読書記録 2014年(3) | れぽれろのブログ

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美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

最近読んだ本についての覚書です。
「読書メーター」への投稿、及びそれに対する補足コメントです。


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■「絶望の時代」の希望の恋愛学/宮台真司 (中経出版)

<内容・感想> ※読書メーターより
宮台真司さんの久々の性愛に関する書籍。
主題はナンパ・恋愛・セックスですが、それだけに非ず。
良き生・良き社会とは何かということにつながっていくテーマです。
キーワードは変性意識状態、自発性と内発性、物格化と人格化。
性愛その他を通して変性意識状態を経験することにより生が実りあるものになり、
このことが近代社会を存続させる動機づけに繋がる。
実りある関係性には、
自発性ではなく内発性(損得ではなく内から湧き上がる衝動)、
他者の物格化ではなく人格化(他者を機能としてではなく主体として見る)
が大切、このように理解しました。

<コメント>
前にもどこかで書いたかもしれませんが、自分はミヤダイファンです。
前世紀末、10代後半~20代になりたての学生時代、
「終わりなき日常を生きろ」「世紀末の作法」「自由な新世紀・不自由なあなた」
「サイファ覚醒せよ」といった宮台さんの書籍を読み、
「ダ・ヴィンチ」という雑誌での宮台さんの連載を読み続け、
多感なころに影響を受けた学者さんなのです。
その後もちょこちょこと書籍はフォローさせて頂いており、
それが現在まで続いています。
この本にはいわゆる「ミヤダイ用語」が頻出しますので、
宮台さんの書籍に読み慣れている方はスラスラ読めると思いますが、
そうでない方は少し読みにくいかもしれません。

この本のメインは第2部のナンパ講座なのだと思いますが、
個人的にはその部分を読み飛ばしたとしても、
プロローグと第1部とエピローグだけ読んでも価値のある本だと思います。

宮台さんの考え方の根本を自分なりに意訳すると・・・
コミュニケーション可能なものの総体が<社会>、
その外に広がるコミュニケーション不可能なものも含む全体が<世界>
であると定義され、
<世界>はカオスで端的に意味はなく(<世界>はそもそもデタラメである)
従って我々が生きていることにも端的に意味はない。
故に問題設定は、「生きることに意味はあるのか」ではなく
「意味なき世界をどう生きるのか」という形になり、
歴史上の思想家の著作、映画を中心とした表現、
宮台さんご自身の経験
などから、
生きている幸福は様々な形で得られる可能性がある
(「必ず得られる」のではなく「得られる可能性がある」)と説かれます。
さらに、<世界>が無秩序であるがゆえに、
放っておくと<社会>も必ず無秩序になる。
なので、人倫や社会秩序は意識的に構築して行かなければならず、
この人間の<社会>構築の営みが、「意味なき世界をどう生きるのか」という
問題への答えにもつながっていく。
こんな感じで捉えています。

この本においても、「意味なき世界をどう生きるのか」
「<社会>を秩序立たせるための動機づけはどのようにして得られるのか」
という問いが根本にあるように思います。
性愛を通しての変性意識状態(意味付けられないような得も言われぬ体験)は
この問いに対する一つの答え、生きている幸福を得るということの
一つの答えです。
変性意識状態はセックスにおいてのみ現れるわけではなく、
旅行、スポーツ、ギャンブルなどの余暇活動、そして、
仕事、家庭、普段のコミュニケーション、その他社会活動といった日常においても
現れ得るものだと思います。
何かに没頭しているという状態は一つの変性意識状態ですね。
このブログにおいても美術や音楽などについてあれこれ書き続けていますが、
基本的には変性意識状態のような体験、「意味なき世界」を生きるための
「ときどき不意に現れる体感的な幸福の訪れ」について、
どこかで意識しながら書き続けている部分があります。

自発性と内発性、物格化と人格化について。
自発性は損得を考えて行動する、つまり意味を求めての行動で、
生きる幸福の訪れからは遠ざかる行為。
内発性は内から湧き上がる衝動、<世界>から訪れる意味付けられない衝動で、
生きる幸福に直結します。
物格化は他者をモノ扱いする、他者を機能として意味付ける行為で、
生きる幸福の訪れからは遠ざかります。
人格化は他者を主体として扱う、他者を<世界>からの訪れであると捉え、
生きる幸福の訪れに直結します。
・・・と、ざっくりこのように理解しました。

第2部についても自分の経験などをあれこれと思い出しましたが・・・
長くなりますし、恥ずかしいので(笑)、またの機会にします(笑)。

<関連記事>
「おどろきの中国」の感想 → 


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■中世の秋(上下)/ホイジンガ (中公文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
14~15世紀(中世末期)の西欧についての考察。
中世的なものが飽和した状態にあったこの時代、
宗教的・美的に美しい生活を求める心持ちが礼儀作法を極端に重んずる
形式主義を生み、ロマンティシズムとエロティシズムが混在した
独特の騎士道精神を生みます。
人々は気性激しく、民衆は聖職者に扇動され、残酷な処刑に喝采を送る。
生活の隅々にまでキリスト教が行き渡った結果本来の聖性が欠落し、
宗教が俗なるイメージに塗れ、死のイメージが生活に溢れます。
中世末期とルネサンス・宗教改革の時代との継続性を考えながら
楽しく読みました。

14~15世紀(中世末期)の西欧についての考察、
下巻はこの時代の思考と芸術の傾向についての分析が中心です。
時代の特徴として、装飾過多の派手さと静謐な敬虔さの同居、
洗練と滑稽・高尚と愚劣が未分化であり、論理性に弱く形式的で観念的、
バランスやリズムに欠く代わりに細部への異常なこだわりが見られ、
遊戯性やアイロニーの要素が強い。
この時代の最も洗練された作品がファン・アイクなどの視覚芸術であるとされ、
これらの作品が近代の始まりではなく中世の完成として評価されています。
中世~近代を断絶ではなく継続として考える一冊。


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■花ざかりの森・憂国/三島由紀夫 (新潮文庫)

<内容・感想> ※読書メーターより
三島由紀夫の短編集。
以前に「真夏の死」を読んで面白かったので、こちらの自薦短編集も
読んでみました。
「憂国」は圧倒的に物凄い作品だと思いますが、
自分は作者の主観的な美意識が前面に出ている表題作2作よりも、
「橋づくし」「遠乗会」「新聞紙」のような、
作品の構造・構築のパターンが面白く、
その構築性が美文で補完されていくような作品が気に入りました。
その他、シニカルな少年が世界に開眼する「詩を書く少年」、
信仰を捨てた僧が不思議な半生を語る「海と夕焼」などが印象に残りました。

<コメント>
以前に「真夏の死」を読んだときの感想でも書きましたが、
三島由紀夫の短篇は、しっかりとした物語構造が面白く、
その物語構造が美しい文章で綴られるところが読んでいて心地よく、
楽しいのだと思います。

上記の感想のとおり、表題作2作「花ざかりの森」「憂国」は
どちらも作者の美意識が全面に出ている作品であるように思います。
「花ざかりの森」は16歳のときの作品で、作者自身のあとがきによると
「私はもはや愛さない」のだそうです。
これに比べて「憂国」の方は、同じく作者自身のあとがきで
「一遍だけ選ぶなら憂国だ」旨の記載となっています。

「憂国」はこの作品集の中で最も壮絶な作品で、
ものすごい強度の性愛と自害が描かれています。
死を決意した夫婦が、上記の宮台真司の著作に引き付けて言うとまさに
「強烈な変性意識状態によるセックス」を経験し、
そのあと美しくも壮絶な心中を遂げる。
凄まじい作品です。
すごい作品ですが・・・自分は何だかあまりリアリティを感じません。
自殺というのは汚物に塗れ、決して美しいものではないと自分は理解しています。
三島由紀夫自身、あとがきで
「このような至福は、ついに書物の紙の上にしか実現されえないのかもしれず」
と書いています。
自分は「蘭陵王」を読んだときも「美しいが嘘くさい」と感じました。
(もちろんフィクションなので、嘘くさいも何もないのですが・・・)

現実はどうか、
時を経ることにより強い恋心は忘れられ(遠乗会)、
神は沈黙したまま宗教的奇跡は起こらず(海と夕焼)、
傍目に不可解な人間の思いのみが成就し(橋づくし)、
想い想われの感情はすれ違い(女方)
いかがわしい生業の夫婦の実生活が堅実に見える(百万円煎餅)、
これが意外と現実のリアリティである、そんな風に思います。
そして、こういう「現実はまさにこうだよね」という作品の方が、
個人的には好きです。

ちなみに今のところ一番好きな三島由紀夫の短篇作品は
「真夏の死」に収録されている「雨のなかの噴水」
これが妙に可愛くて好きですね(笑)。

<関連記事>
・「蘭陵王」の感想 →   ※一番下です。
・「真夏の死」の感想 →   ※一番下です。