社会を考える -死刑制度- | れぽれろのブログ

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何だかよくわからない間に衆院選になってしまいました。
過去にも書きましたが、自分は選挙戦だとか政局自体にはほとんど興味がなく、
誰が立候補するだとか、どこの候補者の誰が勝ったとか負けたとかについては
あまり関心がありません。
しかし、社会が良くなればいいなとは漠然と思っていますし、
一人一票という民主主義の価値自体にはコミットしたいと思っていますので、
毎回選挙では最もしっくりする候補・政党に投票し、
最高裁の国民審査にもしかるべき人に×を付けに行っています。
今回の選挙でも未だ一票の格差問題が解決しておらず、半ば違憲状態での
選挙であり、さらに最高裁国民審査も事実上機能していないという問題を
はらんでいますが、
一応選挙には行く予定です。

このブログでは、国政選挙のときに社会についてなんとなく自分の考えを
書き留めておくというのが(なぜか)恒例になっています。
一昨年の衆院選のときは、統計データから主に先進国(OECD諸国)の中での
日本の特異値を抽出し、日本がどんな社会なのかについて書いてみました。
昨年の参院選の際には、生きるということの無意味性と困難性から
社会設計の重要性を指摘し、近代国民国家と立憲体制の重要性について書き、
最後に自民党の新憲法草案は変だと書きました。
今回もいくつかのテーマについて思うところを書き留めておきたいと思います。
難しいテーマを分かりやすく書くということは非常に難しく、
(実際に分からない、難しいという指摘も頂きました 笑)
それなりのテクニックが必要なのですが、自分にはなかなかそこまでの力量が
ありませんので、難しい言葉は難しいまま書くことになりますが、ご了承ください。

今回は今までにも増して答えるのが難しいようなヘビーな問題について、
いくつかの記事を書こうと思っていますので、お暇な方は読んでみてください。
文中に登場する数字や事実関係については、本当は出展を示したりする
必要があると思いますが、これは論文ではありませんし、
面倒なのでそのあたりはほどほどにします。
興味を持たれた方は確からしさを調べてみてほしいです。


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今回は死刑制度について考えてみます。
皆様は死刑制度に賛成でしょうか?反対でしょうか?

まず、世界的な潮流からいうと、死刑は全世界的に廃止方向にあります。
かつては多くの国で死刑制度がありましたが、20世紀後半に死刑制度を
廃止した国はたくさんあり、死刑制度を存置していても事実上死刑の判決・執行が
行われていない国もあります。
死刑制度が残っているのは主に途上国のみです。
こちらのページで各国の状態が確認できます。
http://www.nichibenren.or.jp/activity/criminal/deathpenalty/q07.html
現在世界的にアジア地域はやや特異な地域で、
多くの国で死刑が存置されています。
その中の多くはイスラム教国ですが、
日本や中国はそうではないのに死刑存置国。
とくにかつて「西側先進国」と言われた日本の特異性が目につきます。
なお、アメリカは州別にみる必要があります。
アメリカは宗教色(プロテスタント)が強い国ですので、多くの州で死刑が
存置されていますが、州によっては廃止されています。

刑罰はなぜ必要なのでしょうか?
一般に以下の3つが重要な機能として数えられるようです。
1つは「法的意志の貫徹」。
国家や社会が「何を許さないのか」についての意志を明確にすることに、
刑罰の意義がある。
許せないことを明確にし、許せないことに対し罰を課すという機能です。
2つめは「被害者の感情的回復」。
加害者に罰を与えることにより、被害者の気持ちが晴れるという機能です。
3つめは「犯罪の抑止」。
刑罰を受けるのが嫌だから、人は犯罪に手を染めなくなるという抑止機能です。

死刑に対し、上の3つの機能を考えてみます。
「法的意志貫徹」は、意志が貫徹できればよいので、
一般には死刑でなくても良いはずです。
これが死刑でないとダメというのは、法の機能面ではなく、
国家・社会の文化や習慣に由来します。
「感情的回復」については、一見もっともらしい理由ですが、
死刑が執行されるような事件について、現在本当に機能しているとは
言えないのでは、と自分などは思います。
死刑は執行が秘匿されていること、執行の場に被害者は立ち会えないこと、
執行時期が行政の都合により決定されること(これについては後で触れます)
などなど、本当に被害者(被害者遺族含む)が救済されているのかは疑問です。
むしろ加害者と被害者が対面することによる心理的回復の効果が重要だとも
言われています。
「犯罪の抑止」については諸説あるようです。
死にたくないから重罪は犯さないというのは、論理的に考えられます。
しかし、初めから死刑を望む犯罪者(現実に存在する)や、激情的な犯罪
(その後の刑罰を予想する力を失うくらいカッとなって犯罪を犯す)については
抑止には繋がりません。
上記の死刑廃止国は、おもに法のこれらの3つの機能に対し、死刑制度が
そんなに有効には働いていない、むしろ弊害の方が多いとして、
廃止に至ったのだと考えられます。

日本の死刑はどのように執行されているのでしょうか?
裁判で死刑判決を受けた死刑囚は、留置所にて日々死刑の執行を待ちながら
暮らすことになります。
死刑の執行は死刑囚には事前に予告されず、刑務官がその日の朝に
突然死刑の執行を告げにやってくるとのことです。
その後、死刑囚は死に装束に着替え、死刑が執行されます。
日本の場合、死刑は絞首刑です。
死刑囚の首にロープにを巻き付け、ボタンを押すと死刑囚の足元の床が
開くという仕組み。
執行のボタンは複数あり、複数の刑務官が同時に押すということに
なっているそうです。
(これは執行に対する刑務官の罪悪感を減らす働きがある。)
開いた床の下には、死刑囚の体を支える刑務官がいます。
死刑囚が絶命するまでその体を支えないと、うまく死に至らないのだとか。
体を支える役の刑務官は心的負担が強いとされ、
その後長期のお休みが取れるのだそうです。

日本において、死刑の執行はどのように決定されているのでしょうか?
これについてはよく分かっていません。
一般的には法務官僚が死刑囚の中から対象者を選択し、
最終的に法務大臣が執行にサインするという手続になっているようです。
なので、死刑執行に反対する法務大臣の場合、
死刑が執行されないということになります。
こんなまとめサイトがありましたので、参考にリンクを貼っておきます。
http://matome.naver.jp/odai/2138683485899483501
このサイトによると、杉浦正健大臣は11か月間一度も執行せず、
逆に鳩山邦夫大臣は1年間に13回執行しているという計算になります。
死刑の執行は行政のキャラクタに依存するようです。
また、97年に起こった少年犯罪:酒鬼薔薇事件の際は、
直後に同じく未成年で犯罪を犯した永山則夫の死刑が執行されています。
08年の秋葉原事件の際には、直後に宮崎勤の死刑が執行されています。
明らかに統治の手段・国家的意志の表明として、死刑の執行が行われています。

日本の死刑囚の人数はどのように推移していっているのでしょうか?
以下のページが参考になります。
http://www.geocities.jp/hyouhakudanna/number.html
とくにゼロ年代中盤以降、新死刑確定者数はものすごい勢いで
増えていることが分かります。
しかし、死刑の執行件数は少ないまま推移しています。
次々と死刑判決は出るが、死刑の執行は実施されないという状態が続く。
死刑判決が増えているのは、基準が緩くなったからだと思います。
それまでは一般に4人以上の場合が死刑の議論の対象になる(永山基準)
でしたが、光市の母子殺人事件以降、この規定が崩れました。
死刑判決が増えている、しかし執行件数は変わらない。
これは司法と行政がうまく連携して機能できていない問題であると思います。
単純にこの傾向のまま推移してしまうと、日本は確定死刑囚で
溢れることになります。

死刑判決から執行までの期間はどれくらいなのでしょうか?
日本では一般に平均7年と言われているようです。
7年間死を待ち続ける死刑囚。
中には30年執行されない人もいるのだとか。
逆に池田市の小学校の無差別殺人事件の犯人は、
1年で死刑が執行されています。

刑の執行日まで延々待ち続ける死刑囚、
このことは死刑以上の苦役ともいえます。
このことは、「罪を犯したから仕方がない」と言えるかもしれません。
しかし、日本には冤罪が異常に多いという問題があります。
死刑確定の事件が、その後再審により冤罪であったということが
分かったという例もたくさんあります。
昔はいい加減だったから、ではありません。
冤罪は現在も発生している問題です。
足利事件は被告が無罪であることが明らかになりましたが、
これは1990年の事件、戦後45年、つい24年前の最近の事件です。
1998年に起こった和歌山のカレー事件は、
今なお冤罪説が根強く残っている事件です。
この事件については物的証拠はなく、容疑者本人も自供しておらず、
状況証拠のみで死刑が確定したという、日本の司法の歴史上、
極めて稀有な事件です。
近代法の大原則は「疑わしきは罰せず」ですが、
その原則が日本では有効に機能していません。

なぜ冤罪が起こるのでしょうか?
日本の有罪率は99.8%と言われています。
つまり警察官が立件すればほぼ確実に有罪になるということ。
行政が初動の対応を誤ると、そのままベルトコンベア式に
有罪が確定するというシステムです。
問題点はいくつかあると思いますが、主に以下の2点が重要だと考えられます。

1つは「調書絶対主義」。
行政は取り調べで何をやっているかというと、調書を作成しています。
調書は行政側が取り纏め、最後に容疑者がサインする形になります。
調書には「私がやりました」と初めから書かれています。
取り調べというのは、この調書の完成度を上げるために容疑者に聞き込みを
行うこと、そして最後に容疑者にサインをさせることを目的としています。
「容疑者が犯行を自白した」ということは「サインした」ということなのです。
物証があれば別ですが、そうでない場合、このときに作成された調書が
裁判においても全面的に有効になります。
司法において弁護士は調書の矛盾を突き、新証拠を示すなどして
無罪を証明しなければなりません。
よほど優秀な弁護士が着かない限り、司法は調書を真として
自動的に有罪判決を出すことになります。

2つめは、取り調べのための拘留期間の異様な長さです。
拘留期間は一般にOECD諸国では2~3日で、この期間内に警察は
犯人と「勝負する」ことになります。
日本の拘留期間は標準23日、そして必要に応じて随時延長される形になります。
長い長い期間にわたる拘留期間の間、長時間に渡る取り調べが続き、恫喝、
机を叩く、水や薬を飲ませない、などして、容疑者を精神的に
追い詰めて行き、
多くの容疑者は最終的に調書にサインすることになってしまいます。
最近は一連の特捜検察の不祥事などもあり、このような取り調べのあり方に対し
一般にも疑義が生じるようになってきていますが、
まだまだ問題は残っているようです。


さて、自分の考えです。

まず大前提として自分は死刑制度には反対したいです。
その理由は、
①法システムはどんに明確に規定しても絶対に誤りを含む余地が残るので、
 死刑制度のような不可逆かつ究極的な刑罰はあってはならない。
②死刑制度は法の機能面から考えて、必ずしも必要性は感じられない。
③死刑制度(とくに現状の日本の制度)はあまりにも問題が多い。

①については少し補足が必要かと思います。
我々は「すべてを知る神のような視点」に立つことはできません。
取り調べや裁判という場では、できるだけ「神の視点」に近づき、事件の真相を
明らかにすることを目的としますが、日々発生するあらゆる事件に対し、
完璧な捜査を行い、完璧な物証は得ることはすごく難しい。
司法プロセスは常に未規定な要素を含みながら、何が確からしいかを巡って
それなりに妥当な落としどころを見つけるプロセスです。
なので、人命を絶つというような、やり直しがきかないような刑罰は、
倫理的に問題があります。
②③については上に書いたとおりです。
法の3つの機能は必ずしも死刑を必要としておらず、
死刑執行に対する刑務官の負担、死刑囚の管理面の負担、
死刑囚への事実上の死刑以上の課役、
冤罪が多発する取り調べ・立件・裁判のプロセスなど、
制度的に多くの問題を孕んでいます。

しかし、現実的に現在の日本で即時死刑廃止は現実的ではないと思います。
その理由は、
①現時点では国民の多くが死刑制度の維持を望んでいること。
②現時点での即時死刑廃止自体が、上記の「法的意志貫徹」の機能を
 脅かす可能性があること。

とりわけ②が重要です。
極端な話、同じ罪状で今日は死刑判決、明日からは無期懲役、
というようなことをやると、法的威信の低下に結びつきます。
とくに、社会的インパクトがあまりにも大きい事件(たとえば社会の存続を
脅かすようなテロリズムなど)が万一発生したことを考えた場合、
現在の日本では首謀者の死刑以外現実的な制度選択はなさそうです。

どうすればよいのでしょうか?
自分は、死刑制度は存置しながら、死刑判決・執行件数・確定死刑囚の数を
戦略的に減らしていくことがベターだと考えます。
とくにゼロ年代中期以降の、死刑判決が多発するような重罰化の方向を見直す。
恩赦や再訴訟などで、執行件数・確定死刑囚の人数を徐々に減らす。
そしてやがては死刑判決が容易には出ないような状態になればいいなと
思います。
これには数十年単位の時間がかかります。
何らかの司法と行政のアグリーメントも必要だと思います。
日本の行政官僚は、数値目標を決めてそれを計画的に実現しようとすることは
得意としています。
なので、政権が何らかの意志決定をすれば、方向性を見直すことが
できるようになるかもしれません。
政権がこのような意思決定を行えるようにするには、何よりも多くの国民が
死刑制度維持を望んでいるという状態を改善する必要があり、
そのためには、
少なくとも自分がここに書いたようなことは、多くの方に知って頂く必要が
あると考えます。
重要なのは、まず知ることなのです。