読書記録 2014年(9) | れぽれろのブログ

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美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

最近読んだ本の感想です。
「読書メーター」への投稿と、その他コメントを思いつくままに・・・。

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■暗い絵・顔の中の赤い月/野間宏 (講談社文芸文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
野間宏の終戦直後の短編を集めた一冊。
左翼活動を行う30年代の学生の心理を描写した表題作「暗い絵」は、
なんといってもブリューゲルの絵についての描写のインパクトがすごいです。
一方、戦地から帰ってきた男たちの戦後すぐの生活を描いた3作品
「顔の中の赤い月」「残像」「崩壊感覚」は、戦争体験を通して虚無的に
なってしまった人間の3パターンの心理を描いており、
終戦直後のニヒリズム・エゴイズムが印象的な作品になっています。
そんな中、ややコミカルな戦中の軍隊の描写「哀れな歓楽」もまた
味のある作品だと思います。

<コメント>
以前に「顔の中の赤い月」を読み、このお話が気に入ったので、
その他の野間宏の短編作品も読んでみることにしました。

この短編集では、まず何といっても「暗い絵」のブリューゲルの作品についての
描写が印象的です。
冒頭から延々とブリューゲル作品の細かい描写が続く・・・。
内容は30年代の学生左翼活動のお話。
食堂での学生たちのコミュニケーションの描写も面白いですが、
それよりもブリューゲルの描写のインパクトがすごいです。

自分はブリューゲルが好きなので、ついでに絵を貼っておきます。

・死の勝利

死の勝利

冒頭で描写されているのはこの絵だと思います。

・悪女フリート

悪女フリート


・反逆天使の堕落

反逆天使の堕落

モンスターの描写はこのあたりの作品でしょうか。
不気味な「穴」を持ったモンスターは、小さくて見にくいですが
それぞれの絵の下の方に描かれています。

・盲人の寓話

盲人の寓話

81ページで語られている絵はおそらくこの作品です。

・大魚、小魚を食う

大魚、小魚を食う

82ページで登場する絵です。

その他、「顔の中の赤い月」「残像」「崩壊感覚」は
いずれも戦地から帰った主人公の終戦直後の生活を描く話で、
エゴイズムとニヒリズムがテーマになっています。
後の作品になるにつて、ニヒリズムの度合いが増していきます。
非合理的な軍隊・戦争が人間性を壊していく・・・。
この中では、やはり「顔の中の赤い月」の切なさが一番印象的です。

<関連リンク>
・日本近代短篇小説選 昭和篇2 → 
・ブリューゲル → 


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■往生要集を読む/中村元 (講談社学術文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
源信の「往生要集」を解説した本。
「往生要集」は漢語の仏教経典を参照し浄土の教えをまとめたものですが、
この本は適宜サンスクリット語の経典と比較するということを試みています。
「往生要集」は地獄や極楽を具体的に描写した著述が有名ですが、
それだけではなく、極楽往生の具体的な方法や浄土教の教義の
詳細についても纏められています。
古代インドのローカルな教義と比較して、
源信はより普遍性に近づいているという考察が興味深いです。
後世の地獄絵などに影響を与えた地獄の詳細な描写や、
阿弥陀仏の姿の詳細な描写は、やはり面白いです。

<コメント>
以前に中村元さんの「龍樹」という本を読み、これが非常に面白かったので
他の本も読んでみようということで手に取った本です。

「往生要集」は、地獄をはじめとする六道の描写、そして
極楽の情景を描写した作品だと理解していましたが、それだけに非ず。
浄土教の教義についても詳細にまとめられており、たとえば、どうして
「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで悪人までも往生できるのかということについて、
仏典を参照しながら詳細に回答したりしており、極めて論理的な著作のようです。
著者によると「往生要集」は日本人の著作としては非常に珍しいことに
中国大陸でも当時から盛んに読まれていたのだそうです。

しかし、面白いのはやはり地獄の描写です。
八大地獄の情景など、不必要なほどに(?)詳細に描写されています。
(グロテスクな描写は読んでいると気分が悪くなります 笑。)
我々が地獄と聞いて思い浮かべる情景、その後の中世の絵巻物などで
描かれた地獄の情景は、この「往生要集」の影響のようです。
餓鬼道についても詳細に描写されていますが、その他の六道についての
描写はやや淡泊、当時の人々の関心はやはり地獄や餓鬼にあったのでしょうか。

その他、極楽への往生の仕方、とくに仏様の姿を思い浮かべて念仏する際の
仏様の描写がやたらと詳細だったりして面白いです。
極楽の描写もまた異様に詳しく、宗教的論理性だけではなく、
こういった細部の描写が往生要集の面白いところなのだという気がします。

<関連リンク>
・龍樹/中村元 → 


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■ホモ・ルーデンス/ホイジンガ (中公文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
人間を遊ぶ生き物(ホモ・ルーデンス)と定義し、
人類史と遊びについて考察した本。
遊びとは何かについて厳密に定義され、そのあと人類の様々な慣習・文化
(競技や賭け事は元より、法・戦争・詩作・哲学・音楽・芸術など)
についての遊びの要素が列挙され、古代から近代までの時代ごと文化様式、
世界各地の文化の特徴の中の遊びの要素が並べられます。
反面、近代以降は、スポーツ・芸術・卓上ゲームにおいてすら
真面目の要素が強くなり、遊びの要素が薄まっているとのこと。
近代成熟期の現在こそ、遊びの文化的価値の再考が必要だと感じました。

<コメント>
人間とは元来「遊び」を追求する生き物である。
この本によると、「遊び」とは、
 命令されてするものではなく自由なものであり、
 日常・本来的な生活に基づくものではなく、
 日常から場と時間を区別されるもので、
 固有の規則があり、
 闘争もしくは表現の形をとる、
というものだそうです。

しかし19世紀以降の近代人は遊びの文化的価値を忘れ、
スポーツや芸術においてすら、近代ではひたすら真面目さが
追及されているとのことです。
なぜなのでしょうか?
おそらくですが、社会が発展・変革し、未来にある種の展望が見える
状態であれば、人間はあるべき未来に対し真面目に取り組むことに
なるということなのだと思います。
逆に言えば、社会が安定・平衡状態、あるいは衰退期に入る場合、
人はまた遊びの価値を見出し、遊びに目覚めるのではないかとも思います。
この本で述べられているような遊びについては、現代を生きる我々にとって
今後はもっと重要な考え方になるように思います。

自分は音楽や美術が好きなので、それらについて少し書きます。
19世紀以降の「真面目さぶり」については、非常によく分かります。
たとえば音楽の場合、19世紀中盤、とくにワーグナー以降、
音楽は崇高なもので心して聞くものであるというような風潮が登場、
過去のバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった人たちが評価・神格化され、
演奏会場で静かに座った聴衆が音を立てずに無心に音楽に耳を傾けるという
「真面目な」鑑賞方法が確立され、現在まで続いています。
美術においても、美術館が次々と設立され、真面目な干渉が主体になります。

この本は1938年の出版です。
20世紀後半以降の音楽・美術の動向を我々は知っています。
思うに、20世紀後半以降は、また遊びの復権というか、
遊びの要素が強い作品が主流になってきている気がします。
とくに現代美術は遊びであると言い切ってしまってもいいかもしれません。
現代美術のほとんどの作品は、過去の美術作品の参照みならず、
歴史や文化を参照しながら、それをある種の遊戯性をもって表現しようとする
作品がほとんどです。
真面目で崇高な作品を鑑賞しようとして現代美術展の会場に向かうと
必ず肩透かしを食らいます。
「現代美術は変な作品ばかりでわけわからん」という人は、
きっと美術に真面目さ・崇高さを求めているのだと思います。
音楽においても、依然としてクラシック音楽の鑑賞スタイルは残っていますが、
主流はもっと自由で身体的で楽しいポピュラー音楽に取って代わられています。
(クラシックはクラシックで、時代を経ても面白いものではあるのですが。)

自分はスポーツのことはあまり詳しくありませんが、
現在において、スポーツ観戦というものの真面目さは、
美術や音楽とは逆に、一層際立っているように思います。
オリンピックやワールドカップの選手たちの、あまりにもひたむきで真面目な
勝利というものへのこだわり・・・。
自分がオリンピックやワールドカップに今一つ興味が持てないのは、きっとこの
真面目さ、勝利というものにこだわりすぎる窮屈さにあるのだと思います。
(負けたときの「応援してくれた人に申し訳ない」というコメントに象徴される
真面目さ、なぜ負けたときに謝らないといけないのか・・・。)

スポーツも本来はもっと遊戯性が強いものだと思います。
美的なものと言ってもいいかもしれません。
買った負けたに真面目にこだわりすぎるのはいかがなものかと思います。
世間がワールドカップで湧いているさなかに読んだ本ですので、
そんなことを考えてしまいました。