映画 グラン・トリノ | れぽれろのブログ

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映画の感想。
クリント・イーストウッド監督の2008年の映画「グラン・トリノ」を鑑賞し、これまたなかなか面白かったので、感想などを記事化しておきたいと思います。
また中途半端に古い映画になりますがご了承を。

自分はイーストウッド監督の作品は(なぜか)それなりに鑑賞しており、過去に「許されざる者」「ミスティック・リバー」「ミリオンダラー・ベイビー」「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」「チェンジリング」を鑑賞しています。
記録によると「チェンジリング」を自分が鑑賞したのが2010年ですで、イーストウッド映画は7年ぶりの鑑賞となります。
今回鑑賞した「グラン・トリノ」は、自分が過去に鑑賞したイーストウッド作品の中では最も良かったのではないかと思う作品です。

舞台は現代のデトロイト。
かつて自動車産業で栄えた街も今は衰退気味。
白人中間層は没落し、アジア系移民が増えています。
イーストウッド自身が演じる主人公は頑固な老人で、かつて朝鮮戦争への出征経験があり、その後フォード社に長年勤め続けた後引退、現在は妻も亡くし息子家族とも疎遠な状態。
孤独な彼は、家の隣に引っ越してきたモン族(アジア系移民)の一家とひょんなことから親しくなり、親交を深めるうちに、モン族のギャンググループとの諍いに巻き込まれていく、というのが主要なストーリーです。


本作から感じられること。
①自立の称揚、②復讐の連鎖の否定、③血縁よりも近接性。
順にコメントします。

まずは自立の称揚。
イーストウッド映画から常に感じられるテーマは、公的なものへの徹底した不信です。
これはおそらく監督自身の根強い思想なのだと思います。
「許されざる者」では保安官の悪が断罪され、「ミスティック・リバー」「チェンジリング」では警察権力のダメさが徹底して描かれ、「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」では国家権力の横暴が否定されます。
「ミリオンダラー・ベイビー」においても、国家による福祉政策が明確に否定され、自助による生き方が(その幸福ではない顛末も含めて)称揚されています。
「グラン・トリノ」も同じ、何かあったら警察を呼べという神父のメッセージに従わず、主人公の老人はあくまで自分で物事を解決しようとします。
朝鮮戦争で得た勲章を必ずしも名誉なものとは思わず、神父からの「懺悔して楽になれ」という忠告も否定(神様にも頼らない)。
公的なものに頼らず、自身が常に強くあれ。
このような老人の姿勢がまたかっこいい。
姿勢はかっこいいですが、自分は公助がより大切だと考えるタイプの人間ですので(近代化のために自立的共同体を蹂躙してきた近代国民国家は、現在共同体から遊離してしまった個人を救済する責務がある)、この点は自分がイーストウッド映画を見たときに感じるモヤモヤの一つではあります。

次に、本作では復讐の連鎖が明確に否定されているように感じます。
本作はイラク戦争後に制作されています。
第二次大戦後にアメリカが行った主要な戦争は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸危機及びイラク戦争です。
朝鮮戦争やベトナム戦争は、米ソ冷戦下での東西の代理戦争。
湾岸危機やイラク戦争は、同じく米ソ冷戦下でのアメリカの中東政策に対する中東側の怨念と、イスラム過激派のテロリズムに対するアメリカ側の怨念の連鎖の中で起こっており、これが現在のISのテロリズムにまで繋がっています。
本作の主人公が朝鮮戦争の生き残りで、隣に引っ越してきた一家がモン族(ベトナム戦争の結果発生した移民)であるということは、なんとなく意図的な設定であるようにも思います。
自分は本作を途中まで鑑賞した時点で、これは「許されざる者」の現代版だな思い、イーストウッド流の美学の貫徹とカタルシスを期待して鑑賞しましたが、ラストでその期待は(いい意味で)見事に裏切られました。
「許されざる者」的な結末の否定、血で血を洗う復讐の連鎖の否定、≒戦後アメリカの対外戦争の否定、という主張を本作から感じますが、考えすぎでしょうか。

3つめ、血縁より近接性。
主人公の老人は、遠く離れて暮らす息子たちの家族とは折り合いが合わず、逆にすぐ隣に住むモン族と関わり合ううちに親しくなり、命を賭して彼らのために行動するようになります。
モン族一家の息子である少年も、彼の従兄弟の所属するギャンググループには馴染めず、隣に住む白人の老人と関わるうちに、みるみるうちにたくましくなっていきます。
イーストウッドの考えるアメリカは自助の国、そしてその自助の精神は、移民であれ近しく関わりあううちに伝わっていく。
血がつながらなくても、民族が違っても、近接性による親しみがある限り、アメリカの精神は受け継がれていく。
老人が大切にするフォード社72年製グラン・トリノ(アメリカ的精神の象徴)を誰が受け継ぐのか、これが本作の最も重要なテーマです。
白人人口が減少し移民人口が上回ろうとも、人と人との共感能力によりアメリカ的なものが残っていくことを期待する、本作からそんな主張を感じます。


さて、最後にクラシック音楽系ブログの立場から気になる点を1つ。
本作の主人公の老人は、パーティーで出会ったモン族の美人の女の子のことを、彼女の本名を無視してしきりにヤムヤムと呼び続けます。
老人の中では、アジア系の美女=ヤムヤムなのでしょうか?
ヤムヤム(Yum Yum)はイギリスの作曲家サリヴァンのオペラ「ミカド」に登場する美女の名前でもあります。
ヤムヤムと聞くとなんとなく中国風の名前に聞こえますが、「ミカド」は日本を舞台にしたオペラで、19世紀末に本国イギリスで大ヒットし、アメリカでも上演されたオペラです。
ヤムヤムという名前はアメリカのある世代におけるアジア系美女の代名詞なのでしょうか?
このことはオペラ「ミカド」の欧米でのヒットと関係あるのでしょうか?
本作の主題と直接関係はありませんが、なんとなく気になるところです。