オペラ「魔笛」(ベルリン・コーミッシェ・オーパー) | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

少し遅くなりましたが、4月14日の土曜日、ドイツの歌劇場であるベルリン・コーミッシェ・オーパー(ベルリン国立歌劇場)の来日公演を見に行きましたので、覚書を残しておきます。

今回の来日公演は東京・広島・兵庫と3拠点をまわる連続公演。
関西では兵庫県立芸術文化センターでの公演となります。
4月14日は昼夜2回の連続公演で、昼夜で指揮者と歌手が異なります。
自分は14時開始のチケットを取った・・・と思っていたのですが、出かける前にチケットを見ると、19時開始となっています。
危うく間違えて出かけるところだった・・・。
一旦仕切り直し夕方に出発、夕食を取ってから会場に向かいました。

「魔笛」はモーツァルト最晩年の大衆向け歌芝居(ジングシュピール)。
描かれるのはファンタジーの世界で、神官ザラストロと夜の女王の対立に、王子タミーノと王女パミーナの恋愛が絡み合い、鳥刺し男パパゲーノがその騒動に巻き込まれる、といったお話。
1791年の作品ですので、フランス革命(1789年)は既に勃発しています。
旧勢力(夜の女王)と革命勢力(ザラストロ)が対立し、ブルジョワジー(タミーノ)は前者への従属から後者の支援へ、一方下層大衆(パパゲーノ)は対立とは無関係に生きる、といった当時の世相の寓意とも読むことのできる、楽しいオペラです。
とにかく音楽が素晴らしく、悪人・三枚目・脇役の方がより魅力的な音楽になっているのもモーツァルトらしい気がします。
夜の女王、パパゲーノ、パパゲーナ、三人の侍女、三人の童子の音楽はどれも楽しい音楽。
コミカルさと神聖さが同居する、何とも不思議で魅力的なオペラです。

この日の指揮はジョーダン・デ・スーザという方。
演出家はバリー・コスキーとスザン・アンドレイドの2名。
海外の引っ越し公演は演出が非常に楽しみです。
どんな演出で作品を見せてくれるのか・・・?


---

今回の演出は、白い壁面にプロジェクターでアニメーションを投影するという方式でした。
舞台上には白い壁面があるのみ。
壁面には高低様々な場所に回転式ドアが設置されており、そこから演者(歌手)が登場します。
終始アニメーションが投影される形式ですので、場面により舞台の様相は大幅に変わります。
演者は主としてスーツ姿で、モダンな衣装です。
先日訪れた神戸ファッション美術館での展示を思い返すと、パミーナは1920年代風の衣装(モンパルナスのキキの雰囲気を思い出します)ですので、演出上の舞台は20世紀戦間期という設定なのかもしれません。
各人には動物のイメージが重ねられ、パパゲーノには黒猫、三人の童子には蝶が付いて回り、ザラストロは象、夜の女王は蜘蛛の雰囲気と共に登場します。
タミーノの笛は羽の生えた妖精で表され、パパゲーノの鈴は足の生えた箱から出てくる複数の赤頭巾と女性の足という不思議なもので表されています。
これらがすべて映像で表現されるのが今回の演出の面白いところです。

投影される映像はおしゃれな感じもあり、不気味な感じもあり、コミカルな感じもあり、可愛げもあるという不思議なもの。
ドイツ的なアニメーションというと一般的にこんな感じになるのかな?
映像の雰囲気はモダン風だったり、中世風だったり、アールヌーヴォー風だったり、メカ的だったりで、全体的な統一感よりも、個別場面の映像的面白さが追求されているように感じます。
映像はあまりコンセプチュアルな感じはせず、寓意性や意味性は薄いです。
3年前に鑑賞した英国ロイヤルオペラの「ドン・ジョヴァンニ」も一部プロジェクターを利用していましたが、こちらはレポレロのカタログを投影して演者の心象と重ね合わせるという、極めて意味的な演出でした。
一方でベルリン・コーミッシェ・オーパーの方は意味性は薄く、幻想的でスペクタクル性の高い舞台を楽しく鑑賞できる演出になっていました。

舞台コストは最小限で、演出コストのほとんどがアニメーション作成に費やされるという方式。
この手法では海外公演でのセットの移動コストも節約できますし、今後もこういった演出方法は普及してくようにも思います。
そしてこの手法はおそらく日本のクリエイターと親和的です。
非コンセプチュアル的でスペクタクル性の高い映像であれば、日本のアニメーションのクリエイターや映像作家なら、もっと洗練されたものを要領よく制作しそうな気がします。
ベルリン・コーミッシェ・オーパーの映像は、日本の鑑賞者の水準からすると洗練された感じがやや薄い(有体に言うと時にダサく感じる)面があるように思います。
日本のクリエイターこそ、この手法でオペラを制作してみても面白いのかも。


演奏はややアップテンポでサクサク進む感じ。
歌手陣は皆素敵で、とくにパミーナと夜の女王が気に入りました。
パミーナは良い歌唱、カーテンコールではなぜかパミーナが最後に登場していました。
夜の女王は例の難所の音を、綺麗な高音の声色を維持しながらほぼパーフェクトに音を当てています、これは気持ちいい。
3人の童子は児童合唱で、これも良い雰囲気。
歌と歌の間の演者のセリフはすべてカットされ、このセリフが字幕で表示されるのも本演出の特徴。
セリフ場面でモーツァルトの幻想曲(K475)の断片がピアノにより演奏され続けるのも面白い試みで、この音楽がまた非常に心地よいです。
場面によってオリジナルにはない楽器が登場、タムタムやウインドマシーンやサンダーマシーンまで登場し、最後の夜の女王消滅シーンでウインドマシーンとサンダーマシーンが炸裂します(笑)。
映像と共に音楽においてもスペクタクル性が追求されているのが楽しいです。
総じて演奏や歌唱は非常に満足するものでした。


全体的にかなりチャレンジングな試みで、賛否分かれる公演であったように感じます。
休憩中、客席からは「演出が期待外れや」との声も聞こえてきました。
ヨーロッパの引っ越し公演と言えばコンセプチュアル(意味的・概念的)な演出を期待してしまいますが、この点ではやや薄く、幻想性・スペクタクル性が高くエンターテインメントとしては非常に楽しいものでしたが、アニメーションなどで目の肥えた(?)日本の鑑賞者からはこの点ではやや物足りない、といったところでしょうか。
アートをグローバル化・大衆化・低コスト化・普遍化するにおいて、映像を利用するということは非常に可能性のあることだと感じます。
音楽や歌唱の流れ・速度が映像のスピードに制約されるという難点(指揮者のテンポ表現が映像より早くても遅くてもいけない)や、演者の動きが少ない点など、今後改善が検討されるべき課題はあります。
(音楽の速度や演者の動きに制約が大きいほど、生演奏の意義が薄れます。)
個人的には、今後のオペラ公演・オペラの歴史を考える上で、本公演は非常に興味深く、重要な公演であったように思います。


会場を出る際に、お土産にもらった謎の小箱。


中身は普通の日本のあめちゃんでした(笑)。



---

さて、会場を後にし、阪急電車を待つ間スマホでニュースをぼんやり見ていると、トップでミロス・フォアマンの訃報が伝えられていました。
フォアマンは「アマデウス」「宮廷画家ゴヤは見た」「ラリー・フリント」などで有名な映画監督です。
奇しくもモーツァルトのオペラ公演の帰路での訃報、そうえいば映画「アマデウス」で主人公モーツァルトが倒れたのが「魔笛」2幕のパパゲーノ独唱場面であったことなどを思い出しました。
良くも悪くも、モーツァルトのひとつのイメージを形作った映画を制作した巨匠。
ご冥福をお祈りしたいと思います。