佐村河内守騒動 | れぽれろのブログ

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先日から、佐村河内守さんのゴーストライター問題、そして詐病の疑いが
あるという問題が、あちこちで話題となっているようです。
クラシック音楽、ましてや現代音楽としての交響曲を作曲した(とされていた)
作曲家が、ここまで大きくニュースになったり話題になったりすることは
非常に珍しいですね。
クラシック好きとしては何やら変な嬉しさもあったりで、
普段あまりニュースを気にしない自分も、このニュースについては
割とあちこちの情報にアクセスしたりしています。
ということで、いつも世間と全くペースがずれている(笑)このブログにしては珍しく、
時事ネタをベースにあれこれと書いてみることにします。


自分は現代の作曲家の音楽を聴くのも結構好きで、
実は佐村河内守さん作曲(と言われていた)交響曲1番「HIROSHIMA」の
初演(抜粋ではなく全曲版)も聴きに行っています。
4年前に京都コンサートホールにて、京都市交響楽団の演奏により初めて全曲が
演奏され、この演奏会には佐村河内さんご本人も来られていました。

まずこのときに聴いた交響曲1番「HIROSHIMA」の印象、
どんな曲だったかについて、当時の日記のメモを書いてみると・・・。
 楽曲は3楽章制。長さは80分程度。
 全体的に後期ロマン派風。
 ブルックナー風の分厚さと、ショスタコーヴィチ的な暗さと美しさを感じる。
 1楽章
  第2主題(?)に出てくる賛歌風の主題がいい。
  終盤にはタムタムとシンバルの閃光のような強烈な一撃。
 2楽章
  静・動の繰り返し。
  弦の高速の重ね合わせと金管のアンサンブルが印象的。
  やはり途中に閃光のような強烈な一撃あり。
 3楽章
  速めのテンポでスタートし、盛り上がった後終盤に静かな美しい旋律が現れる。
  マーラー交響曲3番の6楽章のように盛り上がっていき、ここが感動的。
  最後は鐘が鳴り響き、大音響とともに終了。
と、こんな感じの曲です。
現代音楽的な雰囲気はそんなに感じず、曲の長さからしても後期ロマン派風で、
結構面白い曲だったように記憶しています。

この演奏会で音楽以上に印象的だったのは、通常の演奏会とは異なる
会場の雰囲気と、演奏会の主催者側から伝わる強烈なメッセージ性でした。
まず会場に入ると原爆関連の資料が展示されていました。
人体の被爆写真なども展示され、普通の演奏会ではないただならぬ雰囲気です。
会場には、まとまって招待されたのか、障害を持たれている方がたくさん。
自分の席の前も全盲と思われる方2人が座られていました。
京都での演奏会だったのですが、観客の話声は標準語が多かったです。
全曲が演奏された後、佐村河内さんが杖を片手に歩きにくそうに舞台に上がり、
挨拶をしたのですが、楽曲に対するコメントは一切なく、
「この会場に来ておられる皆様は反核の意識のある方々である」
等々の主張をされていました。
その後主催者側(と思われる)方からの反核のメッセージと寄付の依頼で、
演奏会が終了したのでした。
自分は佐村河内さんに関する前提知識はほぼゼロで演奏会に臨んだので、
かなり戸惑ったことを記憶しています。


今回の佐村河内守騒動、作品とは、著作権とは、病気とは、社会運動とは、etc、
様々な要素をいろいろな角度から考えることができる、
興味深いケースだと思うので、あれこれ考えてみるのも面白いかなと思います。


考えたことをいくつか。

今回よくきく意見として、作者の生い立ちや来歴に左右されず、
純粋に楽曲そのものをきくべきだという意見があります。
一見もっともらしい意見ですが、先入観に左右されず作品そのものを純粋に
鑑賞するということは、実はすごく難しいのではないかと自分は思います。
上記の初演に対しての自分のメモにも「閃光」という表現が出てきています。
これは「HIROSHIMA」という副題や佐村河内さんの来歴(パンフレットに
記載されていた)から自由になれていない証拠です。
現在、実は「HIROSHIMA」というサブタイトルは後付で、
本来の楽曲のタイトルは別のものだったという事実も明らかになっています。

作品を取り巻く「文脈」から作品を切り離して、「作品」だけに反応するということは、
すごく難しい。
交響曲作曲家のマーラーは、初期の作品では作品の理解を助けるため、
各楽章に副題を付けたり、解説を付けたりしていましたが、鑑賞者の想像力を
制約させてしまうため、5番以降はこのような行為はやめています。

逆に、歴史的文脈が付随した結果、違った感慨を与えるという例もあります。
自分が損保ジャパン東郷青児美術館ではじめてゴッホの「ひまわり」を見たとき、
「これがバブル期に何十億でかったあの有名なひまわりか!」
という感慨をまず抱きました。
フェルメールの「画家のアトリエ」を見たときも、
「これが一時期ヒトラーが所有し、戦後押収されたあのフェルメール!」
という、作品とはまったく関係のない感激を覚えたことを記憶しています。
島袋道浩さんが1995年3月11日に震災後の神戸で撮影した写真作品は、
その16年後に予想もしなかった意味を持つようになりました。
このようなことは、自分は面白いことなのではないかと思います。

作品には作者がいて、作者には純粋な主張や美学があり、
それが作品を通して鑑賞者に伝わり、鑑賞者に感慨を与える・・・。
一見このような構造として作品というものを捉えがちですが、
このような考え方は(決して間違った考え方ではないと思いますが)
現代的な考え方ではないと思います。
社会・歴史・文化といった様々な要素が無意識に作者に影響を与え、
そして鑑賞者にも影響を与えます。
作者・鑑賞者・批評者を取り巻く社会・歴史・文化など、
様々な要素が「作品」というものを形成している。
これが現代的な作品に対する考え方なのだと思います。
作品は時代を経て作者の手を離れ、独り立ちして、
様々な要素が付随されたうえ、歴史化されて行きます。
優れた現代美術作品などは、このことを視野入れた上で製作されています。

佐村河内さん作曲といわれていた楽曲は、
「被爆2世の全聾の作曲家が作曲した曲」という文脈で鑑賞されていましたが、
今後は「被爆2世の全聾の作曲家が作曲した曲と言われていたが
実際はウソだった曲」として鑑賞されていくのかもしれません。
このことはすごく面白いのではないかと、自分なんかは思います。
今後この作品が、どのような形で歴史化されていくのか、非常に興味があります。


その他、誰が作曲していようがそんなことはどうでもよく、
作品は作品として自由に鑑賞されるべきだという意見も聞かれます。
これはもっともな意見だと思います。

「1作品に1作者がいる」という考え方が揺らぐような作品も、
歴史的にたくさんあります。
ルーベンスの作品の多くは工房作ですが、
ルーベンスの作品の価値に影響を与えるわけではありません。
ゴヤ作といわれていた「巨人」という絵、近年ゴヤ作ではないと
結論付けられたようですが、依然としてこの作品は面白いと思います。
モーツァルトの「レクイエム」、マーラーの「交響曲10番」、
プッチーニの「トゥーランドット」、すべて未完の作品で、補筆者の手を経て
完成された作品ですが、どれも個人的にはすごく好きな作品です。
現代美術のインスタレーションなど、多くは作者とその協力者の共同作業です。
現在の多くの出版物も、著作者と編集者の共同作業の上に成り立っています。
そして、そもそも音楽というものは譜面だけでは成り立たず、
演奏者がいて初めて音楽たりえます。

権利関係がどうなるのか、このあたりは自分は詳しくないですが、
佐村河内さん作と言われていた交響曲1番、様々な歴史を背負いながら、
今後も演奏されると面白いなと、自分なんかは思います。


その他、詐病について。

現在のところ事実関係は明確ではないようですが、
佐村河内さんが全聾であるというのはどうも偽りであるようです。
佐村河内さんがどうであるかは別として、このことの波及効果は
結構大きそうです。
というのも、多くの病気は実は意外と外見からは分かりにくいものだったり
する場合が多いので、「誰それも実は詐病なのではないか」という疑念が
社会に定着しやすくなることは結構問題である気がします。

卑近なレベルでは、自分はよく頭痛が起こりますが、
頭痛というのは外見上は意外と分からないものです。
水俣病が発生したとき、一部の劇症型の患者の印象が非常に強いため、
外見が健康人と変わらない水俣病患者が、長らく詐病扱いされてきたという
歴史もあります。
昔「刑法第三十九条」という、精神疾患を装う犯罪者を描く映画がありましたが、
精神疾患であるかそうでないのかというのも、判断は難しいのだと思います。
発作がときどき起こるという病気もありますし、
本当に発作が起こったときに「病気のふりなのでは」などと思われるとたいへん。

「百人の罪人を見逃そうとも、1人の無辜の民を無実の罪で罰することなかれ」
これが近代的な推定無罪の考え方です。
これと同じように、
「百人の詐病者を見逃そうとも、1人の苦しんでいる人を見逃すことなき社会」
のような考え方の方が大切だと自分なんかは思うのですが、どうでしょうか?
今回のことをきっかけに、疾病に対する社会からの見方に
変なバイアスがかかったりしないか、少しだけ心配しています。


社会との関連。

自分は基本的には反核には賛同したいですし、
原発もなくした方がいいなと思っています。
しかし、このような意見を大きく表明したり、社会運動に参加したりすることは、
実はとても難しい。
我々の社会で、いわゆる普通の市民が社会運動に参画することが難しく、
今一つ盛り上がらない理由として、「社会運動は特定のイデオロギーを持つ
特殊な人がやっている」という
印象があることが大きいと思います。
印象があるだけではなく、事実そういう面があるのだと思います。
上記の佐村河内さんの演奏会で自分が感じた「ただならぬ感じ」、
背後に強烈な「特殊な社会運動の強烈なメッセージ性」を感じさせる
演奏会であったように記憶しています。
佐村河内さんがここまで大きく取り上げられるようになったのも、
このような「特殊な社会運動」の上に乗っかった結果であるというような
要素があるように思います。

NHKは佐村河内さんのドキュメンタリーを過去に製作されたそうです。
このことから、今回のゴーストライター・詐病騒動についてのドキュメンタリーを
作ってはどうかとの意見もあるようです。
これは面白い提案だと思います。
NHKでやらないにせよ、なぜこのような事態になったのか、
自分は直感的に我々の社会や我々のメンタリティーに何か問題が潜んでいる
ような気がするのですが、このことに迫るようなドキュメンタリーを
製作して頂けると、面白くかつ有益なのではないかと思います。


以上、あれこれ思ったことを並べて書いてみました。