今年の7~8月ごろに「読書メーター」に登録して読んだ本の覚書です。
<内容・感想>は「読書メーター」への投稿内容、
<コメント>は各書籍から感じる自分の自由な記録です。
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■吉野葛・盲目物語/谷崎潤一郎 (新潮文庫)
<内容・感想>
亡き母を慕う男の物語を軸に、近代日本の都市・農村のひとつの関係性と
大和路の美しい風景とを、文学・音楽・歴史を織り交ぜながら美しく描いた
「吉野葛」。
大和路の美しい風景とを、文学・音楽・歴史を織り交ぜながら美しく描いた
「吉野葛」。
信長の娘お市に仕えた盲目の按摩師が語る、戦国の世の女性の
数奇な運命を描いた「盲目物語」。
数奇な運命を描いた「盲目物語」。
いずれの作品も文体が素敵で、とくに「盲目物語」の平仮名主体でときに
心地よく漢字が挿入される文は、文字を追いかけるだけで心地よいです。
心地よく漢字が挿入される文は、文字を追いかけるだけで心地よいです。
徐々に本筋に近づいていく「吉野葛」の構成もまた面白く、全体として筋や
主題よりも、小説の構築方法と文章そのものの美しさが味わい深いと感じます。
主題よりも、小説の構築方法と文章そのものの美しさが味わい深いと感じます。
<コメント>
その昔、谷崎潤一郎はと芥川龍之介は小説にとっての重要な点について
論争を行い、谷崎は「筋の面白さ」を小説の重要な点としてあげ、
芥川は筋よりも「詩的精神」を重要な点だと考えたのだとか。
論争を行い、谷崎は「筋の面白さ」を小説の重要な点としてあげ、
芥川は筋よりも「詩的精神」を重要な点だと考えたのだとか。
このことを鑑みて改めて考えてみると、上の感想では
「筋や主題よりも小説の構築方法と文章そのものの美しさが味わい深い」
「筋や主題よりも小説の構築方法と文章そのものの美しさが味わい深い」
と書きましたが、よくよく考えると小説の「構成方法」というのも
広義には「筋」な訳で、「吉野葛」における友人(津村)の境遇と旅の顛末を
徐々に浮かび上がらせていく構成は、やはり「筋」としての技法が面白いのだと
振り返って感じます。
広義には「筋」な訳で、「吉野葛」における友人(津村)の境遇と旅の顛末を
徐々に浮かび上がらせていく構成は、やはり「筋」としての技法が面白いのだと
振り返って感じます。
一見筋らしい筋がないように見えて「筋的構築性」を持ち、上方の歴史・文化・
自然・社会変化を美文とともに描写した「吉野葛」は本当に素敵な作品です。
自然・社会変化を美文とともに描写した「吉野葛」は本当に素敵な作品です。
「盲目物語」の方はひらがな主体の独特の文体がまず特殊で面白いです。
この美文で繰り広げられる戦国時代の女性の数奇な運命、
豊臣秀吉と柴田勝家の対立に秀吉のお市への好意があったとの仮説を
元にした物語。
元にした物語。
このひらがなを駆使した文章が、さもお市の傍にいる盲目の三味線弾きが
本当に語っているかのような雰囲気を醸し出している点、
やはりテクニック的な面白さを感じます。
■偶然性の問題/九鬼周造 (岩波文庫)
<内容・感想>
偶然性を定義し個別事物の偶然性=存在の有無を論じた本。
偶然の捉え方を提言的偶然・仮説的偶然・離接的偶然の3種に分類し、
それぞれ論理的・経験的・形而上的に偶然を定義、
そして個別事物の存在理由は時間を遡ることにより原始偶然
(=形而上的絶対者=神)に至るとされています。
(=形而上的絶対者=神)に至るとされています。
個別の論理展開は複雑で挿図の意味するところも難解ですが、
例証が多く挙げられているのでそれを元に大枠を掴むことができる
構成になっています。
構成になっています。
個別の事物が存在する偶然性を肯定することにより事物の存在を肯定し、
生を無条件に肯定する哲学であると感じます。
<コメント>
やたらと難渋な本で、今年読んだ本の中では「意識と本質」(井筒俊彦)並みに
難しく、上のまとめを読むだけで何やら難解です。
難しく、上のまとめを読むだけで何やら難解です。
以下、自分なりに無理やり強引にまとめ&意訳してみます。
提言的偶然は「一般に対する個別の偶然」。
クローバーは一般に三つ葉です。
しかし個別のクローバーの中には四つ葉のクローバーが稀に存在します。
これが提言的偶然。
仮説的偶然は「この時間・場所での邂逅」。
あるクローバーが四つ葉であるのは、何らかの生物学的・遺伝子的・
あるいは外傷的な原因の組み合わせによる必然性によりますが、
あるいは外傷的な原因の組み合わせによる必然性によりますが、
それが他でもなく目の前の「この」クローバーにおいて生じたのは偶然です。
これが仮説的偶然。
離接的偶然は「無いことの可能」。
三つ葉のクローバーに対し、四つ葉のクローバーなるものは
本来存在しなかった可能性があります。
本来存在しなかった可能性があります。
存在しないことが可能である(無いことの可能)にも関わらず、
現に存在しているのは偶然です。
現に存在しているのは偶然です。
これが離接的偶然。
離接的偶然の考え方を拡張すると・・・
わたしは本来発生しなかった可能性がありますが、
わたしは本来発生しなかった可能性がありますが、
しかし現にわたしが存在していることは偶然。
我々が生きるこの世界は本来発生しなかった可能性がありますが、
しかし現に世界が存在していることは偶然。
時間を遡って個別の事象の発生に対する原点の偶然性(原始偶然)を思うとき、
その原始偶然が発生したある特異点に対する驚き、
「無いことも可能であったはずなのになぜ有るのか」ということに対する驚き、
このことが存在への慈しみ・肯定へと繋がる。
そんな風に読むことができそうです。
最近では生命が誕生することの確率計算などもやられているようで、
この地球上で生命が偶然に誕生する可能性はものすごく低いという説も
あるようです。
あるようです。
このような最新の生物学仮説と九鬼周造を合わせて考えてみるのも
面白そうですね。
面白そうですね。
■右傾化する日本政治/中野晃一 (岩波新書)
<内容・感想>
戦後日本の保守政党の政治変遷史を纏めた本。
開発主義・恩顧主義の考え方が中心であった自民党の保守本流は、
70年代末の大平正芳内閣の時期より大きな転換を迎えます。
この本では大平以降、中曽根・小沢・橋本・小泉・安倍とリーダーが
移り変わるにつれ、大平の当初の思惑を大きく超えた形で、
移り変わるにつれ、大平の当初の思惑を大きく超えた形で、
新自由主義的・国家主義的な体制に移行していく様子が纏められています。
著者によると安倍政権が頓挫としたとしても現在の流れは
容易に変えられないとされ、より先鋭化した政権が誕生することを防ぐ意味で
リベラルの再生が必要であるとされています。
容易に変えられないとされ、より先鋭化した政権が誕生することを防ぐ意味で
リベラルの再生が必要であるとされています。
<コメント>
この本から自分が感じた重要なメッセージ、
それは安倍政権が決して最悪なのではないということです。
それは安倍政権が決して最悪なのではないということです。
高度成長による再分配が機能した「短い20世紀」は70年代に終わり
低成長時代以降の過去30年において政治は必然的に
新自由主義的・国家主義的な体制に移行していく。
新自由主義的・国家主義的な体制に移行していく。
「アベ政治を許さない」は重要ですが、
安倍政権さえ終われば何かが解決するわけではない。
安倍政権さえ終われば何かが解決するわけではない。
この30年の傾向から、現政権が終了した後は一旦左にスイングバックしますが、
その後再び前よりも大きく右にスイングバックするのです。
安倍晋三や菅義偉の如きが最悪なのではない。
小泉・安倍チルドレンと称される面々の中の相当に劣化した政治家たち、
あるいは中央政治への進出を目論む地方政治の首長の劣化した顔ぶれを
見る限り、この予感は的中しそうです。
見る限り、この予感は的中しそうです。
現在の大阪府知事戦が象徴的です。
自民対維新の対立、リベラリスト的立場からすると
このような対立はどちらが勝っても負けです。
このような対立はどちらが勝っても負けです。
遠からずこのような対立軸は国政にも持ち込まれることが予想されます。
そんな中、共産党(極左)の発言力が目立ってきていることも、
リベラル政党(中道)の不在故のことです。
リベラル政党(中道)の不在故のことです。
かつての自民党ハト派(宏池会・経世会系)のような
「今から思うとまだリベラル的な」中道保守は民主党政権の失敗とともに
完全に終焉し、現在は極右と極左しかいない、
「今から思うとまだリベラル的な」中道保守は民主党政権の失敗とともに
完全に終焉し、現在は極右と極左しかいない、
そしてそれは歴史の必然である、と考えると暗澹たる気分になります。
現政権は少なくとも対米追従の枠の中で行動しているという点で、
その無茶苦茶ぶりもまだ予測可能です。
日本にとって対米自立は重要だと思いますが、
これが極右的な劣化した政治家による反動的な対米対立となり、
真に滅茶苦茶なことになるなら最悪です。
遠くない未来、「かつての安倍時代の政治はまだマシだった」ということに
ならないよう、何か自分も考え行動したいなと思います。
ならないよう、何か自分も考え行動したいなと思います。
■戦後日本の宗教史/島田裕巳 (筑摩選書)
<内容・感想>
明治期に構築された国家神道体制と祖先崇拝の考え方が、
戦後どのように変遷していったかについて分析された本。
国家神道体制は敗戦により崩壊し、象徴天皇制や靖国神社のみが存続。
高度経済成長に伴う農村から都市への人口の移動・核家族化により
農村共同体を中心とした祖先崇拝の考え方は急速に薄れていき、
一方で創価学会に代表される都市労働者層を包摂する新宗教が勃興。
低成長時代になると社会不安を背景に新新宗教が勃興し
その最も先鋭的な団体がオウム真理教。
日本の宗教の在り様が時代により大きく変わってきたことがよくわかる本です。
<コメント>
自分はとくに最近の読書経験の中で、宗教が社会を変えるのではなく、
社会が宗教を変えるのだということを強く感じます。
社会の変化によってある宗教が発生したり変化したりし、そして
その発生・変化した宗教がフィードバック的に社会に影響を与えていきます。
その発生・変化した宗教がフィードバック的に社会に影響を与えていきます。
歴史を見てみると、キリスト教もイスラム教も仏教も、
時代や地域によりどんどん変節していきます。
宗教が特定の時代や地域に伝わるとき、その宗教の教義なりが
厳格に伝わるのではなく、宗教自体がその時代・地域が持っている性質に
習合していくのです。
厳格に伝わるのではなく、宗教自体がその時代・地域が持っている性質に
習合していくのです。
この本でも同様のことを感じます。
神道的なものが戦後に衰退するのは社会変化による必然、
高度成長時代に創価学会のような都市労働者層の生活スタイルに合う宗教が
勃興するのも必然、
勃興するのも必然、
戦後社会からポスト戦後社会に急激に移行する中でオウム真理教のような
社会不安を背景にした個人自己実現的な宗教が発生するのも必然。
なので、つい先日フランスでテロが起きましたが、このようなテロの原因を
ISのイスラム的教義そのものに理由を求めることにはあまり意味はなく、
ISのイスラム的教義そのものに理由を求めることにはあまり意味はなく、
むしろIS的なるものが発生する社会変化に注目する必要があると感じます。
この本の天皇制の変化についての記述も面白いです。
よく考えると、戦前の天皇制は帝国主義的な集権体制の時代にリンクし、
戦後の皇太子夫妻(今上天皇皇后両陛下)の家族モデルは
高度成長時代の核家族モデルにリンクし、
高度成長時代の核家族モデルにリンクし、
現在の皇室後継者問題は人口減少社会とリンクしている、
と考えると興味深いものがあります。
と考えると興味深いものがあります。