交流分析④ 時間の構造化 | れぽれろのブログ

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交流分析について自分の考えや経験などをまとめてみようシリーズ、
今回は「ゲーム分析」について少し触れたあと、「時間の構造化」について書き、
最後に幸せに生きるとはどういうことかについて、自分の考えを書いてみます。

シリーズ全体のメニューは以下のとおり。
 (1)構造分析(エゴグラム)  → [交流分析①]
 (2)交流(ストローク)  → [交流分析②]
 (3)対話分析  → [交流分析③]
 (4)ゲーム分析
 (5)時間の構造化
 (6)脚本分析(ストーリー)

今回は(4)と(5)です。

※この記事は交流分析を学問的にまとめたものではなく、
  自分なりの交流分析の理解と実践を書き留めたものです。
  学問的な厳密さからすると誤りを含む可能性もありますので、
  正しく理解されたい方は専門書を当たってください。


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◎ゲーム分析

交流分析でいうゲーム(game)は「対人関係の中で繰り返してしまう悪い癖」
といった意味合いです。
一般的なスポーツやテレビゲームなどのゲームとは関係なく、
論理学のゲーム理論とも異なります。
要するに、陰性ストローク交換が延々続く状態と考えて頂ければよいと思います。

例を2つだけあげておきます。

・「はい、でも」(Yes But)のゲーム

 A「私はどうしたらよいでしょうか?」
 B「○○をしてみてはどうでしょうか?」
 A「はい、でも○○は△△の理由で難しいと思います。」
 B「では××をしてみてはどうでしょうか?」
 A「はい、でも××は※※の理由で難しいと思います。」
 B「では□□をしてみてはどうでしょうか?」
 A「はい、でも・・・」
 (・・・永遠に続く。)


・「バカ」(Stupid)のゲーム

 A「私はバカだ。」
 B「そんなことはない。○○だってうまくできたじゃないか。」
 A「違う、○○は△△でうまくいっただけだ。」
 B「××だってうまくいったと思うよ。」
 A「違う、××は※※で運が良かっただけだ。」
 B「□□はどうだ。これこそ君の成果だ。」
 A「違う、□□こそたまたま◎◎だっただけだ。」
 B「そんなことはない。どうして自分のことが分からないんだ。バカだな!」
 A「やっぱり私はバカなんだ・・・。」

どちらも不快感ばかりが残る会話であることがお分かりかと思います。
見た感じどちらの会話も、Aさんが被害者、Bさんが救済者、という位置づけで
会話が進んでいますが、いつの間にか、Bさんが被害者、Aさんが加害者のように
見えてきますね。
交流分析では、これ以外にも様々な会話パターンがゲームの例として
分類されているようです。


ゲームの特徴を以下にまとめておきます。

・ゲームの真の目的は表に出ていない。
・ゲームは何回も繰り返される。
・ゲームは結末に不快感を残す。
・ゲームはAの自我状態が働いていない。
・ゲームは陰性ストロークの交換、裏面交流の連続として行われる。
・ゲームには当惑、混乱を伴う。
・ゲームは基本的に「構えの証明」として行われる。

要するに上記のような会話をするAさんは、人生に対しある「構え」を持っており、
それを証明するため、そしてストローク交換(陰性のもの)のために、
このような非生産的な会話を続けています。
「構え」とは例えば「自分は能力がない」だとか「自分はバカだ」とか、
そういった思い込みのようなものです。
会話に付き合わされるBさんは、相談に乗っているという位置づけで
自我状態Pからメッセージを発し続けていますが、それがやがて会話が
P→Cの交差交流の形になってしまい、喧嘩のような状態に陥ってしまっています。
(「自我状態」「陰性ストローク」「交差交流」「裏面交流」については
過去記事を参照ください。)


ゲームを避ける方法としては、以下の方法が良いと言われています。

・Aの自我状態を働かせる。
・いつもの交流パターンを変えてみる。
・相手の陰性ストロークに反応しない。
・「被害者」「加害者」「救済者」の、いずれの役割も演じないようにする。
・長々と非生産的な時間を費やさない。

要するに「これはゲームだな」と気づいたら、
さっさと会話を終わらせるようにすることです。
自分なりの方法としては、前回の記事で書いた「不快なコミュニケーション」の
回避方法と似たような手法で回避できるのではないかと思います。
つまり、
・Aの自我状態のみで会話する。
・「ちょっと考えてみます。」「難しいです。」「分かりません。」で返事する。
・Cの自我状態からメッセージを与え、明るいふり、もしくは謝るふりをして、
 会話を終了させる。
のような方法です。


◎何のために生きるのか

さて、いよいよ交流分析の本丸(?)です。
人は何のために生きているのでしょうか?
自分は過去記事でも何度か
「生きる意味は分からない、意味はないと考えた方が良い」
と書いたことがあります。
交流分析でも、生の理由そのものは問わず、人格システムや社会システムの
関係性のみに着目し、生きるということについて考えているように見えます。

交流分析では、人は以下の3つの欲求をもって生きていると言われます。

(1)ストロークへの欲求
(2)時間の構造化への欲求
(3)「構え」への欲求

この3つの欲求を満たすために、人は交流を欲するのです。

(1)のストロークについては前々回の記事で書きました。
他者との交流においての刺激、ふれあい、心の栄養、となる要素です。
以下、(2)(3)について纏めてみます。


◎時間の構造化

人生における時間の使い方には、以下の6つの方法があると言われています。

①閉鎖(withdrawal)
②儀式(ritual)
③雑談(passtime)
④活動(activity)
⑤ゲーム(game)
⑥親密(intimacy)

①は他者とのストロークがない状態です。
②から⑥にかけて、数字が大きくなるとストロークも濃密になっていきます。


①閉鎖
いわゆる引きこもりの状態です。
他者との交流を欲さず、自分の部屋や空想の世界に閉じこもる状態です。
他者とのストローク交換がなく、自己の内部でストロークが完結している
状態であるとも言えます。
例えば1人で音楽を聴くとか映画を見るとか、そういった趣味も
基本的にはこの状態であると思います。
現代人は多かれ少なかれ、①としての時間をどこかに持っています。

②儀式
最低限の集団参加です。
挨拶や事務的な会話がなされる状態で、定型化した社会参加の形です。
冠婚葬祭や事務的な労働現場などを想像して頂けるとよいと思います。
ストローク交換は当り障りのない状態にとどまります。
心の構造分析としては、儀式はACの自我状態で参加するもの、
要は受動的・強制的に社会とかかわっている状態と言っても良いと思います。

③雑談
日常の中での他者と関わりながらの時間つぶし、暇つぶしの状態です。
そんなに親しくはないけど関わり合いになる人、
ご近所の人、職場で顔を合わせる人、あるいは乗り合わせたタクシーの
運転手との会話、お天気だとかニュースだとかの話をするような間柄、
と考えて頂ければよいと思います。
儀式よりは関わり合いの度合いは深くなりますが、
他者との距離は保たれている状態です。

④活動
他者とともに活動を行う状態です。
多くの企業活動(ただし受動的な単純労働は儀式に近い)、政治活動、
社会運動、学校や地域との関わり、スポーツ活動やバンドなどの音楽活動
なども含めて良いと思います。
受験勉強は孤独な作業ですが、次の活動に対するステップであるとも取れ、
一般にはこのカテゴリに含めるようです。
創造的で計画的、社会との関わり合い合いが大きく、
成功したときの社会的承認も大きいです。
心の構造分析としては、活動はAの自我状態で参加するものと言われます。
ただし、活動は基本的に条件付きストロークの形をとることが多く、
活動がうまくいかないと悪い状態になる場合もあります。
また、「成功しても心が満たされない」のように、人は活動で承認されても、
それだけでは満足できないケースも多いようです。

⑤ゲーム
これは上に述べたゲームです。
②③④は基本的に陽性ストロークの交換がの場となりますが、
ゲームは濃密な陰性ストローク交換の場です。

⑥親密
他者との理想的な交流です。
物凄く親しい夫婦、恋人、友人同士の交流を想像して頂けるとよいと思います。
心が通い合っている状態で、濃密な陽性ストロークの交換が可能です。
この状態が継続すれば、人は幸福に生きていくことができます。
しかし、他者との心理的距離が近いので、傷つけあったりすることも起こりがちで、
コミュニケーションのあり方によっては⑤のゲームに発展してしまう場合も
あります。
なかなか⑥の親密な状態を維持することは難しいのだと思います。


以下、自分なりの捉え方をまとめてみます。

現代人は①~⑥それぞれのパターンで時間を使っています。
例えば自分の場合、音楽鑑賞や読書などで1人で時間を使っている状態が①、
②~④は職場で日々行っているコミュニケーションです。
例えば商談などの場合、②儀礼的な名刺交換から始まり、
③の当り障りのない会話を経て、④の本題に入っていく、
という交流パターンを取ります。
家族や親しい友人などとの会話は⑥ですが、
現在1人暮らしですので時間としては少ないです。
また家族、とくに母親との会話では⑤の状態に陥ってしまいそうになりがちです。
その他、通院などは②と④の中間、ブログを書くという行為は①と④の中間、
SNSやメールなどのやり取りは③と⑥の中間
(ときにSNSでも⑥に近い関係になることはあります。)
というように、様々なパターンでコミュニケーションを行い、
時間を使っていることが分かります。

①の閉鎖が悪い、⑥の親密が良い、というわけではなく、⑤を除いて、
①~⑥ぞれぞれの状態が、時と場合により万遍なく存在しているのが
ちょうどよいのではないかと
個人的にはと思います。
⑤以外はそれぞれ心を健康に保つために、必要な時間の使い方です。
また日々⑥親密な他者との関係をずっと継続するということはおそらく難しく、
①~④の時間を織り交ぜながら生きるのがちょうどよいのだと思います。
⑥親密を求めるあまり、⑤のゲームに発展するということもありそうです。

人は生きる意味だとかを考えなくても、①~⑥の形で時間を構造化できていれば、
生きていくことができます。
逆に「なぜ生きているんだろう」と考えてしまう人は、おそらく時間を構造化
できていないのではないか、例えば①の閉鎖状態が毎日毎日続くのであれば、
どうしても「生に意味なんてあるのか」などと考えてしまいがちになります。
逆に⑤のゲームのようにある「構え」をもってそのために時間を使う人は、
他者に迷惑をかける形になりますが、これはこれで時間を構造化できていると
いうことになります。
仕事などで日々④の活動で時間を構造化している人が、
ある日突然その活動を終了する必要が生じたとき、
時間をうまく構造化できずに虚無状態に陥ってしまい、
「生に意味があるのだろうか」と考えてしまう、
ということに陥ったりしそうです。
人が宗教を求めるのも時間の構造化から説明できそうです。
②の儀式は最低限のストローク交換と時間の構造化が可能な状態です。
日々受動的に与えられた宗教的儀式をこなすという生き方は、
退屈といえるかもしれませんが、安定して時間を構造化することができる
平穏な生き方であるとも言えます。

この①~⑥についての時間の分析は、生きる上で大きな示唆を
与えてくれると思います。
なぜ生きていてもつまらないのだろう?
なぜ不安がなくならないのだろう?
それは時間を構造化できていないからなのです。


◎「構え」への欲求

「構え」への欲求とは、自分の基本的な対人関係の構えの正当性を、
生涯にわたり実証したいという欲求です。
 
「こういう人は嫌いだ」
「こういう物事は嫌いだ」
「○○は△△でなければならないはずだ」
「どうせ私は××だから」

というような「構え」を多くの人は知らず知らずのうちに身に付けています。
そして、「ほらやっぱり○○だ」と言えるように、証明するように
コミュニケーションし、行動するようになってしまっています。
一般に上に登場したゲームは、この「構え」への欲求をベースにした
コミュニケーションの在り様です。

分かりやすいかどうか分かりませんが一つの例として、
作品批評の分野でよく以下のような立場で評論する人がいます。
 作家○○氏が制作するの作品はすべて駄作である。 
 日本人が制作する作品はすべて価値が低い。
 20世紀以降に制作された作品は評論に値しない。
こういう「構え」を持っている人は、自らの信念を証明するために、
評論活動を続けています。
逆に言うと、その自らが嫌う作品の楽しみ方からは疎外されているとも言えます。
「構え」の証明にこだわりすぎる人は、その人の生きる時間の使い方を
限定的にしてしまい、かつ他者との衝突が多くなりがちになってしまうのだと
感じます。

また、これは交流分析でいう「構え」とは少し異なるかもしれませんが、
能力に見合わない目標もなども悪い「構え」の例だと自分は考えます。
目標を持つことは大切なことだと思いますが、
それが身の丈に合っていない欲求であれば不幸になるだけです。
「○○大学に入らないとダメ」「○○の企業に入らないとダメ」
「○○さんと結婚できないとダメ」など、これができないと
人生が終わるかのような「構え」も、時として有害なのだと考えます。
人生の選択肢は1つではなく、幸福の形ももっと多様なはずです。

より良き生を送るためには、こういった「構え」を捨てることが大切だと
自分は思います。
「あの人のことは嫌いだから」とか、「人はこうあらねばならない」とか、
「社会・組織はこうあるべきだ」とか、「私はどうせこうだから」とか、
「私はこうあらねばならない」といった余計な構えは捨てること。
このことがおそらくは幸福に生きるための第一歩なのだと思います。


◎幸せに生きるには

人が幸福に生きるには、まず衣食住などの基本的な生活のインフラが必要、
そして生理的欲求(食欲、睡眠欲、性欲)が満たされ、
安心して日々を暮らせることが大前提です。
しかし人はパンのみに生きるにあらず、これだけでは幸せにはなれません。

病気や天災などに対する不安、経済的な不安、社会や政治に対する不安、
対人関係の不安、先のことが分からない分からないという不安、
漠然とした不安など、人は常に不安を抱えながら生きる存在です。
不安は苦しみを呼び起こします。
一切皆苦、多くの人は常に苦しみながら生きています。

衣食住や生理的欲求、安全への欲求は、できる限り社会の側から
手当されるべきだと自分は考えます。
しかし、個々人の内面の不安や苦しみまで、国家や社会が手当てしている
余裕はありません。

幸せに生きる、苦しみを回避するには、交流分析から考えると、
・時間を構造化する。
・陰性ストローク交換やゲームを回避する。
・「構え」を捨てる。
この3つが重要な考え方、幸せへの第1歩なのだと思います。

なかなか実行するのは難しいですが、これらのことを頭の片隅にでも
おいておけば、少しでも苦しみを回避することができ、より良き生を送ることが
できるのではないかと自分は考えます。


◎まとめ

・人は3つの欲求をもって生きている。(ストローク、時間の構造化、構え)
・人には6パターン時間の使い方がある。(閉鎖、儀式、雑談、活動、ゲーム、親密)
・ゲームとは、不快感を残すコミュニケーションのパターンである。
・人はある「構え」を持っており、これを証明するために無為な時間を
 消費しがちである。
・苦しみを回避するには、時間を構造化し、ゲームを回避し、
 構えを捨てることが大切である。


交流分析シリーズ、次回で一旦おしまいの予定です。
次回は脚本分析に少し触れ、あとはまとめ的なことを少し書きたいと思います。