社会を考える -選挙に行くということ- | れぽれろのブログ

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明日12月14日は衆議院選挙、及び最高裁裁判官国民審査の投票日です。
皆様は選挙に行かれるでしょうか?
それとも興味がなかったり忙しかったりで、棄権されるのでしょうか?
今回の社会シリーズ、最終回は選挙に行く意義について
考えてみたいと思います。

自分はこの記事のシリーズの冒頭に書いたとおり、
そんなに政局に興味はありません。
どの候補者が勝ったか負けたかだとかにもほとんど興味はありません。
(今回自分の選挙区の候補者を確認するにあたり、自分の選挙区の
現職の議員が誰だったのか、前回の選挙で誰が勝ったのかも
忘れてしまっていました 笑)
しかし、毎回選挙の際には投票に行っています。
このあたりの理由を少し整理してみます。


選挙で歴史が変わるのでしょうか?
残念ながら、我々の一票如きでは歴史の大きな流れを変えることはできません。
例えば、ここ最近の記事でも登場した、帝国主義体制→冷戦体制
→グローバル化というここ100年間の大きな流れに対しては、
我々の投票の力の及ぶところではありません。
歴史のうねりの中で、世界の中の一国(例えば日本)の取り得る選択というのは、
実は限られています。
日本が後期帝国主義体制の流れにうまく乗れたこと、それが歴史的大敗とともに
破綻したこと、その後冷静大戦下において高度経済成長を達成したこと、
それがグローバル化の下で軌道の修正を迫られていること、
これらすべて、成す術のない歴史のダイナミズムによるものです。
「再び高度経済成長を」と言ったような主張されるような候補者に
投票したとしても、高度成長はやってきません。

日本の選挙には固定票と浮動票があると言われています。
特定の地域・組織・宗教などに所属している人は、必然的に特定の政党や
候補者に投票することが確定している。
このような固定票により、ベースとなる勢力図はほぼ決まってしまっています。
特定のコミュニティに属さない人たちの一票は浮動票となり、
この人たちの投票行動は主にマスコミなどによって醸成される世の中の
空気によって、(選挙に行くかどうかも含めて)行動が確定してしまいます。
浮動票が大きく動くと、2005年のように自民党が大勝したり、
2009年のように民主党が大勝したりと言ったことが起こります。
このような巨大な「ベース勢力」+「空気」という構造が確実に存在します。

歴史の流れ及び社会構造の強固さの中で、無限小に近い個人の一票の力は
限りなく弱く感じられ、このことが国政を真剣に考えたり、投票に向かうという
意思の妨げとなったりしてしまうということは理解できます。
自分が政局にそんなに興味を持てないことも、
背景にはこのような理由があります。
また、多くの人は日々の雑務に忙しく、国政のことを考えている余裕もない。
なので、投票になんか興味はない、投票に行っているヒマなどない、
投票に行っても何も変わらない、という考え方は非常に理解できます。


でも、自分は毎回投票に行っています。
その理由。
まず民主主義の価値自体を肯定したいからです。
「民主主義は最悪の政治形態である。これまでの民主主義以外のあらゆる
政治形態を除けば。」と言ったのは20世紀イギリスの首相チャーチルですが、
まさに民主主義は歴史上もっともマシな政治体制であると自分も考えます。
独裁制は非常に効率の良い体制で、例えば19世紀ドイツのビスマルクのような
有能な人物が登場すれば、社会を機能的に良い方向に加速して進めることが
可能となります。
しかし、独裁者のキャラクタに問題がある場合、例えば全権委任法から
独裁体制に移行したヒトラーのような人物が登場すれば、
社会は破綻してしまいます。
民主主義は効率は悪いですが、最悪の事態にもなりにくい体制であると
思います。
「どうせ投票しても変わらないから民主主義でなくても構わない」
などと多くの国民が考えるようになると最悪です。
現在の民主主義の困難性は前回の記事でも少しだけ触れました。
現在、それでも米国や欧州のように民主主義の価値を重視する国と、
中国やロシアのように半独裁的で効率的な政権運営を行おうとする国とが
あります。
自分の見るところでは、日本の現政権は後者を志向しています。
(親米であるはずの現政権が政治体制においては後者に親和的というのは、
何ともアイロニカルです。)
なので、若干大げさな言い方をすると、民主主義の価値を守るため、
投票率の低下を防ぐためだけにでも、投票行動を行いたいと考えています。

もうひとつは、投票行動は、時間がかかるが体制の変革に影響を与える、
歴史のダイナミズムに少しでも修正を加えることがあると考えるからでえす。
一例をあげると、2009年の最高裁判所裁判官国民審査において、
一票の格差を合憲とする判決を出した那須判事と涌井判事が、
統計的に優位な罷免要求票を獲得することになりました。
(参考リンク http://www.ippyo.org/shinsa.html )
最高裁国民審査は、有効得票数の過半数の罷免要求がないと
罷免させられない制度です。
過去にこの制度で罷免された裁判官はおらず、
制度的に機能していない審査であると言えます。
現実にこの結果においても、那須判事と涌井判事が罷免されるようなことは
ありませんでした。
しかしこの罷免要求率は確実に一票の格差是正の流れを後押しする結果と
なっており、その後の一票の格差意是正の違憲訴訟に対し、
次々と違憲判決が出るようになっています。
前々回の記事でも書きましたが、一票の格差の問題は、
理念的にも実質的にも重要です。
現在、一票の格差是正の流れは確実に盛り上がっており、時間はかかるかも
しれませんが、何らかの形で制度は変わることになりそうです。
その背景の一つに、2009年の最高裁国民審査の投票結果があるのではないか、
選挙が歴史の流れを加速した例であるのではないかと考えます。


しかし、投票したい候補者や政党がないという人も多いことだと思います。
自分も今回の選挙公報を読みましたが、投票したいと思う候補者が
一人もいません(笑)。
公報を読んでも分からないことだらけです。
とくに現政権など、選挙になると経済のことばかりに触れ、重要な国政の転換と
なりうること、例えば解釈改憲や特定秘密保護法や武器輸出三原則緩和などに
ついては、
実績を誇るどころか、話題に出ないようにしている感すらあります。
要するに各党とも、不利になることは語りたがらないのもです。

ではどのように投票すればよいのでしょうか?
自分は、現政権に賛成する/反対するの意思表示だけで良いと思います。
現政権を支持するなら、自民党か公明党の候補者に投票すればよい。
現政権を支持したくないなら、誰でもよいので、野党の候補者の誰かに
投票すればよいのです。
選挙は、国会の議席数を争う、数のゲームです。
今回の選挙では、現与党の勝利がほぼ確定していると言われていますが、
与党側が300議席で勝利するのと、250議席で勝利するのとでは全然違います。
上に裁判官の罷免要求率の例をあげましたが、これと同様に、政権交代が
起こらなくても、選挙結果により議席率の増減に影響が発生すれば、
そのことが政権運営に確実に影響してきます。
例えば、与党が勝利しても議席が減れば、次の選挙を見越して、
「下手な政権運営はできない」と自らを律することにつながり、
ひいては国政に影響を与えていきます。
好きな候補者・望ましい候補者がいなくても、敵の敵は味方、
自分の考え方と異なる候補者・政党の敵側に投票すればよい、
選挙というのはこういう考え方で臨むのが最も妥当だと考えます。
白票を投じるという人もいますが、無効票になるだけなので、
100%意味はありません。
むしろ浮動票の有効票率を低下させ、固定票の価値を相対的に
上昇させる結果になりますので、白票はむしろ有害ですらあります。

投票に行く/行かないは各人の自由です。
自分は各人のライフスタイルを尊重したいですし、強権的に投票に
行かせるようなことは、むしろ民主主義的理念に反します。
しかし、投票する候補者や政党を考えるということは、
社会のことを考えるということに繋がっていくことです。
選挙を通じて1人でも多くの人が社会に関心を持つようになるということは
非常に重要。
そしてその思考の結果が少しでも政治に影響を与え、、歴史の大きな流れを
加速させたりブレーキをかけたりすることにつながればいいなと思っています。
選挙はそういうものだと考えます。
そして今後は、一票の格差是正や住民投票など、個人がより社会のことを
考えやすく、民意が反映されやすい選挙システムに変わっていけばいいなと
思っています。