杉本博司 ロスト・ヒューマン | れぽれろのブログ

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9月17日~18日の2日間、東京に遊びに行ってきました。
まずは18日に訪れた東京都写真美術館で開催されていた「杉本博司 ロスト・ヒューマン」と題された展示について、感想などを残しておきます。

 


東京都写真美術館は長らく改装中でしたが、この9月に改装を終えリニューアルオープンしました。
前回自分が訪れたのは「ジャコメッリ展」のときでしたので、3年ぶりに訪れたことになります。
東京都写真美術館は恵比寿ガーデンブレイスの敷地内にあります。

 

外観はこんな感じ。

 


3年前とあまり変わってない・・・かな?
(前がどんなだったかはちょっと忘れてしまってます 笑。)


入り口付近の壁には、ドアノー、キャパ、植田正治の超有名作品が。

 

 


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ということで、杉本博司展です。
杉本博司さんは現代日本を代表する写真家。
ピクトリアリスム風の端正さが特徴的な作品が多く、世界の海を撮影した「海景」シリーズや、無人の映画館を撮影した「劇場」シリーズがとくに有名だと思います。
収集家としても知られ、2009年に国立国際美術館で開催された「歴史の歴史」展では、自身の写真作品と共に、自身の様々な収集品:日本の伝統工芸品、化石などの考古学的なもの、過去80年の「TIME」誌のコレクションなどの数々が合わせて展示されていました。


今回の展示は3部構成。
第1部は「今日世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」と題されたインスタレーション、第2部は「廃墟劇場」と題された写真と文章の展示、第3部は「仏の海」と題された写真の展示となっていました。

 


第1部の「今日世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」は、古びたトタン板で区切られたブースに、自身の写真作品や自身の収集品が展示されたインスタレーション作品になっていました。
崩壊後の世界を思わせるようなバラック風のブースごとに、「今日世界は死んだ。もしかすると昨日かもしれない。」(カミュ「異邦人」の冒頭を変形しての引用)で始まる言葉書きが合わせて展示され、理想主義者、比較宗教学者、古生物研究者などの様々な人物たちの言葉によって、人類の終焉・世界の終焉が描写されていました。
この世界の終わりの描写と写真作品と収集品の数々が、相互作用的に怪しげな意味合いを醸し出し、えも言われる意味空間を作り出しており、非常に面白い展示でした。


世界の終わり方は全23パターン。
過去様々な形で描かれたよくありそうな滅亡から、ちょっとありえないような(?)荒唐無稽な滅亡まで、パターンは様々。
戦争による殺し合い、宗教対立、民主主義の機能不全による独裁政治化、経済破綻、貧困層の激増、化石燃料の枯渇、原発災害、廃棄物による汚染、情報処理システムの崩壊、氷河期の到来、人類の生殖能力の衰退、進化した他生物の襲来、ロボットの反乱、耐用年数を超えた巨大建築物の倒壊、安楽死の浸透、虚無感の蔓延、などなど。


とくに不気味で印象的なのをいくつか。
ロボットの反乱による世界の滅亡が描写される「ロボット工学者」のスペースでは、文楽人形や鉄腕アトムの紙芝居が合わせて展示され、とくに日本の文楽人形の首だけが電動でウィンウイン動く装置が、やたらと異様な不気味さを醸し出しています。
「ラブドール・アンジェ」のスペースでは、女性の社会進出から来る男性の性的萎縮による人類の衰退が描写され、オリエント工業によるラブドール(ダッチワイフ)をのぞき穴から覗く空間構造はマルセル・デュシャンの「遺作」を思わせ、背後の森林のイメージはウィン・バロックか何かの写真作品のような異様さ。
「バービーちゃん」のスペースでは、優生思想的に美男美女を増やす遺伝子操作のツケとして種が衰退する様子が描写され、可愛らしい人形たちが無数の塔婆と共に並べられており、個人的にこの展示スペースが最も不気味でした。
「解脱者」のスペースでは、仮想と現実の区別がつかなくなった人間が虚無的に衰退する様が描写され、そこに鈴木大拙の書籍と初音ミクの人形が合わせて展示、ブティストの法悦とオタク的没入が紙一重であることが印象付けられ、非常に面白いです。


その他、「政治家」や「ジャーナリスト」のスペースでは、「TIME」誌を中心とした雑誌の表紙が効果的に使われていました。
とくに「ジャーナリスト」のスペースでは、正義のジャーナリストが政治家の不正を追及しすぎた結果、人間的魅力の乏しい政治家ばかりになり政治が崩壊したという言葉書きと共に、リチャード・ニクソン(ウオーターゲート事件で失脚)、田中角栄(ロッキード事件で失脚)、モニカ・ルインスキー(ビル・クリントンの愛人)らの雑誌がタバコのショーケースに陳列されますが、同時に戦時下の翼賛報道雑誌「日露戦争実記」や「写真週報」も合わせて陳列され、ジャーナリズムの困難さを印象付ける作品になっており、写真というメディアの性質に最も近いテーマの作品であるように感じました。


さらに、各スペースの言葉書きは、著名人(主に美術関係者)による代筆(肉筆)となっているのも面白いです。
須田悦弘、宮島達男、束芋など、自分が過去に特集展示を鑑賞したことのある作家さんも登場。
各人物と言葉書きの関係性をあれこれ考えてみるのも面白いです。

 


続いて第2部の「廃墟劇場」。
これは過去の「劇場」シリーズと同様の方法論で撮影されていますが、既に使われなくなり廃墟となった映画館が被写体であるのが今回の作品の特徴。

崩れた壁や装飾などが美しく撮影され、文明の儚さを印象付けます。
そこに様々な映画のタイトルとそのあらすじ、それに加えて日本の古典の一節が付け加えられています。
廃墟は世界の終わりを連想させ、採用される映画も「博士の異常な愛情」「ディープ・インパクト」「ゴジラ」などのカタストロフ的な作品が目に付き、第1部との関連性が意識されているようです。
一方日本の古典からの引用は「平家物語」「方丈記」「源氏物語」「枕草子」など、いずれも平安中期から鎌倉期にかけて、いわゆる末法の世の作品が並んでいるのはやはり終末的であるとともに、次の第3部との関連性をも意識づけられます。


最後の第3部は「仏の海」と題れた写真たち。
京都の三十三間堂の千手観音像の数々を異様に美しく撮影した8枚の写真が並んでいます。

部屋の隅には透明のガラスでできた小さな石燈籠の模型、ここに千手観音たちが小さく映り込んでいます。
世界はとうとう終焉し、浄土に召される人間たち、といった雰囲気の展示構成になっていました。

 


全体を通して。
この展示はロスト・ヒューマン=人類の終焉がテーマになっていますが、終焉が悲劇的に描かれるわけではなく、現代社会に対して警笛を鳴らすといった目的があるようにも感じられず、淡々と終末の例を提示しているように見えます。
展示の第3部は浄土的な美しさに満ちていますが、展示構成からは終末のあとの救済といった雰囲気もあまり感じられず、全体として強い主張や意志のようなものもあまり感じられません。
作家の想像力と自身のコレクションを総動員して人類終焉の様を例示することのみに徹する展示。
ここにあるのは、ものと作品とテクストが関連し呼応する眩暈的な面白さ、そして一部の写真の異様な美しさのみです。
希望も絶望もなく現象のみが列挙されるものすごい問題作。
これをどう受け止めれば良いのかなかなか整理が付きませんが、なかなか得難い展示であることは間違いありません。

 


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この日は2016年度の世界報道写真展も合わせて開催されていましたので、同時に鑑賞してきました。
その名の通り報道写真ばかりなのですが、すごく構図が決まっている作品が多くてびっくり。
報道としての価値と美的感性が同居する作品たち、写真というメディアの素晴らしさを改めて感じさせると同時に、現在の写真家の力量のすごさに感激します。

 


ということで、東京都写真美術館は面白い。
また何度も訪れたい美術館ですね。


次回は旅行中に訪れた別の展覧会の感想などを書き留める予定です。