愛国歌は可能か?(HINOMARU/RADWIMPS) | れぽれろのブログ

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RADWIMPSの「HINOMARU」なる曲が何やら物議をかもしているようです。
YouTubeでも聴けるようなので自分も聴いてみました。
日の丸をシンボル化し国家への愛着を歌う、ストレートな愛国歌です。
少し前に話題になったゆずの「ガイコクジンノトモダチ」がもう少し複雑で、フェイク感が強くアイロニカルな雰囲気も感じられるような歌詞だったのに対し、この「HINOMARU」はかなり直接的です。
RADWIMPSについては自分はほとんど詳しくなく、「君と羊と青」と「05410(ん)」しか知りません。
君の中に世界を見る、恋愛的ロマン主義ソングの作家さんが、国粋的ロマン主義に至るのは歴史上よくあるパターンです。
部分に全体を見るのがロマン主義、と前回の記事でも書きましたが、目の前の対象(例えば彼氏彼女)に世界を見る恋愛的ロマン主義と、国旗や国歌に世界を見る国粋的ロマン主義は、実は似たような構造。
20年代昭和モダン期にエロ歌謡を作っていた作家が、30年代になると途端に軍歌を作るようになる流れとも似ている、とも言えるかもしれません。

音楽系ブログの端くれ(?)として(最近音楽の記事は少ないですが)、この「HINOMARU」的なものをどう考えるか、そして現代における愛国歌は可能かについて合わせて書いてみたいと思います。
ちょっとネットを調べてみるだけでも、「HINOMARU」に対する感想は「よくやった」「嬉しい」とうものから、「危険だ」「軍国的だ」というものまで、対立しているように見えます。
自分はこの歌を規制したり排斥したりするような言説には断固反対したいですが、この歌に問題がないかというとそうではなく、問題となる要素がある楽曲ではあると思います。
別段強烈なことは歌われていませんが、なんとなく違和感があってモヤモヤするという人も多いのではないでしょうか。
その理由も含め、少しこのあたりのことを少し書いてみます。


念のため基本事項のおさらい。
まず大前提として、あらゆる表現の自由は尊重されるべきです。
表現の自由というのは、国家によって表現が規制されるべきではないということ。
国家権力によって「HINOMARU」が規制されるようなことは断じてあってはならない、もし左派でこの歌を法的に規制せよと考える人がいるなら、それは問題の大きい思考であると考えます。

次に、抑制されるべき表現があるかというと、これはあると言うべきです。
具体的には排斥的な表現、特定の何か(人種・国家・民族・宗教・思想・病・ジェンダーなど、とくに弱者に対して)を排斥しようとする表現は、少なくとも現在は行うべきではありません。
簡単に言うと、ヘイトはダメということ。
これらは大前提として表現者自身、あるいは出版社やレコード会社が自主的に自重しなければならない(表現者は内面で思うのは勝手だが、公共の場で表出するべきではない)ことです。
国家権力による法的規制は上述の通りできる限り発動されるべきではなく(国家権力の暴走の方が脅威)、表現者・出版社・レコード会社等は行き過ぎに気を付けながら、注意深く自主的に抑制する必要があります。
抑制は最小限にとどめるべきだし、なんでも自主規制することは逆に良き表現を埋もれさせる危険性があります。
政権批判や経済界批判のような表現は当然は許容されるべき(こういうのは排斥的表現とはいえない)だし、逆にヘイト的なものを批判するような表現は許容されるべきです。(排斥的なものに対する排斥は、やりすぎに注意しながら認めるべき。)
この点、出版社やレコード会社には強いバランス感覚が求められます。
そういう意味で「HINOMARU」はヘイト的な表現では全くなく、規制されるべき表現ではないと考えます。


本題、なぜ「HINOMARU」の歌詞に批判が噴出するのか。
ポイントはまず、表現に対する快/不快の問題があります。
あらゆる表現は誰かを喜ばせると同時に、誰かを不快にさせる可能性を持っています。
全く誰も傷つけない表現は原理的に不可能。
恋愛の喜びを歌う歌は、恋愛にコミットできない人を不快にさせます。
家族の絆を歌う歌は、不幸な家族のもとで育った人を不快にさせます。
ロック最高!という表現は、ロックにのれない人を不快にさせるかもしれません。
これは構造的に仕方のないことで、誰かを不快にさせることを気にしすぎては、表現者は表現できません。
誰も傷つけない詩があったとしたら、それはほとんど言葉遊びかナンセンスソングのようなものでしかありえません。
しかし同時に、表現者は常に自分の表現が誰かを傷つける可能性があることについて、自覚的であるべきだと自分は考えます。

愛国を表現する類の歌は、とりわけこの快/不快の問題について困難な課題を抱えます。
恋愛、家族、ロックといったものであれば、鑑賞者は不快に思ったとしても突き放して考えることができます。
私は恋愛なんてしない、私は家族なんてなくても一人で生きていける、私はロックなんて聞かない、などと言った感じで対象をスルーできます。
国家の場合はそうはいかないという構造があります。
我々はどこかの国家のもとで、その国の国民として生きるほかなく、その国から出て行ったりすることは容易ではなく、簡単に突き放したりスルーできないものです。
日の丸は複雑な歴史を歩んできた国旗であり、「HINOMARU」に登場する「御国」「御霊」などいくつかの言葉のチョイスも戦時体制を想起させるものです。
現代日本に暮らすが故に、あるいは日本が好きだから故に、このような歌詞は簡単には許容できないという思いも理解できます。
凡百の恋愛ソングにあまり批判が出ず、「HINOMARU」に批判が集中したり、一部の人がこの歌詞にモヤモヤを感じるのは、このような背景・構造があるのではないかと考えます。

さらに、作品が作家の意図を越えて暴走することへの不安も、批判の背景にあるようにも感じます。
作品が社会に普及し、影響を与え、社会の空気感が変わることに対する漠然とした不安。
「HINOMARU」のクリエイターは、謝罪として、「HINOMARUの歌詞について軍歌だという人がいました。そのような意図は書いていた時も書き終わった今も1ミリもありません。」と述べています。
「~の意図はなかった」などという言説はよく耳にする定型句ですが、作者の意図より作品自体が重要、意図があったかなかったかはあまり関係はありません。
作品は作者の意図を越えて広まっていくもの、時間をかけて時代を経て作品は作者の手を離れ、作者が考えもしなかった形で誰かに影響を与えたり誰かを不快にさせたりするものです。
優れた表現者は、このような作品のもつ普遍的な構造に自覚的であり、これを踏まえて物事を表現しようとします。

作品は作者の手を離れます。
上記の謝罪に「みんなが一つになれるような歌が作りたかったです。」とありますが、クリエイターの意図に反して、現実に「HINOMARU」に共感できる人/できない人の分断が起きています。
この意図がクリエイターの本心なら、これは表現としての失敗を意味します。
さらに作品が暴走し、「HINOMARU」に共感する人が共感できない人を排斥したり、
国家権力(乃至は権力的なもの)が「HINOMARU」をシンボリックに祭り上げ、統制のツールとして利用しようとする事態に至るなら、最悪です。
そこまで至る可能性は薄いですし、こうなってしまうかどうかは「HINOMARU」のクリエイターの責任というよりも我々の社会の側の問題ですが、「HINOMARU」に反感を持つ人が直観的にこのような事態を懸念する気持ちは自分にも理解できます。
多くの人に共感してもらいたいなら、クリエイターはこの点をまず想像しなければならず、想像できないなら少し素朴すぎると思いますし、であれば愛国歌のような困難な課題には取り組まない方が無難。
上述の通り表現の自由は許容されるべきなので、クリエイターは何を作ろうが、「日本を好きで何が悪い」と叫ぼうが自由ですが、表現としては多くの人(≒「みんな」)には届かない。
愛国歌はそれほど難しいものだと自分は考えます。


では、愛国歌は果たして可能でしょうか?
自分は愛国歌のようなものはあってもいいとは思いますが、上述の通り誰もが乗れる歌を作ることは原理的には不可能です。
「みんなが一つになれる」(この言葉自体直ちに総動員体制を想起させる)ことは不可能だし、その強要は直ちに排斥に直結します。
しかし、分断を生みにくい、国家権力(乃至は権力的なもの)に政治的に利用されにくい表現は可能です。

自分は多様性の許容がキーだと考えます。
グローバル化の昨今、多様性に対する配慮は不可欠、愛国心を多くの人に届けたいなら、多様性の配慮を歌に盛り込むのが有効なのではないか。
上述のクリエイターの文言、「戦争が嫌いです。暴力が嫌いです。どんな国のどんな人種の人たちとも手を取り合いたいです。」
であれば、そのことを合わせて詩に盛り込むことが必要なのではないか。
この言葉が本心なら、多様性の許容ともリンクする、受け入れられやすい内容です。
愛国歌を考える上で、自分はこのあたりのことがキーポイントなのではないかと考えます。

愛国歌を考えることは、日本のどこがいいのか、日本を客観視しどういう国なのかを考えるきっかけにもつながります。
現代的な多様性にリンクする形で、日本の特徴を捉え、歌にする、このような試みはあっても良いと自分は思います。
その際に、シンボリックなもの(日の丸や君が代等)を利用することは分断にリンクしがちです。
個人的には日の丸はいいデザインだと思いますし、君が代の独特のメロディ(諸外国の国歌と比べてもかなり面白い音楽だと思います)は好きですし、変なものに変えるくらいならこのままの方が良いと思います。
しかし、近代における君が代は明確に天皇の歌ですし(現在この「君」を単なる二人称(あなた、you)と解釈するのは困難)、日の丸も君が代も戦時体制とリンクする、様々な歴史を背負ったシンボルなので、安易な取り扱いは避けた方がよい。
本当に日本が好きなら、日の丸等のシンボルにすがるのではなく、曖昧な記号的語句を弄ぶのでもなく、多様性に配慮しながら、日本の良いと思えるところを、適切に言葉にすることが大切ではないかと考えます。
(繰り返しますが、これは非常に難しいことです。)


なんとなく日本らしい特徴と思うところ、良いと思えるころを自分なりに無難に(?)列挙してみます。

・もったいないと感じる心、大切にする心
   (海と山と森に囲まれた狭隘な国土、限られた可住地域、

    生産性の低さからくる些末なものへの愛着)

・八百万の神さま、ご先祖様を大切に
   (南方島嶼文化の北限、近代に残るアニミズム、

    強い信仰ではなく緩い信心)

・死ねばみんなが仏様、魂の平等
   (頻発する災害、地震・強風・豪雨・豪雪、

    死と隣り合わせの国土が齎す死生観)

・先進文化を受け入れ、咀嚼し、自分たちのものにする
   (大陸文化の最果て、シルクロードの東端、

    技術・思想・宗教etcの合理的受容)

・きれい、かわいい、かっこいい
   (意味より感性、論理より共感、全体より些末、

    装飾・デフォルメ・デザイン、アンチ物語としての普遍的文化)

・頑張る、工夫する、仲間を大切にする、楽しく生きる
   (中世以前の不安定な統治、相次ぐ戦乱・災害と復興、共同体自治、

    近世250年の自治ベースでの緩やかで平和な統治)

・難しい課題をなんとか乗り越えてきた近代150年
   (植民地化の回避、非欧米圏で最速の近代化、

    帝国主義化とその挫折(敗戦)、再近代化の成功(戦後復興))

・現代世界の難題を乗り越え未来につなぐ場所
   (近代の実験国家、累積する問題、世界の課題先進国、

    新たな社会を世界に先んじて構築する可能性)


できるだけ客観的に並べてみました。
かなりおおざっぱですし、各項目には裏面としての悪いところもあるし、他国にも普通にある要素もたくさんありますし、個人としては嫌いな(笑)項目もあります。
これらは自分が考えるだけのことなので、認識違いもあるかもしれず、もっと議論が必要なことでもありますし、そもそもみんなが納得することは不可能です。
しかし、これらのことをグローバル時代における多様性とリンクさせるような歌があれば聴いてみたいし、完成度の高いものなら、ある種の愛国歌として普及することもあってもいいのではないかと考えます。