野田秀樹演出「フィガロの結婚」~庭師は見た!~ | れぽれろのブログ

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6月6日の土曜日、オペラを見に行きました。
前日の6月5日は旧職場のメンバーでお酒を飲みに行っており、
さらにオペラは前週も「ばらの騎士」を鑑賞したところ。
仕事を辞めて2週連続でオペラばっかり見ててええんかいと、第三者の立場での
心の声が聴こえてきますが、チケットをとっていたものは仕方ないということで、
モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」を観てきました。
6月6日といえば一般に雨ザーザー降ってくる日と言われますが、
この日は前日からの雨模様も改善し、涼しげで爽やかな気候の中、
西宮の兵庫県立芸術文化センターへ行ってきました。

「フィガロの結婚」は何度も鑑賞したオペラです。
調べてみると、このブログでも2回も記事化しており、
今回が3回目の記事となります。

<過去記事>
・歌劇「フィガロの結婚」 (プラハ国立劇場)
http://ameblo.jp/0-leporello/entry-11442410315.html
・歌劇「フィガロの結婚」 (スイス・バーゼル歌劇場)
http://ameblo.jp/0-leporello/entry-11564726969.html

「フィガロ」がどんなオペラかは過去記事で散々書いたので、今回は省略。
今回は野田秀樹さん演出とのことで、少し特殊な演出のフィガロのようです。
舞台は幕末の日本、長崎での日本人と外国人の接触という設定に置き換えた
演出であるとのこと。
主要キャストは3名を除き日本人。
単に日本人が演じるという訳ではなく、長崎に住む日本人役を演じるようです。
なので、「フィガ郎」とか「スザ女」とか、ふざけた名前が付いています(笑)。
アルマヴィーヴァ伯爵、伯爵夫人ロジーナ、小姓ケルビーノの3名は、
長崎からやってきた外国人役とのことで、外国人歌手が演じます。
「庭師は見た!」という、何やら2時間ドラマ風のサブタイトルが付けられており、
原作ではチョイ役の庭師「アントニ男」ことアントニオが狂言回し的に
活躍するというストーリー。

さらに珍しいことに、日本人キャストが日本同士で会話する際は、
日本語で歌うとのこと、独唱も重唱もレチタティーヴォも日本語・・・!
指揮は井上道義さん、オケは兵庫芸術文化センター管弦楽団、
さあ、どんな舞台になることやら。


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ということで、この日の覚書と感想です。

<注意>
以下、演出上のネタバレに言及します。
今回の演目はまだ公演中で、しかも秋以降の後期公演もあるようですので、
一応お断りしておきます。

貴族階級と平民階級の対立が「フィガロの結婚」のひとつのテーマなのですが、
この対立が長崎にやってきた外国人と日本人の対立として描かれるのかな、
などと推測しましたが、とくにそのような演出上のテーマ設定はあまり見られず、
基本的には西洋と日本が出会うドタバタ演出といった感じの楽しい舞台、
しかしそんな中にも少し意味深な演出もあったりで、面白い舞台となっていました。

舞台に幕はなく、左右から斜めに計4本の棒が据え付けられており、
これを庭師「アントニ男」が開演前からお庭のお手入れということで、
高枝切鋏を模した木の棒でチョッキンチョッキンとやっています。
この4本の棒が舞台の幕替わり。
アントニオの語りとともに序曲スタート。

舞台上にはボックスが3つあり、それぞれ桜・竹・梅がデザインされています。
この3つのボックスから人が登場したり退場したり、小部屋になったり
東屋になったり、その他小ネタに使用されたり、様々に変化します。
和風の舞台、登場人物も和服。
そして状況に応じて演出役のサブキャスト、演劇アンサンブルの方々が
舞台に登場し、群衆になったり踊り手になったり、
はたまたベッドなどの器物になったりし、
舞台に色を添えます。
この演劇アンサンブルの方々の活躍が今回の舞台の見どころのひとつです。

1幕、さっそく「フィガ郎」ことフィガロが「3尺、6尺、・・・」とか歌っています(笑)。
初っ端の二重唱からしてフィガロもスザンナも日本語で歌っていますが、
日本語のメロディへの乗せ方に工夫があるからか、意外と違和感がありません。
スザンナとマルチェリーナの喧嘩の二重唱。
番傘を持った演劇アンサンブルの方々が登場し、
番傘を開くと女の悪口が書かれています。
「ババア」「尻軽女」「乾燥肌」・・・なんやこれ(笑)。

ケルビーノは本来ズボン役(女性歌手が演じる)のですが、
今回はカウンターテナーの方が演じておられます。
どうなんだろうと思いましたが、歌唱はそんなに違和感はなく、
むしろよくハマっている感じです。
しかし、2幕の女装シーンや3幕の女の子の中に混ざるシーンになると
さすがに体格の差が大きく、違和感が出てきます(笑)。

1幕後半の三重唱ではケルビーノは虎革の敷物の下に隠れています。
この三重唱で登場するバジリオは「走り男」、何やら飛脚のようなお名前。
ご当地調達の合唱団の歌唱を経て1幕フィナーレ。
有名な「もう飛ぶまいぞこの蝶々」で演劇アンサンブルの方々が戦争を
演じますが、演じているイメージは第一次世界大戦の塹壕戦、
幕末の黒船時代には少し早い気もしますね(笑)。
細かいことを言い出すと、2幕後半にカギを取りに行った伯爵は
カギの代わりにチェーンソー(笑)を持ってきますし、
このあたりの時代の超越は
笑いどころのひとつでもあります。

2幕、伯爵夫人ロジーナが登場。
1幕は日本語詞が多かったですが、2幕は伯爵夫妻が絡むシーンが
ほとんどのため、本来のイタリア語歌唱が続きます。
ロジーナ、ケルビーノ、スザンナの個人的に好きな独唱を経て、中盤の三重唱。
ここはロジーナの悲鳴にも似た駆け上がっていく高音部(お分かりでしょうか?)が
魅力なのですが、ロジーナの調子が良くないのか、最高音を下げて歌っています。
伯爵夫妻が一旦退場した隙に、ケルビーノは桜のボックスを突き破って(笑)
退場。
そして上にも書いたとおり伯爵がチェーンソーを持ってきてフィナーレが始まり、
脱出マジックの如くケルビーノ(実際はスザンナ)が潜む箱に剣をぶっ刺したり、
楽しい演出が続き、日本語歌唱のアントニオのシーンを経て、
大騒ぎの七重唱で前半戦終了。

3幕。
1幕のあらすじを振り返りつつ、各人の心境をアントニオが説明しますが、
歌手陣は動かず、演劇アンサンブルが棒で歌手陣を「操り」、
まるで文楽の人形のように見える動きになり、面白いです。
伯爵とスザンナの二重唱では、赤い4本の棒が鳥居に早変わり、
さらにはボックスのひとつが賽銭箱の前の鈴に早変わり。
六重唱でフィガロの出生の秘密が明らかになり、ここの「母、母、母・・・」、
「父、父、父・・・」の日本語詞はなんだか違和感が無きにしも非ず。
日本語化の難しいところですね。
ちなみにこのシーンで登場するドン・クルツィオの和名は「狂っちゃ男」、
ひどい・・・笑。

結婚式の段取りに入り、アントニオもご祝儀を払うことになりますが、
ご祝儀の相場は、井上ミッチー曰く「10万円」。
ええー、高くないですか・・・?笑。
ロジーナの独唱を経て(個人的に好きな音楽です)結婚式のシーン、
3つのボックスの扉を開いて合体させ、金屏風のようになり、全員で記念撮影。
3幕が終わり、結婚式は滞りなく終了しますが・・・。

4幕でびっくりすることが起こります。
3幕と4幕の間は幕間もなくそのまま連続して演じられましたが、
結婚式終了と同時に伯爵はバルバリーナをボックスの中に連れ込み、
ボックスの中で何かが・・・。
そして4幕になだれ込み(おそらくはレイプされた)バルバリーナが
失くしたもの(針)を探すカヴァティーナを歌い、この失くしたものが
貞節と重ねられているように聴こえます。
このバルバリーナのカヴァティーナは全編で唯一の短調主体の悲しげな独唱。
「フィガロの結婚」の演出や解釈を網羅的に理解しているわけではありませんが
このパターンは珍しい気もする一方、確かにそう聴こえるなという気もしてきます。
今までの楽しげな雰囲気はどこへやら、長崎が舞台ということもあって
自分の中での作品イメージは一気にプッチーニの「蝶々夫人」、
列強諸国の男性に犯され捨てられる日本女性という構図に早変わり。
この作品はアントニオの回想という形で進められますが、
楽しそうに語るアントニオ、わが娘の貞節を父は知らぬがまま、ということなのか。
それとも19世紀日本の庶民は一般に娘の貞操など気にしないという
文化史上の事実を踏まえているのか。
あるいはこの演出上はアントニオとバルバリーナはとくに無関係な人物という
設定なのでしょうか。
あれこれと考えてしまいますね。

さて物語は進み、スザンナをモノにしようとする伯爵
(あんたさっきやったとこやのに、まだやるんかい、と突っ込みたくなる 笑)
を欺くために服を取り換えるロジーナとスザンナ、
そしてそこにケルビーノやフィガロが重なるドタバタへと続いて行きます。
フィガロは(ロジーナに変装した)スザンナにお鍋を囲みながら言い寄り、
怒ったスザンナは鍋の熱湯をオタマでフィガロに。
何やら一昔前のバラエティ番組の罰ゲームのようです。
そしてフィガロもスザンナも仲直り、ロジーナも伯爵を許しますが、
ロジーナは最後で銃をぶっ放し、夫の放蕩に対して怒っているかのような演出。
いっこも許してへんやん、という感じの終わり方です。

ということで、基本的には楽しい演出とドタバタ感がある舞台ですが、
少し物語上の含みも持たせており、すごく楽しい公演でした。
カーテンコールでミッチーはいつもの如く軽やかな足取りで舞台を駆け回り、
最後は演出上のボックスの中に入って(笑)退場していました。

自分はいつも「モーツァルトはどう演出しても音楽が勝つ」と
常々書いてきましたが、今回は目まぐるしい舞台に釘付けで、
音楽は耳に入ってそのまま抜けていった感じがします。
(違和感なく舞台に集中できたということはきっと演奏が良かったと
いうことなのだと思いますが。)
18世紀以降、オペラはおおむね、貴族の社交の場(18世紀)
 →ブルジョワジーの余暇(19世紀前半) →大衆化と高等芸術化(19世紀後半)
 →現代的演出による解体と再構築(20世紀後半以降)
といったような歴史を歩みます。
今回の演出も20世紀後半以降の再構築パターンだと思いますが、
この演劇的要素、そして笑いの要素と下世話な感じ
(登場人物の名前の付け方のダサさに現れている 笑)は、
大衆芝居化というか、ワーグナー以前に再回帰したというか、
あるいは近世日本の大衆芝居である歌舞伎のような雰囲気というか、
そんな感じで非常に面白く鑑賞できました。
日本人が日本でオペラを演出するとはどういうことかということを突き詰めると、
このような形になるということなのかもしれませんね。


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以上、感想と覚え書きでした。

オペラにあまり興味がない人でもきっと楽しく鑑賞できる舞台で、
かつオペラファンもあれこれと感慨深く考えることのできる演出となっています。
秋以降も全国各地を巡回するようですので、
ご興味のある方はぜひご鑑賞を。