社会を考える -戦争責任 その1- | れぽれろのブログ

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選挙期間くらい日本社会について考えてみようシリーズ、
2回目は日本の戦争責任について書いてみます。
日本に戦争責任はあるのでしょうか?
その責任に対する謝罪と賠償は、今後も続けていく必要があるのでしょうか?

書いているうちにやたらと長くなってしまいましたので、記事は分割します。
少し無駄の多い記事になりますが、ご興味のある方はお付き合いください。
今回は、30~40年代に日本が戦った戦争(満州事変、日中戦争、日米戦争)の
経緯と歴史的意義について纏め、自分の考えなどを書いてみます。
次回は、どのように戦後処理がなされたのか、戦後レジュームとは何か、
そして戦争責任について書いてみたいと思います。


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30年代から第二次世界大戦に至る日本の戦争の経緯は非常に複雑ですが、
簡略化すると、満州事変(1931年)、日中戦争(1937年)、
日米戦争(太平洋戦争、1941年)の3つの段階に分けて考えることが
できると思います。
まずはこの戦争に至る前段階、20年代とはどのような時代だったのでしょうか?

第1に、この時代は厭戦の時代であったこと。
第1次世界大戦は、人類稀に見る規模の大戦争、
初めての国家総力戦となった戦争です。
単に兵隊さんが戦地に行って戦うというだけではなく、国家経済を総動員して
戦う戦争、銃後の日常生活・経済がすべて軍事・戦争とつながっているという、
そんな戦争。
4年間の戦争により欧州は破局的なダメージを受け、もうこんな戦争は嫌だという
空気が蔓延、その結果20年代は厭戦と軍縮の時代となり、
ワシントン海軍軍縮条約やロンドン海軍軍縮条約のような軍拡に歯止めをかける
政策がとられましたが、
これは軍艦の比率を一方的に固定する、
英米に比べて日本の軍事力を低く設定するという、
不平等なものでした。

第2に民族自決の考え方が重要視され、19世紀的な帝国主義的拡大が
否定されたこと。
武力を以て海外に進出し、強国が弱小国を植民地化して搾取することが
否定されましたが、植民地各国がすぐに独立というところまでは
至りませんでした。

第3に共産主義国家とコミンテルンが登場したこと。
第1次世界大戦の結果、ドイツとロシアという2つの大国で帝政が崩壊。
ドイツは共和制となりますが、意外なことにロシアはソ連として生まれ変わり、
歴史上初の共産主義国家となりました。
ソ連はコミンテルンという国際組織を以て共産主義を国外に広めていく
政策をとります。
各国で共産党が結成され、思想的に共産主義体制とは相いれない国家
(アメリカなど)にとって、共産主義は脅威となります。
日本においても20年代に共産主義が知識人・若者の間に瞬く間に広がります。
共産主義は帝政とは相いれない思想、天皇を頂く日本の国体とは
完全に矛盾する思想です。
それゆえに治安維持法が設定され、共産主義者は弾圧され検挙されます。
これは30年代前半まで続き、この国家レベルでの徹底した弾圧が功を奏し、
日本はほぼ共産主義化を抑止し、30年代後半には多くの共産主義者が
完全に転向してしまいます。
世界の共産主義化の流れは、とくに第2次世界大戦後の日本の
戦後レジュームの構築に大きな影響を与えることになります。

第4に、日本においてこの時代は恐慌の時代であったこと。
第1次大戦後日本は稀に見る好況となりましたが、20年代には、日本は
戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌、昭和恐慌と、
4つの恐慌を経験します。
経済的に行き詰った感じが上記の共産主義の勃興につながり、また、
農村の危機を感じた右翼青年たちはテロリズムに打って出ることになります。
かれらは天皇制・国体を肯定する立場であるため、治安維持法の
対象にもならず、比較的温情的に処分されることになります。
この時代は同時に大正デモクラシーの成果としての政党内閣の時代でも
あったのですが、右翼主義はデモクラシーの終焉と軍国主義の台頭を
加速することにつながりました。


1931年9月、満州事変が勃発します。
これは第1次世界対戦後、日本が世界に先駆けて起こした軍事行動で、
その後の世界情勢を方向づけた決定的に重要な出来事となりました。

満州事変を引き起こした代表的な人物は、関東軍の作戦参峰であった
陸軍の中堅軍人、石原莞爾です。
石原莞爾率いる関東軍は自作自演により満州鉄道を爆破、
このことを理由に瞬く間に全満州を制圧します。
その後清朝の皇帝の末裔、宣統帝溥儀を皇帝に頂く満州国が
日本の傀儡国家として成立することになります。
石原莞爾は独特の戦争史観を持っており、やがて東洋と西洋が世界最終戦争を
戦うことになるであろうこと、それはおそらく日本とアメリカになるであろうと
考えました。
そのためには、日本は今よりも国力を高め、アジアを結束する必要がある。
石原莞爾は日蓮宗の信者、国柱会と言われる日蓮系の組織に所属しており
(この組織には宮沢賢治などもも所属していた)、やがては日本国の天皇を
日蓮宗に改宗させ、宗教的権威を以てアジアを結束するというような
構想も
持っていたのだとか。
もちろん満州事変は石原1人の構想ではなく、背後には永田鉄山をはじめとする
陸軍統制派の協力がありました。
当時の日本の政治家たちは事態の拡大に反対しましたが、明治憲法の
「統帥権は天皇にある」という機能上、政治力での抑止には限界がありました。

満州事変はなぜ起こったのでしょうか?
直接のきっかけは、上に挙げた軍縮ムードに対する軍人の反動と
捉えるのが分かりやすいと思います。
軍縮になれば軍人は当然失業となります。
このため、一部の軍人は活躍の場を求めていました。
事変の拡大を後押ししたのは、満蒙領有(日露戦争以来の懸案でもあった)が
国内の経済状況の改善と人口増に対する問題解決に結びつくのではという
国民の思惑もあったのだと思います。

満州事変は何をもたらしたのでしょうか?
第1次世界大戦後の世界史の方向性を決定づけたことは
非常に重要だと思います。
20年代の国際連盟・軍縮条約の秩序を破ったこと。
各国が軍拡に挑むのは30年代後半になってからのことですが、
この日本の前例は世界史上の重要な転換点で、ドイツその他の国の
その後の振舞いに
大きな影響を与えることになりました。

満州事変は悪いことなのでしょうか?
まず軍事的評価においては満州事変は大成功と言ってよいと思います。
軍閥のはびこる満州全土を瞬く間に制圧し、
傀儡国家満州国を成立させることに成功しました。
この行為は第1次世界大戦以前の帝国主義の時代では、
おそらくは大きく非難されることはなかったと思われます。
(他の帝国主義国も同じようなことをしていた。)
しかし、第1次世界大戦後は、それ以前とは国際秩序が明らかに異なります。
明確に第1次世界大戦後の国際秩序には反していたので、
後の戦争で敗北した際に、このことの責任を追及されるのは仕方ないことです。


満州事変以降、30年代の世界情勢はどのようだったのでしょうか?
29年の世界恐慌への対応として、アメリカでは民主党のF.ルーズベルトが登場し、
古典的自由放任主義を旨とするアメリカを変革し、国家が積極的に経済に
関わるようになり、このルーズベルトが作り出した民主党の流れが、
基本的に現在のオバマまで続いています。
日本は高橋是清らを中心としてやはり積極財政を行い、
アメリカより早く、世界に先駆けて経済状態を改善させることに成功します。
ドイツではナチスが政権を取り、同じく積極財政により経済が好転していきます。
古典的自由主義経済から方向転換し、各国首脳が積極的に経済に
介入して行く時代。
このことは、共産主義の計画経済の時代であるということともリンクしており、
やはり戦後レジュームを考える上で重要な転換点となります。

世界的な厭戦ムードはまだまだ続いており、ドイツは戦わずして外交政策と
軍事的"ハッタリ"により、ラインラント、オーストリア、チェコを併合していきます。
このことに危機感を持った各国は、30年代後半になりようやく
準戦時体制を準備していくことになります。
日本では1936年に陸軍皇道派の青年将校によるテロリズム、
二二六事件が勃発。
帝都は一時革命軍により占拠され、高橋是清も殺害されます。
クーデターは鎮圧されますが、これをきっかけに皇道派は失脚し、
本格的に統制派の時代となります。
軍国化の流れは本格的になり、朝日新聞を中心とするメディアは
軍国的なるものを翼賛するようになり、これが多くの国民や政権運営にも
影響を与えていきます。
(ちなみに朝日新聞が軍国翼賛的な方向に舵を切ったのは、その方が部数を
伸ばすことができたからです。
現在の朝日新聞のある種の方向性は、
30年代の反省に基づいての方針なのだと思います。)

日本は1937年に偶発的に起こった盧溝橋事件により、日中戦争に至ります。
陸軍統制派は2年前(1935年)に永田鉄山という求心的存在をやはり
テロリズムにより失っており(相沢事件)、彼の遺志に報いるためにも、
アジア統一のために中国を国民党や共産党から解放するのだという、
武藤章らが急進的に事態の拡大を主張。
ちなみにこのとき石原莞爾は日中戦争に大反対していますが、
統制派の軍人たちと意見が合わず、失脚してしまいます。
日本軍は中国国民党の首都南京を陥落させ、傀儡政府を樹立させます。
中国国民党は内陸の重慶に政府を移動させ、中国共産党は農村に潜り
徹底抗戦を行うことになり、事態は解決しないまま、1945年8月まで戦争が
継続することになります。

日中戦争は悪いことなのでしょうか?
中国内部は混乱していましたが、中華民国という政府が存在する国際的にも
認められた主権国家であり、軍閥が割拠していた半ば無政府状態の満蒙とは
事情が違います。
日中戦争は主権国家間の戦争、第1次世界大戦後に大規模な国家間の戦争が
勃発したということで、やはり世界史的意義は大きいと思います。
軍事的評価はどうでしょうか?
東亜新秩序やら八紘一宇やらという言葉だけが躍り、何を目的としているのか、
どうすれば勝つのかよく分からない戦争であるということ、
さらには現地では軍紀が乱れ、数量の差に議論はあるとはいえ
一定量の虐殺が発生したことから、これは妥当な戦争ではなく、
国家的暴走と言われても仕方がない戦争であったと思います。


1939年にドイツはラインラント、オーストリア、チェコと同じ手法で
ポーランドを割譲しようとするが、失敗。
ナチスはやむなくポーランドと戦闘状態に入ることになります。
それに反対する各国がようやく重い腰を上げ、厭戦ムードは終了し、
ここに第二次世界大戦が勃発することになります。
ちなみにこの少し前に、日本は満州とモンゴルの境界地域であるノモンハンにて
ソ連と一時的に交戦状態に入り、徹底して敗北しています。
このときの敗北から何らかのことを学んでいれば、その後の歴史は変わったかも
しれませんが、残念ながらこの失敗はその後の教訓にはなりませんでした。

日本は日中戦争の行き詰まりを南方進出によって解決しようとします。
欧米植民地の解放という目的を以て東南アジアに進出する計画を立てる。
このことは当然欧米の利権と衝突することになります。
日本は第二次世界大戦を、ドイツ、ソ連、アメリカ、それぞれどの側と協力するかで
最後まで考えが分かれていたようですが、
元々陸軍はソ連を、海軍はアメリカを仮想敵国としていたこと、
ドイツとは防共の点で利害が一致し、その後軍事同盟に至ったこと、
独ソ不可侵から独ソ戦に状況が変化し、ソ連とアメリカが連合国側になったこと、
東南アジア進出をきっかけに、アメリカから経済的な制裁を突き付けられたこと、
これらの理由により、最終的にアメリカとの戦争に至ることになります。
1941年12月8日にハワイの真珠湾を奇襲、これにより日米戦争(太平洋戦争)が
開始します。

日米戦争はどのように評価すればよいのでしょうか?
日米戦争は、満州事変・日中戦争からの流れから、
必然的に起こってしまった戦争だと言えると思います。
仕方なしに起こった戦争とも言えますが、これ以前の軍事戦略、
とくに日中戦争での強硬路線が決定的に問題です。
自ら作り出した流れにより、これまでの敵とは格が違う強敵と
戦わなくてはならなくなりました。
日本は短期決戦であれば勝機ありと考えていたようですが、
結果的にうまくいきませんでした。
日米戦争に対しては、統制派軍人の中でも反対する者も多く、
日中戦争を強硬に推進した武藤章もこの戦争には反対しています。
満州事変を引き起こした石原莞爾が日中戦争に反対し、
日中戦争を引き起こした武藤章が日米戦争に反対したという事実は
非常にアイロニカルだと思います。
彼らは歴史の帰結を甘く見ていたという他ありません。

その後、ドイツはソ連に勝てず、撤退を余儀なくされます。
日本も初戦はいくつかの勝利を得ましたが、軍事が増強されたアメリカの物量に
やがて及ばなくなり、ミッドウェー海戦以降敗北が続くようになります。
ナチスは(ヒトラーは)ソ連に勝利することが一つの目的でしたが、
これがかなわなくなるとみるや、「ユダヤ問題の最終解決」という、
破滅的な政策に軸足が置かれるようになります。
日本も同様で、ミッドウェー以降戦局は悪化し、特攻や沖縄集団自決に
代表される、破局的な「一億玉砕」への道を突き進みます。

続きます。