映画 秋刀魚の味 | れぽれろのブログ

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映画の感想。
小津安二郎監督の「秋刀魚の味」を鑑賞し、これがかなり面白かったので、感想などを残しておきます。

自分は文芸作品は比較的古い作品を読むことが多いですが、映画についてはどちらかと言えば新しめの作品ばかり鑑賞しています。
たまには古い日本映画を見てみようと思い、映画好き曰く「小津は外せない」という話を過去に何度か聞いていますので、このたび初めて小津作品を鑑賞しました。
「秋刀魚の味」は1962年の小津安二郎の遺作作品です。
そんなに期待せずに鑑賞し始めましたが、15分ほど見たところで、これは大傑作だと確信しました。
非常に面白い映画で、世間の映画マニアが「小津、小津」というのが非常によく分かりました。


ストーリーはいわゆる娘の嫁入り話です。
主人公は初老の男性で企業の管理職。
彼が24歳の娘の結婚を案じるというのがお話の中心。
かつての学友や恩師とのやり取り、長男夫婦とのやり取りを通じ、その中で娘の結婚話が生じ、お話が進んでいきます。
調べてみると、小津映画はこの手の嫁入りネタが多いのだとか。

しかし、この映画はストーリーは割とどうでもよく(と書くと怒られそうですが)、この映画の一番の面白さは、映画の絵作りにあります。
各シーンのほとんどは室内劇で、カメラはすべて一方向からの固定、室内のセットに対し水平にカメラを置き、やや下側から全体を俯瞰するような構図になります。
全体を舞台演劇のように撮影し、廊下や通路などの場面転換の部分も舞台演劇風、個々の人物が発話する際にはその人物のアップになります。
場面によっては斜めから撮影している場合もありますが、このケースでも一点透視風の絵画的な画面になります。
現代では映像作品は「動画」などと言われますが、この映画はまったく動きません。
動きは最低限の人物の動作のみ。
おそらくカメラが動くシーンは皆無なのではないでしょうか。

そして、この各シーンの1枚1枚の絵が極めて素晴らしいです。
構図がばっちり決まっており、映画どのシーンをキャプチャしても、絵画作品あるいは芸術写真のようになります。
全体を捉える画面は室内画、人物のアップは肖像画、場面転換の際の屋外の短いカットは風景画のよう。
この1枚1枚のカットが本当に素晴らしく、画面に引き込まれます。
色合いがまた非常に素敵です。
カラー草創期の作品と思われますが、原色の配置、赤・青・黄・緑のアクセント、そして光と影、それぞれの計算された色配置が非常に心地よい。
登場人物の服や食器などの小物、屋外のネオンや看板の配置の心地よさ、黄金比を意識した絵作り。
まるでアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真のようなシーンも。
画面があまりに綺麗で絵画的で面白いので、思わずストーリーを忘れます。

開始15分ほどで、主人公の長男夫婦の会話のシーンになります。
映画全体を通して何度か登場するこの長男夫婦のシーンがとくに素晴らしいです。
部屋の家具やカーテンや小物、人物(長男夫婦2人)の服装、それらの配置と色合い。
これらのシーンで真っ先に思い出すのは、フェルメールの絵画作品です。
まさに絵になる画面。
この部屋の最初のシーンは単に2人が言い合いをしているだけで、同じマンションの住人の出産の話の後、嫁がぶどうを食べるというそれだけのシーンです。
この長男夫婦には経済的理由から子供がおらず、近隣住民の出産を意味ありげに語る妻がぶどうを食べる(種を吐き出す)のはおそらく避妊の象徴的意味があるのだと思いますが、そのようなシンボリックな面白さよりも、画面構成の面白さの方が勝ります。
この部屋は何度か登場し、長男がゴルフクラブをいじったり時計のネジを巻いたり(これらも象徴的意味あり)と、細かい動作のシーンがあり、それらの1つ1つの画面構成が素晴らしい。
この部屋はその後も、主人公の娘と長男の同僚の巡り合わせがあったりと、重要なシーンもあります。
色合いや画面構成を含め、何度か登場するこの長男夫婦のシーンが一番気に入りました。
(ちなみにこの長男を演じる佐田啓二は中井貴一の父親らしく、中井貴一に非常によく似ています。)


この映画には欠点と言える要素もたくさんあります。
この映画のストーリーにはあまり普遍性はありません。
20世紀中期日本の、特定の階級のローカルな結婚の在り様を確認できるのは面白い(谷崎潤一郎の「細雪」などにも通じます)ですが、現代的な男女同権時代の結婚感にはそぐわないものです。
主人公の恩師とその行き遅れた娘をやたらと不幸に描くのも、普遍的な視点で鑑賞するとやや違和を感じます。
画面の情報量が多いので、いちいち周辺の小物などに目が奪われ、ストーリーは二次的要素になりがち。
上にも書きましたが、画面が動かないので「動画」としての面白みは少ないです。
画面構成を重視することもあってか、会話のリズムが不自然です。
(会話のリズムが悪いわけではなく、むしろテンポにはある種の心地よさがありますが、自然な会話ではありません。
おそらく60年代当時の関東方言としても、割と違和がある会話なのではないかと思います。)
とくに2人の向き合う人物の会話シーン、2人のバストショットが何度も何度も切り替わるのは、違和感しかありません。
しかし、映画のどの場面においても、それをおいて余りある画面の魅力に満ちています。
全体を通して、この映画はやはり傑作と言ってよいのではないかと思います。


美術史や演劇論の観点から。
一般に美術作品は、ビジュアル(視覚的)な要素とコンセプチュアル(概念的)な要素に分けることができます。
作品の色・かたち・構図などはビジュアルな要素。
作品の意味・背景・何が描かれているかがコンセプチュアルな要素。
中世西洋絵画はキリストや聖人が描かれ、コンセプチュアル要素が重視されました。
その後ルネサンス以降、遠近法で画面を見せる等のビジュアル要素が優位になります。
美術が王や貴族のものから、商人やブルジョワジーのものになるにつれ、ビジュアル要素が優位になり、美術は意味からかたちへ、これが頂点に達するのが、20世紀中盤の抽象表現主義です。
20世紀中盤以降は、逆に作品の意味を重視するコンセプチュアルアートが優位になります(これはデュシャンに遡ります)。

この「秋刀魚の味」は、美術的な分類で考えると、極めてビジュアルに接近した映画だと思います。
ストーリーを抜きにすると、例えばビル・ヴィオラなどの映像作品に近いものを感じます。
アリストテレスの「詩学」によると、演劇を構成する要素において、筋>性格>思想>語法>歌>視覚的装飾、という重要性の順序があるのだそうです。
筋(≒物語の構成)が最も重要、これは舞台演劇だけではなく映画についても同じだと思います。
そして視覚的装飾というのは、一般に演劇の要素としては最下位のものです。
「秋刀魚の味」は視覚的装飾が最も面白い、極めてビジュアルな作品であり、視覚的装飾が筋に一発逆転する、そんな快感をも感じられる映画作品であるように思います。
もちろん筋が悪いわけではありません。
主人公の学友と恩師との関わり、長男夫婦とのやり取りから物語を進めていく筋の運びは、極めて優れたものだと思います。
しかしこの映画を鑑賞していると、筋の運びすら視覚的装飾のための手段に過ぎないのではないか、という気がしてきます。
(自分は60年代の日本映画をほとんど知らないので、このことが小津作品独自のものなのか、当時の傾向が含まれてるのかは良く分かりませんので、ちょっと他の監督の作品も鑑賞してみる必要がありそうです。)


画面要素以外で1つだけ好きなシーンを。
主人公が過去の海軍時代の部下と飲みに行くシーン。
このバーのシーンが何度か登場しますが、このシーンが気に入りました。
「日本なんで負けたんやろか」「負けて良かったやないか」という趣旨の会話。
戦前当時の軍隊風の演説を真似し、軍艦マーチと共に敬礼の真似事をする。
過去の苦しみに対する愚痴と、少しの郷愁が入り混じる。
これらのシーンは寓意的で面白いです。
そして主人公は、バーで働いている女の子に死んだ妻の面影を感じます。
チョイ役ですが、このバーの女の子:岸田今日子が良いですね。
この映画のヒロインは主人公の娘役の岩下志麻ですが、自分は岸田今日子が気に入りました。
自分の中では岸田今日子は、小学生のときに見たとんねるずのコントのイメージしかありません(笑)が、味のある役者さんだったのですね。


その他。
自分が過去に鑑賞したことのある映画作品の中で、映像の雰囲気が最も近いものとして、フィンランドの映画監督アキ・カウリスマキの作品を思い出しました。
一方向からの固定カメラの淡々とした映像、淡々とした演技(演技してないかのような演技)の魅力は、小津安二郎の雰囲気に近いものがあります。
調べてみると、wikiのカウリスマキの関連項目に小津安二郎が登場していますので、これは小津作品の影響だったようで、何やら感慨深いです。
カウリスマキ監督の作品には日本の音楽が登場したり、お寿司や日本酒が登場したりしますが、このあたりも小津作品の影響だったのかもしれません。


ということで、古い日本映画もあなどれません。
機会があれば他の小津作品もみてみようと思います。
(一説によると「東京物語」が名作?)
続けて他の昭和中期の日本映画を鑑賞してみても面白いかもしれませんね。