安芸を歩く② -広島平和記念公園とその周辺- | れぽれろのブログ

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4日間の広島旅行。
4月29日の夕方から5月1日にかけて、広島市の中心部を歩いてきました。
広島市と言えばやはり平和記念公園です。
今回は平和記念公園とその周辺について、覚書と写真などを残しておきます。

広島市は広島県の西部にある都市。
太田川の下流に発生した都市で、現在の広島市の中心部(中区)の大部分は元々は海でした。
中世は武田氏の所領、戦国期に毛利氏の領地となり、毛利輝元が広島城を築城、太田川河口を干拓し、現在の形の都市ができたとされます。
その後、関ケ原の戦いでの西軍の敗北により、広島の地は毛利氏から福島氏を経て最終的に浅野氏の所領となります。
明治期以降は宇品港の建設を経て軍都となり、日清戦争時には大本営が設置され、明治天皇をはじめ政治家たちが広島で政務に当たりました。
明治以降の150年間で、首都機能が東京以外に移されたのは、唯一広島市のみです。
そして1945年8月6日、米軍により原子爆弾が投下され、広島市は軍事都市から一転して平和都市としての道を歩むことになります。

被爆体験は不幸な歴史ですが、現在の広島市を考える上で原爆は切り離せません。
平和記念公園はやはりまず訪れる必要のある場所。
緑豊かな雰囲気の良い公園、展示資料やモニュメントは多岐に渡り、網羅的に鑑賞するにはそれなりの時間を要します。
自分は今回の広島市滞在の多くの時間を、この公園とその周辺で過ごしました。


(1)平和記念資料館

有名な本館は現在改修工事中です。

免震構造に変更するのだそうです。
ピロティ式の建築物なので、地震に耐える構造にするのは大変そう。


こちらが東館。

現在、展示はすべてこちらの東館に移されています。
外国人の観光客も多く、中は混雑していました。

1階は主として新着展示と、原爆の人体への被害を中心とした展示で、こちらは無料。
2階・3階は原爆投下に至る核技術と戦争の歴史、及び、軍事都市から平和都市へと変遷する広島市の歴史が展示されており、こちらは有料となります。
通常のパネル展示と合わせて、タッチパネルディスプレイによるより詳細な解説に触れることができるスペースもあります。
ディスプレイの数は限られており、混雑しているとなかなか自分の番が回ってきませんが、このデイスプレイの詳細解説が重要です。

展示内容は多岐にわたりますが、2点ほど所感を書いておきます。

1つ目は人体への被害。
原爆による人体への被害は、熱線・爆風・放射線に分けて考えることができます。
まず熱線による高熱で、爆心地付近では大火傷を負います。
続いて爆風による外的損傷、建物の倒壊やパーツの飛散などにより外的な損傷を負います。
最後が放射線障害、被爆後数週間後から症状が発生し、急性白血病などにより亡くなるパターン、そして数年から数十年を経てその他のがんに侵されるパターンもあります。
爆心地付近では身体損傷を避けることは困難ですが、ある程度爆心地から距離があれば、コンクリートなどの強固な建物に身を隠すことにより、一時的な熱線・爆風・放射線から一定程度身を守ることができることが分かります。
50年代アメリカの核兵器から身を守るための宣伝映画「duck and cover」(建物の影に移動ししゃがんで身を守る)や、昨年来日本で実施されているduck and coverを推奨するミサイル防護訓練は馬鹿馬鹿しいものではありますが、原爆の展示を見ていると、一次被害を最小化するための一定程度の合理性はあることが分かります。
(当然のことながら、ミサイル投下に至るような紛争を回避するための外交的努力が最重要であり、国民に訓練を強いる時点で既に政治的敗北であることは言うまでもありません。)

もう1つ、近畿出身者として気になるのが、京都への空爆の話。
米軍が京都に空爆を行わず、京都市が空襲を免れたのは、米軍による文化財保護説や原爆ターゲット説などを耳にしますが、今回の展示資料(米軍の文書など)でその経緯がそれなりに理解できました。
京都は広島・小倉・横浜・新潟と合わせて、明確に原爆の投下予定地でした。
京都が空襲を免れたのは原爆の効果を確認するために、都市機能を温存する目的によります。
しかしその後、横浜が現地判断で空襲を受けた(これにより横浜は原爆のターゲットからは外された)ように、空襲を受ける/受けないは紙一重の判断であったようです。
最終的に原爆投下地が広島と小倉に絞られ、京都がターゲットから外されたのは、天皇制存置と同じ理由、つまり、近世以前の首都であり天皇の居所であった古都の破壊による日本人の精神的反発を回避し、戦後の占領政策をスムーズに進めるための、米軍の最終局面での実利的な判断であったようです。
そして広島への原爆投下、小倉は8月9日に曇天であったため急遽長崎に変更され、長崎への原爆投下。
京都の空襲回避、原爆投下回避は、偶然性に左右されるギリギリの回避であったようです。


(2)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

平和記念資料館東館から少し北側に向かうと、原爆死没者の追悼のための祈念館があります。

円形のデザイン。



入口。


こちらの記念館では、原爆死没者の名前と遺影の展示と合わせて、被爆に関わる文書・写真・音声・映像などを視聴することができます。
被爆体験の聴き取り調査による証言映像がアーカイブスのメイン。
映像はパソコンで視聴できますが、早送りや時間指定ができないため、ずっと視聴しているとどんどん時間が経っていきます。
たいへん重要なアーカイブスですが、検索方法の改善や、映像を途中から再生できるようにする等、現代の動画再生の方式に合わせた見直しは必要であるようにも思います。


(3)原爆死没者慰霊碑

建築家丹下健三による有名なアーチのオブジェ。

献花のために列を成す人たち。



「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」

「過ち」の主体は、人類全体であり、アメリカであり、日本でもあります。
愚かな兵器を開発した米軍及び人類全体を指すのと同時に、愚策でしかない戦争を遂行した近代日本の戦略性のなさへの戒めとして捉えられるべきです。
核兵器投下という過ちは、あらゆる手段を用いて繰り返しを阻止せねばなりません。


慰霊碑の後ろ側は池になっており、涼しげです。

この写真では分かりにくいですが、池の奥では「平和の灯」が燃えています。


(4)原爆の子の像

池の北側には、原爆の子の像があります。

被爆10年後に白血病で亡くなった女の子の像とのこと。
周囲には彼女のための千羽鶴が収納されています。

1人の死は悲劇だが多数の死は統計だ、などと言われます。
被爆による死者は十数万人とも言われますので、彼女以外にも死傷者は多数いたはずですが、1人の死のシンボリックな悲劇化は、やはり事件の記憶化としては有効なのだと感じます。


上部と左右に3体の像が。







(5)公園の様子・その他の碑など

公園内は緑が多く、清々しくて良い雰囲気です。


現在の平和記念公園のあった場所は、元々は中島地区と言われ、太田川の中州(島)で、歓楽街であったようです。
原爆で街が壊滅し、その後を公園として利用したのだとか。


色々な像や記念碑がたくさん。

こちらは祈りの像。

ひろく第2次大戦の犠牲者の慰霊のための碑であるとのこと。


平和の鐘。

つくこともできます。
観光客が鐘をつくことにより、公園内にときどきゴーンと低い音が響き渡ります。


平和の泉。

ライオンの口から水が出ます。
ここだけ急に銭湯のような雰囲気です 笑。


韓国人原爆犠牲者慰霊碑。

解説によると在日韓国人の被爆による死者は2万人とも言われるようです。
韓国人の死者については、毎年8月5日に慰霊が行われるのだとか。
(8月6日に同時に行えばよいような気もしますが。)


(6)原爆ドーム

公園の北東、相生橋の東側に原爆ドームがありました。

公園内(西側)から撮影した写真。



こちらは公園外(東側)から。


爆心地のすぐそばにあった建物ですが、煉瓦・鉄骨造りのため、全壊は免れたようです。
元々は産業奨励館として使用されていたようですが、現在は原爆による被害の象徴とされる建物、なんとも数奇な運命を辿った建築物です。


よくみると細部は今にも崩れそう。





倒壊しないように補修が施されているようにも見えます。


原爆ドームの前に、突然現れる鈴木三重吉の像。

明治~昭和初期の童話作家。
雑誌「赤い鳥」の創刊者として有名な方です。
広島県出身とのことで、像が造られているようです。


(7)レストハウス

原爆ドームの南側にあるレストハウス。

これも倒壊を免れた建物で、補修を行いつつ現代まで使用されている建物です。
元々は呉服店だったようですが、今は観光案内&休憩所として使用されている様子。
自分が訪れた日は補修中とのことで、中に入れませんでした、残念。


(8)爆心地

原爆の爆心地は、原爆ドームの南東にあります。

島内科医院。

被爆当時も島病院という病院があったとのことで、代替わりをしながら現在も営業している病院のようです。
この病院の真上約600メートルのところで爆発したため、当然病院は全壊。
お医者さんは往診のため不在で、そのため一命をとりとめたのだとか。


(9)おりづるタワー

原爆ドームのすぐ東側は広島の物産館になっています。

広島のお土産物などが販売されています。


物産館の奥はおりづるタワーという建物。



平和記念公園周辺を一望できる建物になっています。
せっかくなので、このタワーにのぼってみることにしました。
チケットを購入し、入場。

おりづるタワーは12階建ての建物、12階の展望台までは、らせん状のスロープを歩いて上がることも、エレベーターで直通することもできます。
自分は歩いて上ることにしました。
自分が訪れた日は、12階までの通路の壁にはイラストが掲示されており、被爆から戦後復興を経て現在に至る一広島市民の人生が、広島市の風景と共に描かれていました。


最上階はこんな感じ。



天井にはお花。


周辺の風景を楽しむことができます。

上から見た原爆ドーム。



こちらは相生橋。

橋の中央左側から小さな橋が出ている珍しい形。
橋の左側が平和記念公園になっています。
この橋のT字型の特異な形は上空からでも把握しやすく、原爆を投下した飛行士はこの相生橋の位置を目安にしたのだそうです。


北側には旧広島市民球場跡地。

広島カープのかつての本拠地です。
今はマツダスタジアムが新しいカープの本拠地になったとのことで、旧市民球場跡地は現在は催し物の会場となっています。
この日は「肉フェス」なるイベントが開催されていました。(自分は未訪問)
写真をよく見ると、中央奥に外野席が一部保存されていることが分かります。
(広島カープについては次回の記事でまた触れます。)

この他、おりづるタワーではコンピューターグラフィックを使用したアートや、体験コーナーなども用意されています。
1945年、1957年、2016年の周辺の映像をパノラマで鑑賞出来たり、見どころはいろいろ。

自分はタワー内の握手カフェという喫茶店で、握手バーガーセットなるものを頂きました。
ビッグサイズのハンバーガーで、ハンバーグ、チーズ、ベーコン、オニオン、トマト、ピクルス、目玉焼きがうず高く積み上がってます。
齧るのは不可能(笑)なので、ナイフとフォークで頂きました。
ポテトチップスとドリンク付きのセットです。
ポテチがついてくるのはカルビーの本拠地だからかな?

なお、おりづるタワーの入場料はそれなりに高めです。
握手バーガーセットも美味しかったですが、値段はマクドナルド等の倍以上します。
お財布と相談して入場する必要あり。


タワーから見下ろすと、ちょうどデモ隊が。

安倍・トランプ反対デモですが、意外と人数は少なめ。
平和記念公園の展示を見た後なので、主張に賛同したくなってきます。


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ということで、平和記念公園とその周辺でした。
ダークツーリズムの成功、というと悪いイメージに聞こえるかもしれませんが、広島市は負の遺産を観光資源としてかなり有効に利用しているように思います。
戦争・災害・公害・事故などの記憶を承継し、文化資源化することは悪いことではありません。
このあたりは、他の都市も参考にできるところがあるようにも思います。


広島市のみどころは原爆関連だけではありません。
次回はその他の広島市の観光スポットなどについて、記事化する予定です。