テーマパーク化する地球/東浩紀 | れぽれろのブログ

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ゲンロン叢書の第003巻、東浩紀さんの著書「テーマパーク化する地球」を読みましたので、覚書や感想などを残しておきます。


まずは自分の東浩紀さんに対する関心について。

自分は東さんの単著は「ゲンロン0-観光客の哲学-」に続いて2冊目の読書となります。自分は近年、雑誌「ゲンロン」を継続的に読んでおり、ゲンロンカフェのイベント動画も時々視聴していますが、昔から東さんをフォローし続けていたわけではありません。

自分が東浩紀なる名前を初めて知ったのは大学生のときで、当時毎月購読していた雑誌「噂の眞相」での永江朗さんによる紹介記事がたぶん最初の出会い。
1998年か99年の頃で、当時から自分は宮台真司さんのファン、同雑誌において中森明夫さんが「ミヤダイの次はアズマだ!」などと書いていたことを覚えています。
なので、東浩紀さんの著書はいずれ読まなければと思いつつ、「存在論的 郵便的」は手ごわそうなので後回しにしつつ、ゼロ年代になって「動物化するポストモダン」が出版されたときも確か書店で手に取ったことはあったと思いますが、おそらくページをめくった時点でこれは自分の関心とは違うと判断したのであろうと思われ、結局は買わず仕舞い。
なので、世紀末前後の時点で東浩紀なる名前は知っていましたが、文章にアクセスすることはありませんでした。(と、思っていましたがこれが実は認識違いだったことについてはあとで触れます。)

その後、自分の東浩紀さんへのアクセスはすべて宮台真司さん経由でした。
ビデオニュースやその他の番組・雑誌などの対談で宮台さんと対話している東さんをウォッチし、唯一読んだ本は「日本的想像力の未来」(NHKブックス)ですがこれもシンポジウムの登壇者に宮台さんがいたから、ゲンロンカフェの動画を視聴するようになったのも宮台さん経由です。
そんな自分ですが、近年急速に東さんに関心を寄せるようになってきています。
およそ20年遅れで、ミヤダイの次のアズマへようやく辿り着いた、といった感じ。
これが自分の読者としてのおよその立ち位置です。


本書の内容の覚書。

本書は5章構成で、1章がテーマパークを扱う章、2章が慰霊を扱う章、3章と5章が批評を扱う章、4章が特定の作品や人物についての批評の章でやや独立した形になっています。
多くは短めのエッセイの形を取っており、過去数年の間に雑誌などに寄稿された文章に対し書籍化にあたり加筆した形、非常にクリアで読みやすい文章ですが、内容は濃いものです。
自分は1章と2章が最も重要であると感じました。

近年世界中に様々なテーマパークが次々と形作られ、これらが各国の重要な観光資源になっている、第1章ではまずかつての満州国の都市:大連と現代のテーマパークとの近似性に触れた後、現代の様々なテーマパークを著者が訪れた経験などが書かれています。
海外の客船クルーズは日本とは違い中産階級が容易に体験できるということ、サイパンの観光地としての没落、外国人のためのリゾートと化すニセコなど、自分が知らなかったことがたくさんで、個々の記録を読むだけでも面白い。
このような資本主義や新自由主義と親和性のあるテーマパークなるものの現代的意味を考えるのがこの第1章です。
旧ソ連の原発と宇宙開発施設の崇高性(共産主義らしからぬ宗教性)についての考察も興味深いです。

第2章で扱われるのは、戦争、左翼闘争、公害、原発事故といったテーマです。
いずれも人の死や不幸についての歴史に関わる問題で、これらとの向き合い方が慰霊という言葉で表現されています。
そもそも日本人の慰霊は怨親平等(敵も味方も同じように供養する)であったこと、柏崎刈羽原発は世界一巨大で現地の作業員がその技術に誇りを持っていること、三里塚闘争の過激性は背後に満州引揚者などの土地接収に対する怒りがあること、石牟礼道子「苦界浄土」のフィクション性とそれ故の成功など、第1章に比べると取り上げられるテーマは重いです。

1章2章を通して、コミュニティを維持する上で慰霊(雑駁に言うと死者と向き合い歴史と向き合うこと)は必須、しかし現代においては慰霊という行為すらもテーマパーク的(≒資本主義的・新自由主義的)にならざるを得ないこと、慰霊の必要性とそれ単独での不可能性、テーマパーク化の不可避性が綴られているように読めます。
自分なりに強引に単純化すると、家族や共同体や国家を維持するにはその由来たる歴史が必要、歴史の背後には膨大な死者や不幸な体験がありそれを認識し受け入れることが肝要、しかし社会が複雑化した現代ではその在り様を容易に体験する手段がなく例えば戦争や原発について知るにしても出版や展示に頼る必要がある、さらには出版や展示だけでは多くの人の関心を呼ばない、関心を持たせるにはアトラクション的にならざるを得ない、出版・展示・アトラクションにはお金がかかり資本主義的にならざるを得ない、といったところでしょうか。
著者はこのテーマパーク化を否定するのではなく、むしろテーマパーク的なものを経由して慰霊に向き合うことの可能性を強調しているように読めます。

第3章は批評や哲学がどうあるべきかということが主たるテーマです。
人文学とは反復不可能な事象を扱う学問で、自然科学とは反復可能な事象を扱う学問である、超越的なものを思考する(超越論性)と超越そのものを志向する(超越性)との違い、近代日本の批評が90年代以降に辿った4つの末路(先鋭化・大学化・運動化・ゲーム化)とその失敗、など、興味深い論考がたくさん。
その中でのゲンロンの立ち位置。
病気と病院のメタファーが面白く、ある種の人は人生で何かに躓いた際に人文知を必要とする、人生が上手くいっている「健康」な人は必ずしも人文知を必要としない、人生に躓いた「病気」の人が立ち寄る「病院」に相当するのが批評・哲学であり、それに気付きを得て「治癒」された人が「病院」から抜けてまた日常に戻るのだ、という考え方は面白いです。
ゲンロンはいわば病院のようなものである、とのこと。

同時に、先鋭化・大学化・運動化・ゲーム化した批評を真っ当なものとして立て直すには読者・観客を育てることが必要、ゲンロンは読者・観客を育てる場であり、作者・登壇者と読者・観客との相互関係の中で批評や哲学が立ち上がってくる、批評・哲学はそれ単体で成り立つものではなく、非常にコミュニティ的で動的なものであるという趣旨の記述も印象的です。
このようなゲンロンなる組織を運営することの意義と困難性がまとめられているのが第5章(余談ですがこれは唯一自分が本書を読む前に事前に読んだ文章、当ブログのフォロワーの方に教えて頂き昨年の12月31日の年明け直前に読んだので非常に印象に残っています)ですが、あとがきによるとその後の代表者を変更しての運営はそれなりにうまくいっているようで、部外者ながら(?)一安心といったところです。


感じたこと。

自分は宮台真司さんのファンですので、どうしてもミヤダイ哲学の範疇で物事を考えてしまします。
テーマパーク-慰霊というキーワードはミヤダイ用語の<社会>-<世界>と近似的であるように思います。
<社会>はコミュニケーション可能なもの全体、<世界>はありとあらゆるもの全体。
<社会>は<世界>の内側に存在します。
原初的社会では<社会>と<世界>は未分化ですが、社会が成熟すると<社会>と<世界>が分化し、我々は容易には<世界>にアクセスできなくなります。
単純化すると国家・企業・学校・市場などのシステムが<社会>、その外部にあるのが<世界>です。
我々は<社会>の外部たる<世界>から得られる体験、生に対する驚きと畏怖、世界が存在することの奇跡、身体・五感を通して得られる享楽、他者とまるで心が一つになったかのような体験、このような<世界>からの訪れから疎遠になりがちですが、これらの名状し難きすごいものを通じた<世界>の経験なくしては、我々が<社会>を生きる動機付けは得られない。
同時に現代を生きる我々は<社会>を通してしか<世界>にアクセスできない、何かの体験を得るにも、貨幣を経由して市場にアクセスし、言語を経由して他者にアクセスする他に手段はありません。
<世界>体験に対する<社会>の不可避性と、<社会>維持に対する<世界>体験の不可避性が、現代社会の主要な問題です。

この考え方に対し、<世界>に「慰霊」を代入し、<社会>に「テーマパーク」を代入すると、本書は見通しがよくなるのではないかと自分は考えました。
<世界>と<社会>が未分化である原初的社会ではおそらく慰霊は生活の一部(人間は山などの自然や祖先の霊ともコミュニケーション可能)、近代社会では慰霊は日常から乖離(霊とはコミュニケーション不可能となる)しますが、自らの祖先や歴史上の死や不幸な体験を認識することなくしては、社会を健全に維持する動機付けは得られない。
資本主義の世の中では慰霊体験すらもテーマパーク的にならざるを得ない。
慰霊体験に対するテーマパーク化の不可避性と、社会維持に対する慰霊体験の不可避性。

批評・哲学についても同じ。
批評・哲学は<世界>にアクセスする手段、批評・哲学を通じて一瞬<世界>に触れたかのような手ごたえを得ることにより、<社会>たる日常・システムに舞い戻ることができる。
病院たるゲンロンは一瞬<世界>にアクセスできる場所、これにより病を忘れ日常に戻ることができる、病院のメタファーはこのように考えることができるかもしれません。
本書の豊饒さを味わうにはもっと自由に読んだ方が良いと思いますが、自分なりに一定の補助線を引くならこんな感じかと思います。
(ついでに書くと、前著の「観光」と「家族」についても同じことが言えることかもしれません。こちらはハーバーマス経由の用語<システム>と<生活世界>との比較で考えても面白いかもしれません。)


その他、各論についての感想や個人的な思い出などもあれこれと書きたくなりますが、とりあえず1つだけ。

前にも少し書きましたが自分は中学~大学生のときに筒井康隆さんの作品をずっと読んでいました。
本書によると東さんが初めて読んだ新刊の純文学作品が「虚航船団」であるとのこと、奇しくも自分も純文学らしい純文学を読んだのは「虚航船団」が最初です(自分は文庫化してからですが)。
東さんはこのことが結果的にご自身の世俗的成功を蝕んでしまった旨のことを書かれていますが、これは全く納得的で、自分も下手に異常に豊饒なメタフィクションを最初に読んでしまったが故に、普通のこじんまりした文学作品の楽しさを味わうことができるまで、ずいぶん時間がかかりました。
そういう意味でも、筒井康隆という人はなかなか罪作りな作家だなと思います 笑。

あと、自分は東さんの文章は近年まで読んだことはないと思っていましたが、なんと筒井康隆「邪眼鳥」の文庫版の解説は東さんが書かれているとのこと、この文庫は自分は買っているはずですので、実は大学生のころに自分は東さんの文章を読んでいるのだという事実を知りました。
「邪眼鳥」の文庫はたぶん実家に帰ればあるはず、今更ながら再読してみようと思っているところです。
20年前の手紙がいまさら届いたような感じで、何やらびっくりしています。
(本書の内容とは関係ありませんが、つい書きたくなったエピソードでした。)