飯村隆彦の映像アート | れぽれろのブログ

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9/24,25の2日間、国立国際美術館に行ってきました。
この日は中之島映像劇場の第12回、「飯村隆彦の映像アート」の上映日。
中之島映像劇場は自分は過去6回鑑賞しており、今回で7回目の鑑賞となります。


国立国際美術館の現在の特別展は「始皇帝と大兵馬俑」と題された展覧会、こちらの方は国際美術館にしては非常に珍しいことに、チケット売り場や入場口に行列ができています。
通常は現代美術の展示がメインの美術館であるため、並ばないと見られないほど混雑することは珍しいです。
行列ができるのは何年ぶりでしょうか・・・?
「始皇帝と大兵馬俑」も鑑賞してみたいですが、今回はパスし、2日とも上映イベントの方へ向かいました。


飯村隆彦さんは60年代以前から前衛的な映像作品を制作されてきた方で、60年代にアメリカやヨーロッパの前衛作品・実験作品が日本に紹介される前から実験的な作品を制作されていたとのことです。
以降、現在まで様々な映像作品を制作し続けています。
今回のイベントでは、数分~20分程度の短い映像作品が計23本、2日間に渡って上映されました。
どの作品も実験的・前衛的なものばかりで、視覚的な面白さを追求したビジュアル重視の作品から、映像を見るということを概念的に捉えなおしたコンセプチュアルな作品まで、様々な作品が上映されていました。
どの作品も楽しく鑑賞しましたが、以下、とくに面白かった作品をいくつか取り上げ、感想などをまとめておきます。

 


■ド・サド (1962年、10分)


マルキ・ド・サドの小説の挿画(版画作品)を接写で延々映し続ける映像が続く作品。
撮影対象は18世紀~19世紀ごろの版画と思われます。
サドの小説らしく、映される版画作品は男女の性愛的な場面ばかり。
性愛的な情交はやがてエスカレートし、猟奇的な内容に変化していきます。
BGMはビートルズの「A Hard Day's Night」他2曲。
映像と音楽はギャップがあるようでいて、歌詞を考えるとマッチしているようにも感じられ、面白いです。
この作品は今回の23作の中で最も分かりやすく、実験映像が苦手な人でも楽しめそうな作品になっています。

 


■Ai(LOVE) (1962年、10分)


続いても性愛的な作品。
男女のセックスシーンを撮影した映像ですが、極端な接写が延々続くのが本作の特徴。
身体の各パーツをやたらとクローズアップするため、今表示されているのが身体のどの部分なのか釈然としない映像が続きます。
クローズアップにより身体映像が異化されていくのが非常に楽しい。
よく観察するとこれは目だなとか、喉の奥だなとか、だんだんと分かってくる場合もあります。
一瞬分かりにくいですが、よく見ると明らかに性器そのものを接写しているようにみえる場面もあり、1962年という時代を考えるとなかなか過激な映像なのではないかと思います。
身体を異化して新たなイメージを喚起するという試みは、同時代の細江英公などの写真作品にも通じる気もし、非常に面白いです。

 


■フィルム・ストリップスⅠ&Ⅱ (1966-70年、22分)


こちらも映像の異化効果を狙ったような作品ですが、作風は上記の「Ai(LOVE)」以上に過激で眩暈的です。
元の映像はアメリカのヒッピー運動や黒人運動の様子を撮影した映像のようですが、荒い映像の断片を高速で連続的に表示し続けるため、画面はほとんど抽象的な形態になってしまっています。
抽象的で不明瞭な形態の連続の中から、ときどき人物などの断片を確認することができます。
具象物が映像操作により抽象化していく様子と、その中から不意に具象物が浮かび上がる様子が非常に面白いです。
黒と白の光が作り出す抽象形態は、じっと見ていると眩暈的なトリップ感を覚える作品で、ビジュアル(視覚)/コンセプチュアル(概念)の対比で言うと、極端にビジュアルのみを追求したような作品であるように感じます。

 


■オブザーバー/オブザーブド (1976年、24分)


今度は上記の「フィルム・ストリップスⅠ&Ⅱ」とは逆に、極端にコンセプチュアルな作品です。
画面上にカメラ・モニター・撮影者がそれぞれ映し出され、「これはカメラ」「これはモニター」「これは私」などの解説が英語で語られます。
やがて「私はカメラを見る」「私はモニターを撮影する」など、見る/見られる、撮影する/撮影される、表示する/表示されるといった関係性についての映像と解説に変化していき、カメラとモニターと撮影者による主体/客体の順列組合せが順に映像化されていきます。
さらにカメラが2台、モニターが2台、撮影者が2人に拡張され組み合わせパターンが増加、主体と客体の関係性がどんどん複雑化していきます。
すべての論理的パターン分けを映像と解説で表示分類していく様子が、これまた眩暈的に拡張していく感じがして非常に楽しい。
「フィルム・ストリップスⅠ&Ⅱ」のような映像的な眩暈ではなく、概念的眩暈とでも言えるような作品で、今回の上映作品の中でもかなり面白かった作品です。

 


■1秒間24コマ (1975-78年、12分)


今回の全作品の中で個人的に最も楽しかったのがこの作品。
文章での説明が難しいですが、簡単にストーリー(?)をまとめると以下の通り。
黒い画面と白い画面(フィルムの黒味と素抜け)が順に計24回表示され、このパターンがさらに計24回繰り返されます。
しかしコマ数が少しずつ減っていくためか、パターン繰り返されるごとに1/24ずつ黒/白の表示回数は少なくなってきます。
さらに2つの音が計24回鳴らされ、それが1パターン進むごとにリズムが1/24ずつずれていきます。
4パターンめでは2音が4/24ずれるため、スキップのようなリズムに。
6パターンめ(6/24)で4拍子のうちの2拍、8パターン(8/24)めで3拍子のうちの2拍、12パターンめ(12/24)で2拍子となります。
これが音楽的に面白く、さらに後半の繰り返し回数の減少に伴い、徐々に妙な加速感覚に襲われることになります。
論理的にパターン化されたでだけの音と映像ですが、ルールが齎す視覚的・音楽的なものが身体感覚に訴える、非常に楽しい作品でした。

 


他にも面白い作品がありましたが、とりあえずこの辺で。


全体を通して。
映像アート草創期の実験作品の数々は、シュルレアリスムなどのこの時代以前の前衛的潮流の影響があり、さらに同時期のアメリカの抽象表現主義やヨーロッパのアンフォルメルにも近い雰囲気もあり、同時代の写真作品との類似性もあり、同時期以降のコンセプチュアルアートとの関係性も確認できる、美術史的にも面白い作品たちでした。
大きく分けて、即物的に物を撮影し物を解体した上で映像的強度を浮かび上がらせるビジュアルな作品と、映像の意味的関連性を浮かび上がらせるコンセプチュアルな作品に分かれていましたが、このいずれもが面白い作品でした。


映像についてなんとなく考えたこと。
コンセプチュアルな作品であっても、映像の場合はやはり人や物が映し出されます。
その人や物が、作品意図としては記号的であったとしても、映像の場合は記号になりきれないところがあります。
上にあげた「オブザーバー/オブザーブド」にしても、昔のブラウン管は応答速度が遅いなとか、この時代の女の人は化粧が薄いなとか、映像を見ているといちいち余計なことを考えてしまったりします。
写真や映像は完全に概念的にはなれず、必ずノイジーな部分を含みます。
文芸や音楽や絵画と、写真や映像の大きな違いの一つはこのようなノイジーさにあるように思いますが、この余計な情報を含んでしまうノイジーさ加減が映像の面白いところなのかもしれず、自分が映像に密かに期待するのもこのあたりなのかもしれない、などと感じました。

 


ということで、映像作品は面白い。
中之島映像劇場は毎年春(2~3月ごろ)にも上映されていますが、どういうわけか春の方は毎年予定が合わず、ここ数年鑑賞できていません。
来年の3月は行けるといいなと思いつつ、また楽しみに待ちたいと思います。