映画 私の、息子 | れぽれろのブログ

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2013年のルーマニア映画「私の、息子」を鑑賞しましたので、感想などを残しておきます。

自分はルーマニア映画を鑑賞するのは2度目。
過去にはクリスティアン・ムンジウ監督の「4ヶ月、3週と2日」を鑑賞したことがあります。
この映画は80年代のチャウシェスク独裁政権下での違法堕胎手術を描いた作品で、暗く重いテーマでありながらどことなくユーモアがあり、人間の描き方やカメラワークも面白く、非常に興味深い映画でした。
今回鑑賞した「私の、息子」は、監督はカリン・ピーター・ネッツァーという方。
お話の舞台は現代、交通事故がテーマで、事故を背景に、歪んだ母子関係と、ルーマニアの法秩序のいい加減さを浮かび上がらせながら、それでも人と人との関係性に希望を持たせるような、興味深い作品になっていました。

主人公コルネリアは建築と舞台演出の仕事をする50~60歳くらいの女性。
交友関係が広く社交的で、冒頭のいくつかのシーンから、いわゆる富裕層の女性であることが伝わってきます。
コルネリアには30歳くらいと思われる息子バルブがおり、彼女は息子を溺愛、しかしバルブは母の言いなりになるのを嫌がり、家を飛び出し、子連れの年上女性と同棲しています。
そんなある日、バルブは交通事故を起こしてしまいます。
田舎の道路にて、車で猛スピードで走行中に子供をはねて死なせてしまったことにより、被害者遺族に激しく詰め寄られ、そして警察にて取り調べを受けるバルブ。
母コルネリアは息子バルブがスピード違反による過失致死の罪に問われないよう、必死で警察や目撃者と関わり、金やコネを使って物事を解決しようとします。
しかし、当事者そっちのけで暗躍する母をバルブは快く思わず、罪の恐怖や無力な自己への苛立ちから来る精神的な苦しみも影響して、母子関係はどんどん悪化していきます。
果たしてバルブの罪は、母子関係は、被害者遺族との関係はどうなるのか、というのが本作の主要なプロットです。


本作の見どころは2点。
1つは歪んだ母子関係の描き方です。

コルネリアとバルブの母子は、アドラー心理学で言う「課題の分離」ができていない母子の典型的な例に見えます。
コルネリアは息子のためを思い、あれこれバルブに尽くします。
息子のために薬を買ってやり、あれこれと物を与え、息子の体をマッサージしてやる一方、息子と同棲している女性に対しては文句を付けます。
息子が選択した生き方を尊重せず、息子の人生の課題を自分の人生の課題ように錯覚し対処する。
事故に対しても、息子の判断を尊重せず、とにかく息子が罪に問われないように策を練る。
コルネリアの息子への愛情が最もよく表れるのが被害者遺族に謝罪に行くシーンで、話をするうちに感情が高ぶり、謝罪のはずがいつの間にか被害者の前で息子の擁護と息子への愛を訴えるという、ある種の歪んだ感情の発露が描かれています。

一方息子バルブはそのような母を疎ましく思い、母が買ってきた薬が自分の望んだものと違うなど、些細なことで母に対し激高、まるで反抗期の少年のように母に対して怒りをぶつけます。
母に放っておいてくれと言う割には自ら主体的に行動できず、死なせた子供の葬儀への出席を嫌がり、被害者遺族への謝罪も敬遠し、ふさぎ込むばかりのバルブ。
母子関係から自立できない青年の不幸。

物語の後半、バルブの同棲女性の告白がこのことを端的に表しており、この告白シーンがこの映画の重要な見どころの1つになっています。

このような母子の「課題の分離」の失敗からくる息子の成長の失敗は、高度成長期以降の日本の核家族化・郊外化・専業主婦化の下での閉ざされた母子関係の中で起こりがちな失敗であり、日本でもありふれている失敗、我々が見てもよく理解できる部分だと思います。
一般に南欧カトリック系の国々では子供の親に対する自立度が低く、このことが中欧・北欧諸国と比較して南欧の方が少子化の度合いが高い理由の1つだと言われたりしますが、ルーマニアのような東欧正教系の国々ではどうなのか、東欧は80年代末の自由化から20年以上が経過していますが、そのことの家族形態への影響はどうなのか等々、いろいろと興味が湧いてきます。


もう1つの見どころは、ルーマニアの法秩序のいい加減さから来る人間関係のやり取りです。

コルネリアは息子の罪を軽くするために警察に取り入り、調書を書き換えさせようとします。
公権力である警察は当然取り合わない、と思いきや、コルネリアのコネを生かした提案を前に、あっさりと調書の書き換えに同意します。
コルネリアは事故の目撃者の証言を変更してもらうために目撃者と会い、金の力で物事を解決しようとしますが、この目撃者がなかなか一筋縄ではいかない相手。
この目撃者とのやり取りのシーンも、本作後半の重要な見どころの1つです。
この目撃者を演じたヴラド・イヴァノフという役者は、上に挙げた「4ヶ月、3週と2日」で不法堕胎医師を演じたのと同じ役者さんで、その交渉のやり取り、嫌な奴ぶり(笑)が本作でも非常に似ており、面白かったです。
なかなか味のある役者さんで、ルーマニアでは有名な役者さんなのかもしれません。


本作の主題。
「苦しみへの共感を経て合意に至る」ということが本作の重要なテーマであると自分は考えます。

人と人とは分かり合えません。
立場や環境が異なる人と人が、お互いに理解し合うことは非常に困難。
母と息子は分かり合えず、息子の同棲女性とも分かり合えない。
同様に、事故の加害者家族と被害者家族も話もかみ合わず、分かり合いには至りません。
社会構造の変化は母子の構造的トラブルを齎し、社会は正義では回らず汚職と金で物事が解決されます。
交通事故は誰しも起こしたくはないものですが、高速度で場所から場所へ移動する必要のある現代社会では、どんなに努力しても一定数の死亡事故は必ず起こります。
どのような社会であれ、どのような階層であれ、人は苦しみを抱えて生きて行かざるを得ません。
加害者家族と被害者家族の感情のやり取りのシーンが、このような苦しみの様子を端的に描いています。

人と人とは分かり合えない、他者の振舞いの背景は分からない、しかし、今目の前にいる人の感情には人は共感しやすいものです。
自分は苦しんでいる、目の前にいる相手の行動の背景は分からない、しかし今目の前にいる相手が苦しんでいるという事実には共感できる。
お互いに苦しんでいるのだという1点の事実の共有においてのみ、人と人とは共感・合意できるのではないか。
苦しみという事実への共感から、人はようやく前に進むことができるのではないか。
本作のラストシーン(さらりと描かれますが素敵なシーンです)から、自分はそのようなことを感じます。
理解ではなく共感、そして共感から合意へ。


ということで、東欧でこのような映画が撮られているのが興味深く、面白く鑑賞しました。
ルーマニアというと自分は小学生の頃に見たチャウシェスクの処刑をまず思い出します。
それ以外にルーマニアの知識はほぼ皆無、しかし映画を見るうちに興味が湧いてきましたので、機会があればあれこれと調べてみるのも面白いかなと思っています。