好き嫌いの話 | れぽれろのブログ

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美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

今日は好き嫌いについて書きます。
といっても、食べものの好き嫌いの話ではなく、
あるもの・対象を好きになったり嫌いになったり、
誰かを好きになったり嫌いになったりする、そういうお話です。

いきなり結論的なことを書くと、何が好きか嫌いかは、
生まれたときの初期条件(遺伝情報など)と環境条件(生育環境)によって
変わるものだと思います。
このことは、当たり前といえば当たり前なのですが、人は意外と忘れがちです。
自分は本をダラダラと読むのが好きなのですが、
これはおそらく幼いころから体がそんなに丈夫ではなく、
外に出て活発に遊ぶことが苦手な子供だったからです。
美術が好きな理由は、父が元美術部で、家に古い美術全集があったからです。
父が死んだ後、父の部屋にあった全集を片っ端から手に取って見ているうちに、
好きになりました。
クラシック曲が好きな理由は、友達に誘われて吹奏楽部に入ったことが
大きく影響していると思います。

そして、「好きな人が好きなものは好きになる」という法則があります。
自分がショパンや椎名林檎が好きなのは、好きな人の影響です。
好きな人が自分の好きなものを好きだと、ますますそのものが好きになります。
そして、自分の好きなものについて、別の人もそのものが好きだと、
不思議とその人のことも好きになって行きます。
好きが増幅していく感じ。

何かを好きになる、あるいは嫌いになるということは、
自己の環境に合わせて、自己の認知を整合させるという行為なのだと思います。
例えば結婚のケース。
ある人の家族関係や経済環境や生まれや育ちは、
自分が必要とする家族関係や経済環境等々と合致している。
なので、「この人となら結婚できる」と思う。
だから、認知整合的にその人のことが好きになり、結婚したいと思うようになる。
こういうことってよくあることだと思います。
身分違いの恋が成就するなんてことは、
ドラマでは起こりそうですが、現実では比較的起こりにくい。
自分の社会的環境に合致しない相手の場合、
おそらく認知整合的に好きにならないのだと思います。
人は、実は現実環境に合わせて、認知を変えているのです。

好きな人だとか結婚だとかでなくてもそうです。
最初に自分の好きなものの理由を挙げてみましたが、
このように、自分の好きなものを冷静に分析してみると、
必ず自己の背後にある環境条件・社会構造が見えてきます。
言い方を変えると、社会からあるものを好きになるように仕向けられている、
こう言ってもいいかもしれません。
自分は結構ドライな考え方をするので、人間の自己の意思なるものを
あまり信じていません。
「好き」という意思など、結構いい加減なもの。
「自己の意思」なるものは、社会の複雑な相互作用、
社会の側からの個人への働きかけの中で、自然と決まってくるものです。
社会の中を生きる自分という人間への、社会からの作用に対するレスポンスが、
「好き嫌い」という価値判断になって現れてくる・・・。
こう考えていくと、自己なるものは消失していきます。

こういう考え方、苦手な人、否定したくなる人もいると思いますが、
自分は所詮このようなものなのだと、ドライに考えています。

このことをポジティブに(?)考えてみます。
あなたが嫌いなもの。
それは、社会を生きるあなたが、社会からの作用によって
嫌いになっているだけなのです。
自分は、いわゆる嫌いなものってほとんどありません。
自分はテレビは見ません。
これはテレビが嫌いなのではなくて、今の社会生活において、
自分が生きていく中で、テレビを必要としていないだけです。
スポーツ、アウトドアライフ、ゲーム、ギャンブル。
自分は全然しませんが、これも嫌いなのではなく、
単に下手糞であったり、身体の制約上苦手なだけなのです。
人は、自らが必要としていないもの、下手なものを、
短絡的に「嫌いだ」と言ってしまいがちですが、
冷静に考えると、「嫌う意味がない」ということに気付きます。
このことに敏感になると、嫌いなものは少なくなり、
人やものに対して寛容になり、人生がきっと楽しくなります。

・・・この記事、分かって頂けるでしょうか・・・?(笑)