舟越桂 私の中のスフィンクス | れぽれろのブログ

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9日の木曜日、兵庫県立美術館に遊びに行ってきました。

美術館にでかけるのは5月の根津美術館以来なので、割と久しぶりです。
少し前の数日間は雨降り続きで比較的涼しい日々が続いていましたが、
この日はムシムシと暑く、いよいよ夏という感じがしてきた日です。

この日の特集展示は舟越桂さん。
現代の彫刻家の中ではかなり有名な方で、自分もいろいろな美術館で
何度か鑑賞したことのある方です。
木彫の半身像を主に製作される方で、クールな表情の独特の雰囲気漂う
人物像が印象的ですが、近年の作品は顔や身体が極端に誇張されたり
怪しげな装飾物が取り付けられていたりで、
謎めいた雰囲気の作品も多いです。
この方の作品が好きだという方も多く、作風を変化させながら
現在も第一線で活躍中の彫刻家です。

今回は初期作品から最新作まで、舟越さんの作風の変遷を一望できる
貴重な展覧会です。
これは是非にということで、灘まで出かけてきました。

ということで、以下展示の覚え書きと感想など。


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舟越さんは80年代から活躍されています。
今回の展示では、作品を大きく80年代、90年代、ゼロ年代の3期に分けて
展示されていました。
しかし、10年代以降はまた作風が変化しており、
10年代以降は第4期ではないかという印象も受けました。

80年代の作品は、後の時代と比較すると、
誇張やデフォルメの少ない木彫の半身像。
表情は硬く無表情。
眼は正面を見据えているようで、玉眼はやや左右斜めに分かれており、
焦点が合っていない感じがします。
(解説によると、これは鑑賞者と「視線が合わない」ようにするための
工夫なのだとか。)
最初期の作品はとくに眼の部分の彫りが深く、白人・欧米人風です。
その後徐々に彫りが浅くなり、日本人ぽくなってくる気がしますが、
鼻梁は高い作品が多く、やや国籍不詳な感じもあります。
頭部は極端に刈り上げられた髪型が多いです。
国立国際美術館の所蔵作品で、個人的にはお馴染みの「銀の扉に触れる」など、
刈り上げの上にセンター分けというちょっと不思議な髪型。
この時期の半身像は、手は腕の部分のみで手先までは製作されず、
ほとんど頭部と胸部のみの作品です。
全体的にこの時期は極端な誇張は少なく、
やや即物的な作品でありながら、静謐な雰囲気で叙情的でもあります。
展示されている作品はおそらくすべて男性像。
比較的違和感なく多くの方に好かれそうな作品で、自分も好きです。

90年代からゼロ年代初頭の作品になると、
頭部や胴体がかなり誇張されてきます。
極端に胸部が細く腹部が大きい作品や、
不思議な髪型(髪型というより角のように見える)の作品などが登場。
身体の在り様も、80年代までのまっすぐな体つきではなく、
動きやゆがみが見られるようになってきます。
さらに、手が登場する作品も登場しますが、この手は背面のおかしな位置に
取り付けられており、作品の人物自体の手なのか、はたまた他者の手が
取り付けられているということなのか、釈然としません。
胴体部分が山のように見える作品もあり、これらは「山を包む私」のような
タイトルから、明確に山を表現していることが分かります。
さらには、頭部に鉄塔と電線のようなものが取り付けられた作品もあり、
人間の半身像でありながら、山と山上の送電設備の組み合わせのように
見えてきます。
人物像でありながら風景像。
また、今回の展示ではこの時期に初めて女性像が登場します。
「雪の上の影」という作品は、二人の人物が融合されたような作品ですが、
少なくとも前側の人物は女性のようです。
一瞬二人羽織のように見える(笑)作品ですが、暖かな雰囲気で、
この時期の作品では一番好きかもしれません。
全体的に、80年代に自ら築き上げた作品を自ら崩して変化させ、
形態を模索しているような印象を受けます。
この時期になると、作風に好き嫌いが分かれてきそうです。

ゼロ年代以降になると、作風はさらに過激になります。
半身像は今までは服を着ている作品がほとんどでしたが、
この時期は裸体が増えてきます。
裸体の多くは女性の乳房を持ち、女性像と思われるものがほとんどですが、
頭部の表現はあまり女性っぽく感じられない作品もあり、
性別不詳な雰囲気が漂います。
首はより長く誇張されているものが増え、髪型も異様に誇張され、
髪なのか角なのか、あるいは垂れ耳がついているようにみえる作品もあります。
タイトルに「スフィンクス」が付く作品群になるとさらに異形度は増し、
身体の色が異常だったり、バッタを食べていたり、
女性の乳房を持ちながら男性器を持っていたりと、モンスター化が著しいです。
イラク戦争期に製作されたと思しき「戦争を見るスフィンクス」の連作では、
それまでの無表情さがなくなり、怒りと侮蔑が入り混じったような表情の像も
登場します。
この時期は写実的・即物的要素はよりも、見えないものを描く幻想性が
非常に強い時期で、大いに好き嫌いが分かれそうです。

10年代以降の近年の作品はやや異形性が消え、
静謐な女性像に戻っている感じがします。
いくつかの裸体の女性像のは下半身まで描かれています。
家などの建築物と一体化した作品など、やはりデペイズマン風ですが、
ゼロ年代の異形性よりはどちらかというと80年代の静謐な雰囲気に回帰している
印象を受けます。
90年代以降の造形の模索を経た後の初期回帰、といった感じでしょうか。
よく見ると目が4つあったりとか(2つは玉眼で2つは描かれた目)
モンスターっぽい作品もありますが、不気味な感じは少なく、
自分はこの近年の作品が最も気に入ったかもしれません。


全体通して感じたことなど。

まず彫刻自体の造形と物質感が印象的です。
身体が不気味に誇張された作品であっても、
木彫の制作の仕方というか物質性の部分が心地よい。
絵画で例えるならマグリットのような、変なものが描かれていても、
色遣いや描写・彩色が心地よいという感じ。
そして人物の表情が良いです。
困惑とも諦念とも解脱とも取れる表情の作品たちは、
落ち着いた情感・静謐さを醸し出している印象を受けます。
女性の体+男性の顔+静謐性ということで、
何だか菩薩像に近いものも感じる作品もあります。

反面、現代美術的なコンセプチュアルな要素はあまり感じないように思います。
論理性・意味性・意識的な同時代性・社会性といった要素はについては、
全くないということはないと思いますが、自分はあまり強く感じることは
ありませんでした。
スフィンクスは「人間を問う」(朝は3本足云々の例の質問から)ということを
示唆しているということもキャプションには書かれていましたが、
こういった意味的要素よりも情感的要素を強く感じます。
どちらかというと自分は、造形的な部分、触覚的な部分(実際触れられませんが
彫刻の場合はこれは重要な要素)、情感的な部分を通して、
世界の在り様に感覚的に触れるような、そういった要素が気に入り、
興味深く鑑賞することができました。


ということで、面白い展示でした。
ここ最近は、フィオナ・タンだとか高松次郎だとか、
意味のかたまりのような現代美術作家の作品を多く鑑賞してきましたので、
脳を切り替えて(?)非常に楽しく鑑賞することができました。


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この日は常設展も鑑賞する予定でやってきたのですが、
常設はちょうど展示替えでお休み・・・残念。

ということで、余った時間で兵庫県立美術館の建物を散策してきましたので、
次回はこのあたりを記事化してみようと思います。