宮台真司のアート論 (デイキャッチャーズボイス) | れぽれろのブログ

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何度か書いていますが、自分は首都大学東京教授の社会学者、宮台真司さんのファンです。
単著は8割方読んでおり、インターネット放送局ビデオニュース・ドットコムの番組
「マル激トーク・オン・ディマンド」は10年以上に渡り毎週視聴、TBSラジオ「デイ・キャッチ」の金曜日放送分も、ほぼ毎週ポッドキャストで聴いています。
マル激は有料番組ですが、デイ・キャッチのポッドキャストは無料、誰でも聴くことができます。

6月1日の「デイキャッチャーズボイス」のコーナーでは、アート論が取り上げられていました。
この日のテーマは、「美術館が作品を売却する、リーディングミュージアム構想を斬る」というものですが、話はそれだけにとどまらず、アート(≒芸術)とは何かということが、アートを巡る歴史とともに語られる、興味深いものになっています。
アートなるものの概要が約10分で理解できるという優れもの。
かなり面白いと思いますので、ご紹介したいと思います。

YouTubeにアップされています。


ご興味のある方は聴いてみてください。

本論はミヤダイファンにとっては何度も読んだり聞いたりしたことのあるお話ですが、なかなか早口で難しく、初見の方は要点が捉えにくいかもしれません。
そもそもこのテーマ自体、本来は相当に難解で規定が難しいもの。
ということで、アート系ブログの端くれである(?)当ブログの視点から、このお話について、自分の感想なども織り交ぜつつ、自分なりに補足、コメントしてみたいと思います。(以下「本論」とあるのは、宮台さんのお話のことです。)


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まず出だしからリーディングミュージアム構想について語られていますが、これは触り。
本題は2分あたりから、アートの定義と歴史が語られます。
キーワードは、
 「娯楽」と「アート」、
 「古典派」と「ロマン派」、
 「アートのためのアート」と「広く開かれたアート」、
の3つです。
本論ではいずれも前者が否定され、後者が称揚されています。


まず2分20秒あたりから、娯楽/アートについて。
娯楽作品はシャワーを浴びるように体験することができ、リフレッシュ後そのまま日常に帰ることのできる作品、いわゆるレクリエーションです。
それに対し、アート作品から得られるのは一度触れたら元に戻れない体験、鑑賞者は深く傷つけられ、日常が変容する、もはや元の日常を日常として体験できなくなります。
このような体験を与えるものこそがアートである。
アートを鑑賞すると、人間がバージョンアップし、生き方が変化します。

例として印象派の画家モネの作品があげられています。
補足すると、モネは外光をそのまま、見えたままの色をキャンバスに写し取る手法(印象主義)を貫いた作家で、その手法は写実主義の延長上にあります。
光・色のリアリティ(見えたまま)を写実的にキャンバスに写し取る(見えたままの色を置く)と、形態は曖昧化します。
逆に言えば、従来の写実主義的表現が色彩のリアリティを犠牲にして成り立っている(遠近法は遠くと近くの明暗を誇張することにより成り立つ)ことが分かります。
形態のリアリティと色彩のリアリティは、二次元平面上では両立困難である。
このことを知ると絵画の見方が変わり、同時に日常における外光の見方が変わります。
このような体験を与えてくれるのがモネの作品です。
同時に、単にぼんやりとモネの絵を見るだけではこのことは分からず、能動的に作品を鑑賞し、作品解説に触れ、考えることにより、初めてこのような理解に及びます。
なので、娯楽/アートの分岐は、受容側の行為態度により変わります。
アート体験になりうるのか、娯楽体験に留まるのかの差異は、受容論としての側面も大きいと自分は考えます。


続いて3分20秒あたりから、古典派/ロマン派のお話。
主として18世紀以前、王様や貴族のために作品を制作するのが古典派です。
17世紀スペイン(絶対王政期)のベラスケスのような宮廷画家、18世紀ウィーン(啓蒙専制君主期)のモーツァルトのような宮廷音楽家が、例として挙げられています。(ベラスケスは絵画史的には古典主義ではなくバロックの画家ですが、広義にロマン派以前と考えるとよいと思います。)
つまり、王様や貴族を満足させるためのもの、娯楽・レクリエーション的要素が強かったものが、古典派(ロマン派以前)の芸術です。

産業革命・市民革命を経た19世紀以降、アートの主たる消費者は王様・貴族ではなく、ブルジョワジーに移行します。
ブルジョワジーに作品を売り込むために、作品に付加価値を付ける、アーティストのブローカーはその作品のすごさを強調し、作品を売り込みます。
これにより生まれるのがロマン派です。
部分を全体化し、内在を超越化し、俗なるものを聖化し、作品の中に世界を見出す(スゴイ体験を与える)のがロマン派芸術。
「交響曲は世界のようでなければならない」(マーラー)
ロマン派作品は、鑑賞者に世界体験の見直しを迫ります。
鑑賞したものは世界の見方が変わり、生き方が変わる、まさに本論前段のアートの定義そのものです。

「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」(シューマンによるショパン評)
「なんとすばらしい頭脳と手腕による彼の表現、私の彼に対する尊敬と信頼は口では表すことができない」(ドラクロワによるジェリコー評)
このようにロマン派時代以降、ブローカーが作品を売り込むために、盛んに作品価値を吊り上げることが行われます。
作品価値は実はある種のハッタリと紙一重。
本論では明確には語られていませんが、近年のアートバブル(作品価格の高騰)や、本論冒頭のリーディングミュージアムの話も、ここに結びつきます。
19世紀以降のロマン派的アートは社会の経済化・ブルジョワジー化と共にあり、単なる経済活動と紙一重(むしろその中から生まれた)であるという側面も重要。
しかし本論ではロマン派的な作品とその作品体験自体をまず称揚しており、自分もその価値観には賛同したいです。


最後のテーマは6分30秒あたりから。
本論では明確にキーワードは設定されていませんが、自分なりに二項対立化すると、「アートのためのアート」と「広く開かれたアート」と言ったところでしょうか。
19世紀以降20世紀中盤にかけて、アートは一世代前の表現を乗り越える形で進化していきます。
古典主義、ロマン主義、写実主義、印象主義、表現主義、フォービスム、キュビスム、抽象主義、シュルレアリスム、ダダイズム、抽象表現主義、モダニズム、ポストモダニズム、反芸術・・・。
一世代前の○○主義を超克するための作品、芸術のための芸術、アートのためのアートが増大し、アートは第三者には分かりにくい、マニアックで難解なものになっていきます。

美術館に便器を設置して「泉」と名付けたデュシャン、これはまさに作品のための作品と言えます。
ポロックの作品はロマン派的価値の吊り上げの末路のような作品、当時のアメリカの批評家(グリーンバーグら)によりしきりに価値づけがなされました。
ポロックのアクションペインティング(ポーリング)作品は、単に塗料をぶちまけたような、はた目から見ると支離滅裂で意味不明な作品(猿が描いたような絵)にみえます。
ポロックの作品は、セザンヌを乗り越えるためのキュビスム、を乗り越えるための抽象主義、を乗り越えるための抽象表現主義であり、同時に、ゴッホを乗り越えるための表現主義、を乗り越えるためのシュルレアリスム、を乗り越えるための抽象表現主義でもあり、抽象とシュルレアリスムの折衷と超克であるのですが、はたから見れば意味不明。
このような袋小路化・マニア化が著しく進行したのがアメリカを中心とした戦後のアート界です。(本論では60年代と解説されていますが、厳密にはポロックは50年代に亡くなっており、広くは60年代以前の傾向でもあります。)

本論ではこのような袋小路化・マニア化した、アートのためのアート(本論で言うところの「美術手帖」的なもの)を否定、マニアのための作品ではなく、広くアートマニア以外に開かれた、ロマン派的体験を与えるような作品を称揚しています。
作品そのものについてもそうだと思いますが、批評家の行為態度がより重要だと自分は考えます。
優れた批評家は、作品が内包する面白さについて語り、社会との関わりを語り、世界における作品の意味について語り、鑑賞者に世界体験(≒鑑賞者を傷つける体験)を与えるきっかけを作ります。
作品批評を行う場合、単なるマニア向けの言説(蘊蓄競争、批評のための批評)に
堕すことは戒められなければならず、このような批評は作品体験の幅を狭めることに繋がりがちであり、社会に与える影響度合いの縮小、ひいてはそのジャンル自体の衰弱に繋がるように感じます。


以上、自分なりにまとめると、

「娯楽」より「アート」、
楽しいだけのものは単なる娯楽、鑑賞者を傷つける体験を与えるものこそがアートである。

「古典派」より「ロマン派」、
現代的アートは19世紀以降のロマン派に由来、経済活動のためのハッタリに由来するが、それを越えて、鑑賞者の世界体験を変化させる可能性をも持つものでもある。

「アートのためのアート」より「広く開かれたアート」、
マニア向けの閉じた作品・作品批評ばかりになれば、鑑賞者の絶対数を減らしジャンルを縮小させることになる。

・・・といった感じでしょうか。


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さて、本論でディスられている(?)、ベラスケス、モーツァルト、ポロックですが、彼らは当ブログでもおなじみの作家たち。
個人的に好きなアーティストなので、一応補足しておきたいと思います。

ベラスケスは17世紀バロックの作家で、それ以前(ルネサンス期)の均整の取れた構図と比較して、より動的でダイナミックな構図で制作する等、幅広く革新的な画面を作り出した作家。
自分が考えるベラスケスの最大の特徴はその筆致です。
絵に近づいて見ると曖昧模糊とした絵の具のかたまりですが、少し離れてみるとしっかりとした物の形に見えます。
とくに後期の肖像画にこのような傾向が強く、絵画を鑑賞する強度に溢れ、ベラスケスの実物を鑑賞すると絵画作品全般の見方が変わります。
ベラスケスの作品「ラス・メニーナス」(侍女たち)は、モデル側から見た視界を絵画化するという試み(描かれる人間から見えたものを描く)で、これまた二次元平面と世界との関わりについて考えさせられる、面白い作品です。
世界の見方が変わる、ベラスケスは本論で言うロマン派的文脈でも享受できる作家であり、ゴヤやピカソなどロマン派以降の作家に大きな影響を与えた作家でもあります。

モーツァルトはフランス革命直前のウィーンで活躍した音楽家、古典派的なものとロココ的なものの完成形であり、それらの頂点に位置するような作家であり、後にベートーヴェンやワーグナーなどのロマン派以降の作家に多大な影響を与えた音楽家です。
ロマン派的なものとの関わりで言えば、とくにオペラが重要です。
世界は猥雑であり、色欲に対し抗いがたいのが人間の在り様。
一見新興ブルジョワジー的道徳を称揚しているようにみせつつ、貴族的放蕩や庶民的猥雑さが世界の本来的な在り様だとしてこっそり肯定・擁護される。
このような世界の在り様を音楽の力で表現し、深く納得させるのがモーツァルトオペラの本領です。
モーツァルトに触れると19世紀の凡庸な悲劇オペラが単なる娯楽に感じられ、古典派喜劇の裏の意図こそがアート的であるという逆説をも感じられるようになります。

ベラスケスにせよモーツァルトにせよ、19世紀以降のロマン派以降に再発見・再定義され、ロマン派的に享受され、現在も様々な解釈が続けられている作家です。
宮廷画家・宮廷音楽家の枠を超え、時代を越えて、本論で言うロマン派的なものとしても鑑賞できる、非常に面白い作家だと思います。

ポロックは上にも補足した通り、19世紀以降のロマン派の末路としてのモダニズム芸術の作家です。
しかし、多くの抽象作品と比較してみると、同じ猿絵でも、凡百の猿絵とは一線を画す強度を持っています。
ポロックは床に画布を置き、どのように塗料を垂らすと面白いかを計画・検討、インクの容器に刷毛を入れ、刷毛でインクをピチャッと飛ばす。これを繰り返す。
絵の具が思わぬ方向に飛散したり、いろんな偶然が重なり、結果、えもいわれぬ形ができあがる(管理された偶然性)。
描かれた形状はポロックの主張や意志表明などではなく、偶然を介して、世界がそのまま立ち現われてくるような雰囲気を持っています。
実物を見るとポロックの絵画は非常に大きく、その大きい絵画を全体的に俯瞰してみると独特の感触と迫力が感じられ、同時に細部のインクの色の多様な重なり具合を見るのがまた快楽に満ちる、絵に近づいたり離れたりしながら、ずっと画面を見入ってしまうような作品でもあります。
アートのためのアートであるという側面と、偶然性(≒デタラメな世界)の痕跡としての面白さが感じられるアートという側面と、両方が感じられるのがポロックの面白いところです。


総じて、自分は受容論が大切だと考えます。
娯楽的なものであっても、その作品から何かを考え、社会や世界との関連を見出したとき、日常は変容し、作品鑑賞はアート体験に変わります。
このようなことを考えながらアート作品を鑑賞し、体験し、語り合うのもまた面白いもの。
そのときに、単なる蘊蓄やマニア的なものに堕すのは非生産的なので、注意しなければならない。
難解なことではありますが、このようなこと考えつつ、宮台さんのお話を参照しながらアート作品に触れてみても、また新たな発見があって面白いかもしれません。