仏教、コミュニティ、リベラリズム | れぽれろのブログ

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美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

以前の記事(→こちら)で、宮台真司さんの著作「正義から享楽へ」の概要を、以下のように超意訳でまとめました。

 

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この世界は無秩序でデタラメで無意味で苦しみに溢れる。
我々の生きる社会も無意味で苦しみに溢れる。
なのでちゃんと社会を生きる必要はなく「ちゃんとしたふり」だけして生きよ。
言葉なんていい加減なものだから、正義だの善悪だのといった言葉に過剰にコミットするなかれ。
でも、無秩序でデタラメで無意味な世界に、一見ちゃんとしてるかのような人間社会ができているようにみえるのはすごいこと。
言語よりも感覚を重視して、いろんな人やものに触れていると、このデタラメな世界もときに愛おしくなる。
このような感覚を共有した者どうしが、「ちゃんとしたふり」をしながら、デタラメな世界の中に浮かぶデタラメ社会を、少しでもましなようにしていくのもまたいいかもしれない。
・・・とこんな感じ。
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この内容を受けて「仏教と絡めて何か書くかも」と書いたところ、一部リクエストを頂きましたので、思うところなどを文章化してみます。
かなり粗い議論(しかも難しくて長い)ですが、ご興味のある方はお読みください。


 

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◎仏教のはなし

 

自分は原始仏教をおよそ以下のイメージで捉えています。

お釈迦様は紀元前5世紀のインドで生まれました。
釈迦は王族の出身、当時のインドとしては最高の環境で何不自由なく暮らせる身分でした。
しかし、釈迦は人生の虚しさを覚え、出家します。
7年間苦行を続けた後、苦行を捨てて思索に入り、考え抜いた末に悟りを開きました。
以降自らの悟った内容を人々に伝え、これがやがて教団になります。
釈迦の死後、弟子たちは教団を維持し、多くの国に教えが伝播し、これが仏教として現在まで形を変えながら続いています。

 

仏教の思想で自分が重要だと感じるのは、空(くう)と縁起(えんぎ)です。
「空」とは「物事に実体はない」ということ。
「縁起」とは「物事は移り変わる」ということ。
今目の前にあるリンゴは、リンゴの木から生成したもの、放っておけば土にかえります。
リンゴという実体はなく(空)、木→実→土という遷移があるのみ(縁起)です。
今目の前にあるボールペンは、インク・金属・プラスティック等から生成されたものです。
インクやプラスティックは石油から加工したもの、石油の元を辿れば古代の生命が形を変えたもの。
ボールペンはこれと無機物(金属)が組み合わされたもの。
放っておけばインクは気化し、長い年月の末プラスティックも朽ち果て、ボールペンという形では永久には留まりません。
人間も同じ、人間は日々酸素と水と有機物を吸収し、代謝を繰り返します。
昨日のわたしと今日のわたしは、分子レベルでは異なった存在です。
脳の状態も変わり、考えも変わり、意識の在り様も変わります。
固定された「わたし」は存在せず、状態が遷移するのみで(縁起)、その実態はありません(空)。
世界の構造は空と縁起である、釈迦はこのことを理解(悟り)しました。
仏教的な考え方では、物事の本質(例えばプラトンのイデアのようなもの)はありません。
世界は徹底して空、ここから浮かび上がってくるのは世界の無意味性です。
世界には、ただ構造(空と縁起)があるだけで、本質(意味)はありません。
世界構造(空と縁起)を理解し、安らぎの境地(涅槃)に至るというのが、原始仏教の基本的な考え方です。

 

仏教のもう1つ重要な考え方が、一切皆苦です。
インドは過酷な世界、モンスーンが吹き荒れ、旱魃や豪雨が繰り返される、灼熱と洪水の国です。
生命はあっという間に死に、死体は瞬時に朽ち果て、あるいは押し流されてしまいます。
そして温暖湿潤な気候は新たな生命をすぐに生み出します。
まるで雑草が一夜にして巨木になるように、死と生のサイクルが目に見えて早く、この考えがヒンズー教も含めたインド古代宗教の輪廻(死んでは生まれ変わる)という考え方に影響を与えています。
一切皆苦は、すべては苦しみであるという考え方。
人は生老病死からは逃れられず、苦しみ死んだ後も生まれ変わってまた苦しむ、これが世界のすべて。
苦しみから逃れるためには、まず苦しみがなぜ深まるのかについての理解が大切です。
1つ、構造に対する無知が苦しみを深めます。
世界の構造(空と縁起)を知ることにより、苦しみは緩和されます。
知らないと苦しい、しかし分かると対処できる、身の処し方が変わる。
苦しみを緩和するために、構造を理解し原因(縁起)を一つ一つ解きほぐしていく、これは医者が病気を特定する、あるいは技術者が機械の不調を特定するような、科学的なプロセスに似ています。
もう1つ、執着や煩悩が苦しみを深めます。
人は様々なものを欲望し、眼耳鼻舌身意を満たすため、色声香味触法を求めます。
世界に本質はない(空)にも関わらず、人は本質(意味)を求めがちです。
人は世界の苦しみを忘れるため、生きる意味を求め、目先の目的(金銭・地位・名誉・愛など)を意味化し、意味にすがります。
この求めるが故に満たされない心が、さらなる苦しみを生みます。
苦しみが深まるのは、欲望や意味への執着があるが故のことで、煩悩を捨てるということは、これらへの執着をニュートラル化するということです。
釈迦はおそらく欲望を完全に捨てろとは言っていません。
苦行は無意味、断食をしたり睡眠を絶ったり愛欲を我慢する必要はありません。
しかし過度の飽食や愛欲への執着、意味への執着は苦しみを生みます。
安らぎ(涅槃)に近づくには、世界の構造を理解し、意味にすがらず、欲望とニュートラルに向き合え、と仏教は言っているように思えます。

 

苦しみから完全に逃れるには涅槃に入る必要があります。
涅槃とは要するに生からも輪廻からも脱し、完全に消滅するということです。
世界から存在がなくなれば、当たり前ですが、苦しみは存在しません。
涅槃が究極的に1人で消滅することを意味するのであれば、我々は当面究極的に涅槃に入る(究極的な安らぎを得る)のは無理です。
なので、苦しみを緩和しながら(構造を理解し執着を捨てながら)生きる他ありません。
この生きるための指針が、仏教の八正道(正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)です。
自分の考えでは、八正道は倫理的・道徳的規範のようなものではなく、完成した人間になるための指針のようなものでもありません。
八正道はそれ自体の実行が目的なのではなく、苦しみの構造への対処、欲望や意味への執着から逃れ、苦しみを緩和するため、世界とニュートラルに向き合うための、一つの手段だと考えます。

 

仏教の欠点は、難しいことです。
空と縁起を理解し執着を捨てることにより涅槃に近づく、と言っても衆生には簡単には分かりません。
その後の歴史の過程で、仏教はより多くの衆生を救うことを目的とし(大乗仏教)、エリートが構造を理解し衆生は理解はできなくともそれに追従する(密教/顕教)、あるいは、南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に生まれ変わる(浄土教)というように、大衆に分かりやすい形で伝播・変遷していきます。

 


◎コミュニティのはなし

 

お釈迦さまは悟った後、自らの考えを人に語るようになります。
悟ったのであれば1人でその悟りの道を全うすれば良いようなものですが、釈迦は悟りの意を他者に伝えるようになり、それがやがて教団になっていきます。
これは一般には、悟り(≒苦しみの緩和)の内容を人に伝えることにより衆生を救う(慈悲)ための伝達だと考えられます。
釈迦は一人で悟りましたが、凡人にはこのような悟りへの道は困難、師に教えを乞うことにより人は悟りに近づきます。
同じ方向(悟り≒苦しみの緩和)を目指す人たちのコミュニティ(共同体)を、釈迦はおそらく重要視しました。
現実的には釈迦の周りに勝手に人が集まって来ただけなのかもしれませんが、結果が大事。
人はコミュニティを作ろうとする生き物なのです。

 

人間(ホモ・サピエンス)はその誕生のときより、集団行動を行ってきました。
道具や音声を使い、協力して巨大生物(マンモスやオオツノシカの類)を倒し、食肉としました。
人類はアフリカを出、巨大生物を追いかけながら世界中に広がっていきました。
巨大生物の絶滅後も、あるものは狩りと遊牧による共同生活を続け(主にユーラシア内陸部)、あるものは定住し農耕による共同生活を続け(主にユーラシア周辺部)ました。
ポイントは、すべてが共同生活であるということ、基盤にコミュニティ(共同体)があるということです。
人は他の動物と比べても、極めて未成熟の状態で生まれてくる生き物です。
乳児は自らでは何もできず、大人の助けにより乳幼児は成長していきます。
道具を使い巨大生物を追い詰める人類は、手を使う代償として二足歩行となり、それに伴う出産の困難性を不可避的に獲得します。
死産が多く、実母による養育に必ずしも頼れない未成熟な乳児が成長するには、コミュニティ(共同体)による共同保育に頼るしかありません。
(実母の愛情により乳児が育てられるというのは、豊かになり死産が減少した近代の幻想に過ぎません。)
赤ん坊が笑うと人は本能的にその笑みに共感して慈しみ、赤ん坊が泣くと人は問題を察知しそれに対処します。
人類の共同保育を成り立たせているのが、表情=感情を理解する人間の共感能力です。
時代が下るに連れて社会が複雑化していき、コミュニティも階層的になっています。
帝国の中に領邦があり、その中に村落があり、その中に家族があり、その他様々な宗教集団や職能集団がコミュニティを形成するようになります。
人はその共感能力故に、コミュニティ内の近接的な人々の感情に感化されながら、共に生きるために助け合って生活してきました。
過程は複雑ですが、基本的に人類はその共感能力故に種を維持し、コミュニティを維持し、現在まで存続してきました。

人は1人では生きていけず、コミュニティの中でのみ生きていくことができる存在です。
 

しかし、コミュニティには弊害もあります。
1つ、コミュニティ同士は利害が対立することが多く、諍いを生みます。
14世紀ごろまでの世界の歴史は、上に書いたユーラシア内陸の遊牧民と、ユーラシア周辺の農耕定住民の間での、絶え間ない衝突の繰り返しです。
遊牧コミュニティからの収奪に抵抗するため、あるいは他の農耕コミュニティとの諍いを調停するため、より大きな主体にコミュニティの主権を委譲するという考え方が、古代帝国や中世封建領主制や近代国民国家の基本的な枠組みです。
コミュニティ間の利害対立は、近代以降は国家間の戦争や先進国家による植民地からの収奪となって表れ、近年では国内・国外での経済的格差となって表れてきています。
現在横行するテロリズムの背景にも、コミュニティ間の利害対立があります。
もう1つはコミュニティ内部の問題。
コミュニティ内部は閉塞感が充満しがちであり、場合によっては苦しみの温床となります。
また、コミュニティ内部でのポジション取りから諍いが生じることもあります。
大きな話であれば帝国・国家による悪政、小さな話であれば極小家族コミュニティの中での暴力性(現代的に言えば家庭内DVのようなもの)、あるいは近代教育制度の内部や軍隊内部でのいじめのようなものを想像して頂けると良いと思います。
人は生きるためにコミュニティに頼らざる得ませんが、その閉塞感故にコミュニティを抜け出すことを欲望することもあります。
コミュニティへの依存(コミットメント)とコミュニティからの離脱(デタッチメント)の両方を志向てしまうのが人類の昔からの常。
お釈迦さまの出家は、ひょっとしたら王室コミュニティの閉塞感からの離脱が一つの目的だったのかもしれません。
そのお釈迦さまが悟りの末、コミュニティ(教団)に回帰していったことは、何やら示唆的です。

 


◎リベラリズムのはなし

 

現代社会は複雑、様々なコミュニティが様々なかたちで存在しています。
大きくは国連・EU・NATO・ASEANのような超国家主体から、通常の主権国家、地方自治体、企業、学校、軍隊、宗教団体、親族、家族、友人、その他血縁地縁、これらのコミュニティが相互に対立し、あるいは内部に閉塞を抱えながら共存しているのが現代社会の基本構造です。
グローバル化した大企業は主権国家の枠を超えて存在し、あるいはキリスト教・イスラム教などの近代国家成立以前からの世界宗教も国家の枠を越えますので、コミュニティは単純な階層構造ではなく、もっと多様で複雑です。

 

ここでリベラリズムに話を拡大してみます。
人類はコミュニティの弊害に対処するため、古代より様々な工夫を考えてきました。
釈迦の八正道のような考え方もその一つ。
最近の自分の考え、リベラリズムというのはコミュニティの2大弊害(コミュニティ間の対立、コミュニティ内の閉塞感)による苦しみを緩和するための、現代における最も合理的な思想、と考えるとよいのではないかと思います。

 

過去記事(→こちら)から、リベラリズムの自分なりの定義を抜粋してみます。

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リベラリズムがどのような思想なのかについては、学問的には何らかの定義があるようですが、その内容は難しく、時代によっても定義が変わってくるものなのだと思いますが、自分はおおむね以下のように理解しています。
大前提として個人の自由を尊重・重視する。
ただし、個人は一人では生きて行けないため、コミュニティによる相互扶助を重視する。
コミュニティだけでは問題が解決しない場合は、より大きな主体(例えば国家)による再配分を積極的に肯定する。
経済的競争原理は否定しないが、それにより個人の尊厳が損なわれる場合は、経済活動は制限すべきと考える。
宗教やイデオロギーによる束縛を否定する。
古典的自由主義や新自由主義(ネオリベラリズム)や自由至上主義(リバタリアニズム)とは異なり、政府の働きを重視し、社会的公正を目指す。
社会的・経済的公正を確立するためには、政府が積極的に社会や市場に関与すべしという立場なので、上に挙げた3つの自由主義よりは、平等を志向する。
ざっくりこのような考え方であると理解しています。
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コミュニティによる弊害を緩和するためにまず個人を尊重し、その大前提の下で種々様々に存在するコミュニティの機能を重視するというのが、本来的なリベラリズムの考え方であると自分は考えます。
リベラリズムが個人を重視するのは、共同体間の対立や共同体内部の閉塞から、できる限り個人を救済するためです。
このためリベラリズムは一見コミュニタリアニズム(共同体主義)と対立し、コミュニティからの個人の解放を謳っているように見えますが、それは間違い。
リベラリズムは個人主義の貫徹それ自体が目的なのではなく、コミュニティの弊害を緩和するための手段だと考えるのが現代的で妥当な考え方だと感じます。

 

リベラリズムの思想は決して暖かいものではありません。
もっと冷静な物事の理解・調停・裁量を必要とする、ちょうど釈迦が空と縁起と世界の無意味を説いたが如く、冷たく静かに苦しみに対処する思想であると考えます。
911やその後のイスラムテロに対する「リベラルな社会を脅かす存在はやっつけろ」という反応、あるいは財政が逼迫する中で「怠け者が保護されるのはリベラル的公正さに反する」などという反応は、リベラリズムが弊害的コミュニタリアリズムに堕した考え方と言えます。
かようにリベラリズムは「我々はリベラルだ」と考える人が作るコミュニティを優先するという、反動的コミュニタリアリズムに堕しがちです。
同時に「主権国家は必ず個人を直接救済するべきだ」という考え方も、合理的なリベラリズムの考え方ではなく、これは冷戦大戦下での高度成長を背景にしたの先進国の福祉国家政策時代にのみ可能な考え方で、現在では財政的に不可能であり、普遍性はありません。(増して日本では高度成長期であれこのような政策は取れていない。)
人の本能は言語的・抽象的な正義へのコミットではなく、共同保育に由来する共感能力の方にああります。
故にコミュニティによる自助・共助が先にあり、その弊害を調停する場合においてのみ、リベラリズムは有効だと考えます。

 

コミュニティの2大弊害を調停するための、合理的なリベラリズムの貫徹は極めて困難です。
冷静な物事の理解・調停・裁量ができる人材を、超国家主体から極小家族まで万遍なく配置できれば素晴らしいですが、そうはなかなかうまくはいきません。
合理的なリベラリズムを貫徹することは、悟りを開き衆生を救済するお釈迦さまを量産するくらい、難しいことだと考えます。

 


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◎まとめ


仏教的に言うとこの世界は無意味で、苦しみに溢れます。
苦しみを緩和するためには、構造の理解と問題への合理的な対処、及び欲望(煩悩)への過剰な執着の回避が必達です。
これをあらゆる個人が体得するのは困難なため、コミュニティによる扶助が前提となります。

コミュニティ形成は人間の感情に由来する生物的習性です。
コミュニティは人が生きていく上で最上級で重要なもの、しかしコミュニタリアニズムは外部の対立と内部の閉塞を回避できません。

リベラリズムはこれを乗り越える可能性を持った考え方ですが、その貫徹のための動機づけと運用は極めて困難です。

 


冒頭の抜粋をもう一度。

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無秩序でデタラメで無意味な世界に、一見ちゃんとしてるかのような人間社会ができているようにみえるのはすごいこと。
言語よりも感覚を重視して、いろんな人やものに触れていると、このデタラメな世界もときに愛おしくなる。
このような感覚を共有した者どうしが、「ちゃんとしたふり」をしながら、デタラメな世界の中に浮かぶデタラメ社会を、少しでもましなようにしていくのもまたいいかもしれない。
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自分の考えでは、「ちゃんとしたふり」≒八正道≒合理的リベラリズムの貫徹です。
このような感覚(≒合理的リベラリズムを貫徹する動機づけ)をどのように身に付ければよいのでしょうか?

このような感覚に開かれる可能性は様々に考えられますが、その可能性の一つが、文芸や美術や音楽などのアート(芸術)であると自分は考えます。

(・・・続きはまたどこかで。)