社会を考える -戦争責任 その2- | れぽれろのブログ

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前回の続きです。
日本の戦後処理、戦後レジューム、戦争責任などついて、
考えをまとめてみます。


1945年4月にヒトラーが自殺し、ドイツは敗北します。
日本においても1945年には完全に本土の制空権を制圧され、各地で空襲が
頻発、6月には沖縄を占領され、8月に原子爆弾を投下され、終戦に至ります。
アメリカはこれで日本が降伏するとは思っておらず、九州に上陸し地上戦を
考えていたようですが、日本の政治家・軍部などの上層階級は、このままでは
国体維持が困難になるとみて、
ようやく降伏を決断。
時の首相鈴木貫太郎の働きかけにより、昭和天皇は立憲君主の枠を超え、
戦争終結の聖断を下します。

第2次世界大戦について、日本は悪かったのでしょうか?
極端な言い方ですが、やはり「負けたから悪い」という他ありません。
前回も書きましたが、第1次世界大戦後の国際秩序を破ったことが悪い。
これがなぜ悪いかというと、やはり負けたからです。
もし勝っていたら、勝った側の国際秩序が正になります。
非常に残酷ですが、歴史とはこういうものです。
この戦争において日本は、物量においても、戦争遂行能力においても、
また戦争の良し悪しを巡る大義においても、勝てる見込みのないものでした。

人倫的・道徳的に判断しても、日本は非常に分が悪いです。
日中戦争以降の軍紀の乱れによる虐殺の発生や、
特攻や沖縄集団自決に代表される自国民の使い捨て思想、
人命をあまりにも軽んずる態度は非難を免れません。
多かれ少なかれ戦争というものはこのような態度を生むものですが、
ユダヤ人虐殺を行ったドイツも含め、敗戦国は非常に分が悪いです。
アメリカが日本への本土空襲や原爆投下において大量虐殺を行ったことも事実で
これもまた非難されるべき行為ではありますが、
何より制空権を制圧されてなお降伏を否定した戦略性のなさが大問題です。
原爆死没者慰霊碑に刻まれている「過ちは繰り返しません」の文言は重要です。
この文章は、アメリカを含む人類の核の使用に対する戒めであると同時に、
主語を日本人と捉え、自らの戦略性の無さに対する戒めとして捉えるべきです。


戦後日本は民主主主義国家としてスタートします。
アメリカの民主党政権を代表するニューディーラーたちが、日本国憲法の
草案を作成、戦争の放棄を謳い、天皇は象徴とされます。
ニューディーラーたちは理想的な民主主義国家を日本に打ち立てようと
しましたが、やがてソ連が核兵器を持ち、40年代後半になり冷静体制が
深刻化して以降は、
アメリカは日本を反共の防波堤とする政策に変更します。
(いわゆる逆コース)。

同時に、第2次世界大戦の結果、19世紀的な帝国主義は
事実上の終焉を迎えます。
大国の植民地であったアジア各国は独立し、
第1次世界大戦後の民族自決の思想が実現します。
歴史の帰結は不思議です。世の節理は人知を超える。
東亜解放を謳った日本が敗北してしばらくし、
気が付くと東亜解放が実現していました。
第2次世界大戦後の植民地解放戦争に対し、現地に残った残留日本兵が
非常に大きな貢献をしたという事実もあります。
しかしこれは日本の戦争を肯定することにはなりません。


第2次世界大戦は、ニュルンベルク裁判と東京裁判という、
2つの軍事裁判で裁かれることになりました。
戦後処理を賠償ではなく裁判で裁定するということは初めてのことです。
この2つの裁判は重要で、この裁判で何が悪かったのかが規定され、
それがそのまま戦後の歴史を造っています。

東京裁判には様々な問題があります。
連合国全体の意志あまり反映されず、アメリカ主体で裁判がなされたこと。
初めから天皇の免罪が予定されていたこと。
(天皇制を残存させることがスムーズな戦後統治につながると
アメリカは理解していました。)
日本の化学・生物学兵器の使用、731部隊に代表される人体実験、
中国大陸での空襲などが免罪されたこと。
(これを有罪とすると、アメリカも日本本土空襲と原子爆弾の使用に対する
責任が追及されるためです。)
自己弁明に終始した人(木戸幸一など)が免罪される傾向にあり、
積極的な弁明を行わなかった人(広田弘毅など)が極刑に処されたこと。
裁判の結果、7人のA級戦犯が1948年12月23日
(当時の皇太子=現天皇陛下の誕生日)に死刑となります。
この戦犯たちは、要所要所で重要な決断をした人というよりは、
むしろ政治的能力の低さにより問題を解決できなかった人、
戦争や虐殺を積極的に推進した人というよりは、
不作為により戦争や虐殺を回避できなかった人という印象が強いです。
このことは、A級戦犯7人に対する国内でのその後の同情を生む土壌になります。
東京裁判のある種の「完成度の低さ」は、ソ連の台頭により
アメリカがとっとと裁判を終わらせたかったという背景もあります。

東京裁判はどのような結果を生んだのでしょうか?
裁判の結果、死刑判決を受けたA級戦犯7人に代表される戦犯たちが悪かった、
日本国民と天皇陛下は騙されていた、という歴史になりました。
そしてその歴史を連合国側が一応承認し、日本は国際社会に復帰することに
なりました。
A級戦犯に責任がすべて擦り付けられ、国民と天皇は手打ちにより
免罪されるという構造。
実際は朝日新聞に代表されるメディアの影響、空気支配の強さもあって、
総じて日本国民も相当戦争に対して前向きであったことは事実です。
しかし、A級戦犯に責任ありということが公式の歴史となり、
このことを前提として諸外国は現在まで日本と接しています。
故に、A級戦犯が合祀された靖国神社に国家の代表として参拝するということは、
東京裁判史観に反旗を翻すという意味に受け取られることになります。


さて、戦後レジュームとは何でしょうか?
戦後初期に活躍した主要政治家:吉田茂などは、戦後の日本に対し以下ような
構想を持っていたと思われます。
・天皇制を残存させること。
・反共を貫くこと。
・経済的に豊かになること。
この3つが最優先事項であり、戦後日本のデザインであり、
目的であると思われます。

このための手段として、
東京裁判史観を受け入れること、
民主国家・象徴天皇制の元で日本をリスタートさせること、
非軍事国化した上で経済成長を優先させ、軍事はアメリカに依存すること、
その他、日本国憲法も、サンフランシスコ講和条約も、日米安保も、
上記目的のための手段です。
吉田茂は尊王の政治家であったと言われます。
同時に軍人が嫌いで、軍人抜きで政治・経済の復興を望んだと思われます。

40年代後半から50年代にかけては、米ソが最も対立した時代です。
アメリカではマッカーシズムの嵐が吹き荒れ、共産主義的なものが嫌悪されます。
両大国が核を以て対峙し、多くの国は米ソのどちらかにコミットし、
世界の主要国は二極化していきます。
と同時に帝国主義時代の終焉により独立した途上国各国が
米ソのどちらにもつかない形で(中国はその代表)第三世界を形成します。
いわゆる冷戦体制の完成です。
米ソ両大国が破局的な兵器を持つことにより、
大規模な世界大戦は発生しなくなりました。
(これは戦争すると両国とも国土が焦土と化すためです。)
戦争は必然的に局地戦となり(朝鮮戦争、ベトナム戦争など)、
これらは大国間同士の代理戦争となります。
西側-東側-第三世界という構造の中で、西側が第三世界から経済的に搾取し、
その得られた利益で自国民にその利益を再配分し、
西側では自国民が豊かになり、中産階級が増大し、福祉国家が実現します。
一方、東側は独自の経済政策で国家を運営し続けます。
この構造が60年代まで続き、このような世界情勢の中、
日本は経済復興し、着実に戦後レジュームを実現していきます。


70年代になると世界の様相が変化します。
まず、東側の凋落が始まります。
同時に、第三世界が勃興し始めます。
オイルショックなどいくつかの形で、
第三世界が西側諸国に影響を与えるようになります。
いわゆるグローバル化の始まりです。
西側は各国とも財政的に厳しくなり、豊かさの再配分は困難になっていき、
中間層は縮小していきます。
80年代になるとゴルバチョフが登場し、ソ連は改革を実施、
共産主義的なものの凋落が諸外国の目から見ても明らかになります。
同時に西側福祉国家の凋落も明らかになり、
レーガンやサッチャーをはじめとする保守政治家が登場し
福祉国家体制の見直しが始まります。
この状態はベルリンの壁崩壊に象徴される80年代末の東欧諸国の民主化と、
91年のソ連の崩壊により決定づけられます。
冷戦体制からグローバル化へ。

さてそんな中、日本の戦後レジュームはどのように変化したのでしょうか?
先に挙げた戦後の3つの目的は達成されましたが、
その目的のための手段を巡って、考え方の相違が出てきました。
田中角栄が登場し、アメリカ一国依存が危険という考え方を元に
オルタナティブな外交を試みるようになります。
日中国交回復、河野談話・村山談話、小泉電撃訪朝などの政策は、
この流れの上にあります。
一方で、やはりアメリカ依存こそが重要だというグループは、
これらの政策に反対していくことになります。
80年代以降、アメリカ依存は経済的に豊かになるという目的から、
ときに外れる結果をもたらします。
プラザ合意、スーパー301条、大店舗規制法緩和、等々、軍事プレゼンスを
背景にした経済的に無茶な要求がアメリカから突き付けられます。
TPPもこの流れにつながっています。
当初の手段であったはずの対米依存が目的化し、
目的であったはずの経済的な豊かさを脅かすという構造。
対米交渉能力を高めるには、アメリカの軍事プレゼンスを低下させることです。
そのためには、アジア諸国との緊張緩和とオルタナティブな外交政策が必要で、
増してやアジア諸国との軍事的衝突などもっての他です。
「戦後レジュームからの脱却」などと言いますが、上にあげた3つの目的は何も
変更することはなく、むしろそのための手段が見直されるべきです。
現政権は「戦後レジュームからの脱却」を謳っているようですが、
なんとなく脱却できているようには見えないように思います。


さて、回り道になりました(余計なことも書きました)が、本題の結論です。
日本に戦争責任はあるのでしょうか?
やはりあると考えざるを得ないと思います。
歴史を舐めてはいけない。
日本は大敗しました。
少なくとも18世紀後半の国民国家成立以降、あらゆる戦争の中でも
最大規模の敗北と言ってよいと思います。
その敗北の背後には、連合国と比較して戦略性の無さが目立ち、
また人命をあまりにも軽んずる態度がありました。
戦争責任を回避するには、もう一度戦争して勝つしかありませんが、
現在このようなことは不可能です。
であればどうすればよいか、残念ながら謝罪を続けるしかありません。
それが歴史というものです。
東京裁判史観が嫌なら、なおのこと真の問題点整理が必要です。
満州事変が第1次世界大戦後の世界秩序を乱したこと。
日中戦争は全く大義もなければ目的も不明確な意味不明な戦争であったこと。
日米戦争は早い段階で(おそらくミッドウェー敗北のあたりで)
降伏すべき戦争であったこと。
これらの戦争が起こった背景に、明治憲法体制の上問題があったこと。
特定の軍人、政治家、そしてマスメディアと国民の暴走があったこと。
A級戦犯だけが問題なのではなく、これらが総合的に問題であったことを認め、
このことが諸外国にも認められることができれば、晴れて政治家が靖国神社に
参拝できるようになる日が来るのだと思います。

戦争責任については、ドイツのヤスパースの議論が参考になります。
ヤスパースはドイツの戦争責任を以下に分類しています。
①刑法上の罪
②政治上の罪
③道徳上の罪
④形而上学的な罪

①は分かりやすく、虐殺、暴行、捕虜虐待などが罪に問われています。
②は政治的意思決定を行った軍人・政治家の罪が問われています。
①②は戦後の軍事裁判にて裁かれました。
③④は少し難しく、ヤスパースの議論の解説を読んでも自分などはその違いが
分かりにくいですが、要するに、自ら積極的に罪を犯さずとも、
不作為や傍観を含め間接的に戦争と関わり、
人類として戦争行為を許して
しまったことに対する責任が問われていると、そういうことのようです。
③④は超歴史的で、現在を生きる我々も、その罪を負っていると
考えることができます。
③④の罪の裁定者は、自己の良心や宗教上の絶対者(神)。
このヤスパースの議論は詭弁といえるかもしれませんが、
我々の国家や共同体としての罪を考え、今後の国家・共同体がどのように
あるべきかという自問にもつながる問いであると思います。
ドイツは国家の罪をこのように捉え、諸外国と折り合いをつけてきましたが、
日本にもこのような哲学が必要なのだと思います。