舌鳥古墳群は、前方後円墳の後円が北北東を向いているものと、東南東を向いているものに分かれることに気付きます。
前者は大阪湾の海岸線に沿った方向、後者は海岸線からちょうど垂直の方向。
前者は上町台地のラインで後に四天王寺・難波京が造営される方向と合致、後者は高安を超えて橿原・桜井・飛鳥の方向と合致。
この古墳の向きも何やら意味ありげで面白いです。

展示の後半は近世初期の自治都市としての堺の紹介です。
中世末、応仁の乱の影響で兵庫の港が廃れ、その代わりに16世紀に勃興してきたのが大阪湾の港町である堺、時代は折しも大航海時代、地の利を生かし堺は貿易と商業の拠点になります。
ちょうど日本に鉄砲が伝来した時代でもあり、鉄砲を作る資材の流通拠点であったことから、堺では鉄砲の生産が盛んになり、戦国大名であった三好氏や織田信長も堺を重要視します。
安土桃山時代はお茶がブームになった時代、千利休や竹野紹鴎などが活躍したのも堺です。

展示されていた住吉図屏風では、当時の堺の隆盛ぶりがよく分かります。当時は大和川が現在の位置ではなかったので、住吉大社と堺は陸続きであったことが分かります。
大阪の石山本願寺が落とされ、豊臣秀吉が大阪を都市化してからも堺の繁栄は変わりませんでいたが、転機は17世紀、大坂の陣で徳川方に協力した廉で堺は豊臣方により攻撃されます。
さらに、大和川が現在の位置に付け替えられ、これにより大阪と堺は分断、堺の港には大和川が運ぶ土砂が堆積し、港湾が機能しなくなった堺は徐々に商都としての機能を大阪に譲っていくことになります。
江戸時代も堺は刃物の町として栄えましたが、明治以降、海外への窓口としての港湾機能は再び兵庫県(神戸市)に移っていきます。

時代を限定した展示、堺にとってと古墳時代と安土桃山時代がいかに重要であったが分かる展示になっていました。


博物館の前には千利休の像。


 

そのすぐ前には竹野紹鴎の像。

にらみ合う二人の茶人。
二人とも安土桃山時代に堺で活躍した方々です。


堺市博物館のキャラクター、サカイタケルくん。

どうみても奈良のせんとくんです。
せんとくんの角を外して、古墳時代の鎧を着せると、タケルくんになります 笑。
奈良盆地の大和政権とのつながりの中にある百舌鳥古墳群、という意味もあるのかもしれません(←?)。
籔内佐斗司さんのデザインするキャラクタはどれもご本人に似ており、皆同じ顔になるのが面白いですね。



(2)大仙公園の様子

続いて、大仙公園の写真を並べてみます。(以下、写真はやや多めです。)
この日は8月にしては比較的涼しい日で、のんびりお散歩してきました。


園内の雰囲気。



昨年秋の台風以来、他の公園で目立っていた倒木などもなく、綺麗に整備されていまいた。台風の影響が少なかったのか、あるいは被害が少なかったのかもしれません。


どら池の様子。


 

百舌鳥耳原由来の像。

日本書紀によると、仁徳天皇が御陵を造営しようとしたとき、鹿がやってきて倒れ、その耳からモズが飛び出してきたのだそうです。それ以来この地は百舌鳥耳原と言われ、公園の最寄り駅もJR百舌鳥駅となっています。この像を見る限りモズは割と大きく、どうやって鹿の耳から出てきたのかは謎です 笑。


公園内にはいくつかの小さな古墳があります。

公園の入り口すぐのところにある収塚古墳。

仁徳天皇陵の陪塚と言われています。


孫太夫山古墳。

小さいながらも前方後円墳の形をしています。これまた仁徳天皇陵の陪塚とのことです。このような古墳が公園内外の近隣にたくさんあります。
近くで見るとただの小山に見え、全容が何だかよく分からないのが古墳観光の難点ですね。


小西行長公ゆかりの松。

豊臣方の武将として有名な方、堺商人の家系に生まれた方のようです。
豊臣秀吉の九州平定以降、熊本方面の大名として活躍。
隠れくまモンファン(?)としては、熊本県宇土市のゆるキャラ、うとん行長しゃんをまず思い出します。


平和塔。

ひときわ高くそびえ立つ塔で、公園内のどこに行ってもこの塔が目に入ります。
第二次大戦の戦争犠牲者を弔うための建物です。


池の方向からみた平和塔。

塔の中に入ることはできませんでした。中はどうなっているのかな?


昭和天皇の御製短歌が刻まれた碑。

全国植樹祭は戦後に始まった公的行事で、天皇が必ず出席することになっています。1986年の全国植樹祭は大阪で開催され、その際の昭和天皇の来訪を記念しての碑ということのようです。


突如目の前に現れたトーテムポール。


 

以下、公園内の動物の様子など。

池の周囲で休むカモと、注意喚起の看板。

この写真ではカモは5羽しか写っていませんが、もっとたくさんのカモが集団で休んでいました。


カモはくちばしが冷えるらしく、このようにくちばしを羽根の中に入れて休むのだそうです。みんなそろって首を回転させている様子が微笑ましいです。


草むらで眠りこける猫ちゃん。

カメラを向けても全く動じませんでした。熟睡中かな?


ハトをデザインした平和のオブジェに群がる、本物のハト。


 

ステゴザウルス出現!



向かい合う2匹の猫ちゃん。


 

コアラとイルカ。

こうやって並べて撮影するとスケールに違和感が生じます。


このカメさんが一番可愛かったかな。


 

謎のイモムシの向こうに佇む本物のカラス。


 

タヌキが集まる小道。

狸小路のはずですが、一瞬手抜き工事に見えました。


巨大な腹を持つタヌキ。


 

七福神とタヌキ。

皆ほとんど同じ顔ですが、なぜか毘沙門天だけ顔が違います。



(3)仁徳天皇陵

大仙公園のすぐ北側にあるのが、最も大きな古墳、仁徳天皇陵です。
祀られているのが本当に仁徳天皇なのかは分からないため、現在は一般に大仙陵古墳または大仙古墳と呼ばれるようですが、いまさら違うと言われても困る(笑)ので、本記事では仁徳天皇陵で統一しています。
巨大な前方後円墳で、お堀を含めて南北の長さは800m以上あり、JR百舌鳥駅~JR三国丘駅までほぼ1駅分の長さがあります。


古墳の南側、前方後円墳の前方の部分にある鳥居。

前方に鳥居があるのは、昨年訪れた藤井寺の仲哀天皇陵などと同じ。


陵墓恒例の、宮内庁による厳めしい注意書き。


 

南西部からみた古墳とお堀の様子。

綺麗で良い雰囲気です。


南東部から見た様子。


 

お堀にいたサギ。

水面に映る感じが良い雰囲気。

前方後円墳の前方の部分には意外と人がいました。世界遺産に認定されたこともあってか、ガイド付きのツアーで訪れている人が多かったです。


古墳の周りを歩いてみました。

こちらが前方と後円の境目あたり。

(といっても何だか分からないと思いますが 笑。)


こちらが後円の部分です。

一応入口があるようです。周囲には誰もいませんでした。


古墳のすぐ裏側にラブホテルがあるのも微笑ましい。


 

こふんカフェ。

いろんなお店があるものです 笑。


仁徳天皇陵の北側は、ちょうど西高野街道になっています。

高野街道は高野山へ向かう昔の街道です。
先日の石清水八幡宮の記事で、八幡市駅前にあったのが東高野街道の碑でした。こちらは西高野街道の碑。西高野街道は大阪から堺を経て南河内に至り、ここで東高野街道と合流します。
自分は東西両高野街道の合流地点の付近で生まれましたので、この8月に両高野街道の碑にたまたま出くわしたのも、何やら感慨深いです。



(4)南海・JR三国ヶ丘駅

ここからは少し個人的思い出も含む記述になります。
自分は90年代後半に、南海高野線とJR阪和線を利用して大学に通っていました。
南海からJRに乗り換えるのが、ちょうどこの三国ヶ丘駅。
今回19年ぶりくらいに訪れましたが、駅舎の様子は様変わりしてました。


駅の様子。

北側から撮影した写真です。なんや、この駅ビルは!
自分が大学生当時はこんな駅ビルはなく、もっとローカルな雰囲気漂う駅でした。

ちょうどこの写真のバスが写っている向こう側に現在は成城石井がありますが、昔ここには天牛堺書店があり、自分は通学の途中で途中下車してよく利用していました。

その天牛堺書店の奥には、130Rの板尾創路さんの実家のケーキ屋さんがありました。当時板尾さんはダウンタウンの番組に出演しており、板尾さんのお父さんもなぜかよく番組に呼ばれ(少なくとも3回は見た記憶あり)、三国ヶ丘の駅前でロケをしていたこともありました。このケーキ屋さんも現在はなくなっています。


駅のやや東側のビル。

このビルの1Fにも当時は確か本屋さんがあったはずです。現在はなくなってました。こちらの本屋さん(名前は失念)はサブカル系の本が割と多く、自分は天牛堺書店と使い分けていました。
この通りのさらに東側に家庭教師のトライの事務所があり、自分は大学生当時ずっと家庭教師のバイトをやっていたので、事務所に通うついでに本屋さんにもよく訪れていました。
確かこの近くにTSUTAYAもあったはずで、通学途中によくCDを借りていましたが、このTSUTAYAもなくなってしまっているようです。


三国ヶ丘駅ビルの屋上。

屋上は誰でも入れる庭園になっています。
なんとおしゃれなビルになったことか 笑。様変わりぶりに驚きます。


屋上庭園からはガラス越しに仁徳天皇陵も見ることができます。


 

南海三国ヶ丘駅とJR三国ヶ丘駅が交差する様子。

上側が南海、下側がJRです。
元々南海線があった場所に、おそらく無理やり下から阪和電鉄(開通当時阪和線は私鉄でした)を通したものと思われます。
南海電鉄と阪和電鉄はかつてはライバル会社で乗換駅もありませんでしたが、後に交差部に駅ができ、三国ヶ丘駅になったという経緯があります。
三国ヶ丘の語源は、摂津・河内・和泉の境目あたりにあるから。
戦時中に阪和電鉄が国鉄に吸収され、現在に至ります。



以上、大仙公園とその周辺の様子でした。
個人的な思い出も含め、楽しいお出かけになりました。