東京を歩く -20世紀事件史 その1- | れぽれろのブログ

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9月17日~18日に東京に遊びに行き、東京都写真美術館と森美術館を訪れましたが、それ以外にも東京の街をぶらぶら歩き、様々な場所を訪れてきましたので、記事化しておきたいと思います。


以前にもどこかで書いたと思いますが、大阪市や京都市の中心部は道路が東西南北に整然と区画されており、街を歩いていても現在どこにいるのかが比較的容易に分かり、道に迷うことは少ないです。
それに比べると東京の道は非常に分かりにくいです。

皇居を中心に街が同心円状に広がっており、道路は東西南北ではなく好き勝手に入り乱れていて、おまけに坂が非常に多い。
このためウロウロしているとすぐに現在地が分からなくなります。
しかし歩いていて楽しいのは断然東京の方です。
なので、東京に遊びに行くとついあちこちフラフラと歩いてしまい、結構な時間を費やしてしまうことになります。


無目的に歩くのも良いですが、何か目標があっても面白い。
以前に美術作品の題材になった場所を訪れてみたことがありますが(→[こちら])、今回は20世紀の100年の間、世間を騒がせた様々な有名な事件のあとを訪ねて歩いてみることにしました。
以下、各事件とその現場の現在の写真を並べてみることにします。
事件は計10件、20世紀初頭から90年代の事件まで、万遍なくチョイスしてみました。
訪問場所には事件とは直接関係のない周辺の建物なども含まれています。

 


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■日比谷焼き討ち事件 (1905年9月5日)


日露戦争終結後、敗戦国ロシアの賠償金支払拒否を日本政府がやむなく合意、これをきっかけに戦争による重い国民負担を強いられた大衆の怒りが沸騰、1905年9月5日に暴動が発生し日比谷周辺は火の海となります。
都内には戒厳令が敷かれ、警官隊による大規模な暴動の鎮圧が行われました。


近代日本では事あるごとに大衆の集合的沸騰による様々な暴動が発生していますが、日比谷焼き討ち事件はその中でも最も大規模なもの。
戦後は暴動は少なくなり、21世紀の現在では大阪の釜ヶ崎などで発生する小規模な暴動を除けば大衆の暴動というものはほとんどなくなりました。
最後の大規模な暴動といえば60年安保闘争でしょうか・・・?


ということで日比谷です。


こちらは日比谷交差点付近。


日比谷交差点の南側。


このあたりも火の海と化したのでしょうか?


事件の発端となった日比谷公園。


都市のど真ん中にある公園です。
事件はこの日比谷公園で大衆が決起集会を行ったことに発します。
日比谷公園は霞ヶ関のすぐ東側、政府中枢機能の近辺にある公園ですので、何かと事件との関わりが多い場所でもあるようです。
2008年の年越し派遣村もこの日比谷公園(現在は公園のすぐ隣に厚生労働省がある)が舞台となりました。
大衆運動の形も1905年と2008年では大きく変化し、暴動ではなく別の形で展開することになったようです。

 

公園内の池と木々。


日比谷公園はこの後別の事件の舞台として再登場しますが、これはまた次回の記事で。

 


■乃木希典の殉死 (1912年9月13日)


1912年7月30日に明治天皇が崩御。
日本が近代化に邁進した明治は終わります。
日露戦争で活躍した乃木希典陸軍大将は、同年9月13日、明治天皇に殉じる形で妻と共に自害しました。


こちらは乃木希典の住居があった場所。


東京都港区赤坂の西側にあり、現在は「乃木公園」という公園になっています。


ことらが公園内にある旧乃木邸。


事件当日までここに住んでいたとのことで、自害もこの住居内で行われたようです。
乃木大将は切腹の後、喉をついて絶命。
妻も心臓を一突きして絶命したのだとか。


自宅の厩も保存されています。


こちらは乃木神社。


乃木希典が死後神格化されこのような神社が建立されたようです。
東京の街を歩いていると、皇室に関連した公園や神道関連の施設など、何かと国家神道的なものが目につきます。
このあたりが街の印象として、世俗的な商都大阪とは大きく異なる部分だと感じます。
神社から退出する際も鳥居の前で一礼してから退出する人が多く、このあたりの作法も含めて大阪の神社仏閣の印象とずいぶん異なります。


乃木公園の南側の坂。


ここは元々「幽霊坂」と言われていた(すごい名前 笑)ようですが、乃木大将を記念して現在は乃木坂と言われているようです。


ゆるい下り坂の途中にはこんな建物が。


Johnny & Associates、これがかの有名なジャニーズ事務所なのでしょうか・・・?


さて、東京メトロ乃木坂駅の南側には、国立新美術館があります。


今回初めて訪れました。
国立新美術館といえば外観の曲線が有名ですが、実物を見るとかなりのクネクネ具合です(笑)。
メトロ乃木坂駅と直結しており、アクセスも抜群。
この日はダリ展とヴェネツィア・ルネサンス展が開催されていましたが、前者は京都市美術館で鑑賞済み、後者は大阪の国立国際美術館に巡回しますので、今回はパス。


余談ですが国立新美術館は所蔵品を持たない展示場ですので、本来は美術館(museum)ではありません。
なので、英訳ではthe national art centar Tokyoとなっています。
実際には日本語でも国立新アートセンターとでも名乗るべきなのですが、一説によると「美術館」の語を付けないと展覧会にハクが付かないので、このような名前になったのだとか。


壁面をアップすると何やら抽象画のようになります(笑)。

 


■虎ノ門事件 (1923年12月27日)


1923年12月27日、虎ノ門付近でテロ事件が発生。
左翼活動家の難波大助は大正天皇の摂政宮(のちの昭和天皇)の暗殺を計画。
仕込み銃で摂政を狙撃しようとしますが、命中せず。
犯人は逮捕され、翌年死刑が執行されました。
この事件をきっかけに山本権兵衛内閣は総辞職。
以降、1925年には治安維持法が制定され、左翼活動家・共産主義者は徹底して弾圧されることになります。
反面右翼活動家は弾圧を免れ(治安維持法の法的不備)、この結果30年代半ばは逆に右翼テロの時代になります。


こちらは虎ノ門交差点。


日比谷公園は政府中枢機能(霞ヶ関)の東側に位置していましたが、虎ノ門は霞ヶ関の南側になります。


交差点付近には虎の彫像が。


字がかすれてちゃんと読めませんが、土地の謂れなどが記載されているようです。


カメラに向かって吠える虎。


実際に事件が起きたのはもう少し南側のようです。
wikiの解説によると現在の商船三井ビルディング方面で事件は発生したとの記載も。


南側の商船三井ビル。


付近にはビルに挟まれるように神社があったりします。

 


■二二六事件 (1936年2月26日)


20年代日本はプロレタリアの時代でしたが、度重なる弾圧により左翼活動は終焉。
30年代半ばの日本は右翼テロの時代となります。
その中で最も大規模な軍事クーデターが二二六事件です。
陸軍皇道派の青年将校たちは大部隊を率いて主要閣僚の暗殺と政権奪取を目論み、高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監らを次々と殺害、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ、首相官邸、警視庁、新聞社、陸軍参謀本部など主要施設を次々と占拠しました。
あわやクーデター成功かと思われましたが、昭和天皇ご自身の立憲君主の枠を超えた断固たる意思決定によりクーデターは頓挫、青年将校らは反乱軍として鎮圧されることになります。

 


○首相官邸


首相官邸(総理大臣官邸)では、岡田啓介首相が襲撃されましたが、誤って松尾伝蔵(岡田首相に容姿が似ていた)が殺害され、岡田首相は難を逃れました。


現在の首相官邸。


先ほどの虎ノ門の北西、政治の中枢機能である永田町内にあります。
この付近は当然のことながら警備がものすごく、数メートル間隔で警備員が立っています。
警備員の視線を感じ写真を撮るのが憚られます。
下手にカメラを持ってウロウロしていたらつまみだされそうです(笑)。
この写真は警備員の少ないところからササッと撮影したものです。


首相官邸及び隣接する首相公邸は当時のままではありませんが、噂によるとこのときに殺害された松尾伝蔵の幽霊が現在でも出現するのだとか。
現首相は公邸に居住しておらず、一説によると松尾伝蔵の幽霊を恐れてのこととも言われておりますが、真偽のほどは定かではありません(笑)。


官邸付近の様子。


少し北に歩くと国会議事堂が見えてきます。

 


○高橋是清翁記念公園


赤坂の北側にある私邸にて、高橋是清大蔵大臣は殺害されました。
現在はカナダ大使館のすぐ隣、この地は公園になっています。


日比谷公園に比べると人も少なくのんびりした公園です。
乃木公園のような神社もありません。

 

いい雰囲気で気に入りました。


高橋是清の銅像。


高橋是清は立憲政友会に所属していた政治家で、20年代には首相も経験、30年代には蔵相として活躍し、世界に先行したケインズ主義的積極財政により、日本を世界恐慌からいち早く脱出させた人物とされています。

 


○侍従長官邸


二二六事件では侍従長鈴木貫太郎も襲撃されます。
侍従長官邸があった場所は、現在では宮内庁の分庁舎となっているようです。


皇居の北西側にある宮内庁分庁舎。


鈴木貫太郎は重傷を負いましたが、後に復帰し1945年には首相に就任。
8月15日の終戦の決断に深く関わった(昭和天皇から御前会議の場で終戦の詔勅を引き出した)人物です。


宮内庁分庁舎のすぐ南側には、千鳥ヶ淵戦没者墓苑があります。


千鳥ヶ淵戦没者墓苑は戦時中に海外で亡くなられた邦人のために建設された戦没者のお墓です。
この日(9月17日)は法要の前日とのことで、何やらセッティング準備が進められていました。


平和記念碑と追悼慰霊碑。


平和記念碑は終戦直後の引揚げによる死没者のための碑、追悼慰霊碑はシベリア抑留による犠牲者のための碑とのこと。
施設としての印象は3年前に訪れた舞鶴の引揚記念館に近い印象があります。


宮内庁分庁舎から少し北に歩いた京都の北側には武道館がありました。


木に隠れて見えませんが、この写真の奥には八角形の建物が。


その付近にある大山巌の像。


東京を歩いていると歴史的有名人の像にもよく出会いますね。

 


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ということで、続きます。
次回は戦後の事件あとを辿ってみようと思います。