前回の続き、
岩波文庫の「日本近代短篇小説選 昭和篇2」
後半7作品の覚え書きです。
・虫のいろいろ/尾崎一雄 (1948)
病床で伏せる主人公、そして、蜘蛛、蚤、蜂、蝿に対する観察と想い。
瓶の中に閉じ込められた蜘蛛は、蓋を開けるやいなや
すごいスピードで逃げていく。
すごいスピードで逃げていく。
瓶の中の蚤はやがてジャンプしても無駄なことを悟り、
そして蚤の調教はここから始まる。
そして蚤の調教はここから始まる。
蜂は航空力学的にはなぜ飛行できているのか分らないのだが、
蜂はきっと分かってないから飛行できているのではないか。
蜂はきっと分かってないから飛行できているのではないか。
蝿は同じところに3回止まると、もうそこには止まらなくなる。
・・・どこまで本当か分りません(笑)が、主人公の虫への関心は、
ときには宇宙への想いにまで広がります。
ときには宇宙への想いにまで広がります。
極小のものに世界の不思議を見るという感覚は、すごくよく分ります。
哺乳類のように肉を持たず、外骨格丸出しの虫というものは、機械的・メカ的な
印象を与え、それゆえ人を引き付けるというのも、理解できる感覚です。
印象を与え、それゆえ人を引き付けるというのも、理解できる感覚です。
(でも自分は虫は苦手なのですが・・・)
この作品、とくに好きな部分が2つ。
1つは、富士山の見えるトイレの窓に挟まれた蜘蛛。絵的によいですね。
もう1つはラストシーン。おでこの皺で蝿の足を捕まえた主人公と、
それに喜々とする子供。
それに喜々とする子供。
虫の習性には関心をよせない家族たちが、実に下らないことで盛り上がる・・・。
主人公は不機嫌になりますが、こういう「日常のちょっとした奇跡」って
素晴らしいと思います。
素晴らしいと思います。
・もの喰う女/武田泰淳 (1948)
主人公はある女の子をよく食事に誘います。
その子は喫茶店で働いていて、傘も買えないような貧しい女の子。
主人公は彼女と食事をしますが、彼女は、ドーナツを、寿司を、とんかつを、
ものすごく美味しそうに食べます。
ものすごく美味しそうに食べます。
そんな彼女に対し、主人公はキスを迫ったり、夜道で乳首を舐めたり
するのですが、彼女はとくに嫌な顔もせず、「あなたが好きよ」とか言ってます。
するのですが、彼女はとくに嫌な顔もせず、「あなたが好きよ」とか言ってます。
この話、最後の主人公の心の動きなどが主題であると思うのですが、
それよりも、とにかくこの「もの喰う女の子」がすごく魅力的です。
それよりも、とにかくこの「もの喰う女の子」がすごく魅力的です。
感情をあまり表に出さず、欲望に忠実な女の子。
食糧事情のよくない時代の描写ですが、食べものが何だか美味しそうに感じます。
・胡桃割り/永井龍男 (1948)
母と死に別れ、さらにその後、姉とも別れることになった男の子のお話。
胡桃が「自己の殻」の表象になっています。
30年代を振り返った話なので、戦争の影はあまり感じませんが、
自立しようとする男の子が、どことなく戦後の再スタートを切る日本と重なります。
・水仙/林芙美子 (1949)
上記の永井龍男とは全く対照的な作品。
口汚く罵り合う母子のお話。
男と駆け落ちして子供を作った母は、後にその男とは別れ、
男を転々と変えながら食い繋いでいきます。
男を転々と変えながら食い繋いでいきます。
息子はそんな母子家庭で育ち、全く甲斐性のない大人になります。
息子に対し「この子さえいなければ」という思いを抱く母、
そんな母にいつまでも依存しながら母を罵倒する息子。
ラスト、息子は母と別れて北海道の炭鉱に行きます。
そして一人になった母は、生きていくために森永(お菓子)と九谷(磁器)を
万引きする所でお話は終わります。
万引きする所でお話は終わります。
永井龍男の方は比較的上流階級の戦前の覚悟の物語でしたが、
こちらは転落した母子の戦後の覚悟の話。
その覚悟のうち、母の覚悟は、前回の「蜆」のような
「仕方のないエゴイズム」への決意なのです。
「仕方のないエゴイズム」への決意なのです。
さて、少し関係ないことかもしれませんが、気になったこと。
この小説の一番最後は、電光掲示板に議会解散のニュースが
流れるシーンで終わります。
流れるシーンで終わります。
この作品は1949年2月に発表された作品。
この直前の議会解散といえば、1948年の12月23日です。
そしてこの12月23日、この日は東京裁判でA級戦犯とされた
東条英機ら7人の絞首刑が執行された日です。
東条英機ら7人の絞首刑が執行された日です。
まさに戦中が総括された日、そんな日に息子は炭鉱へ出発し、
母は犯罪に手を染めたのでしょうか・・・。
母は犯罪に手を染めたのでしょうか・・・。
関係性は不明ですが、何だか気になったので書き留めておきます。
・出征/大岡昇平 (1950)
1944年、戦局は悪化の一途を辿る日本の夏。
そんな夏に南方へ出征することになった主人公の、
日本を発つまでの心理が描写されるお話。
日本を発つまでの心理が描写されるお話。
死ぬかもしれない、死ぬ可能性が高い出発。
死を覚悟した人間の目から見た世界、外界が特別な色合いを帯び、
光は一層明るく、影は一層暗く感じる・・・
光は一層明るく、影は一層暗く感じる・・・
こういった描写が印象に残ります。
その他、なぜ抵抗せず戦地に赴くのかという分析も印象的です。
30年代前半の社会主義者への弾圧を記憶している主人公は、
国家への抵抗の困難さ理解しています。
国家への抵抗の困難さ理解しています。
このような場合、人は負ける可能性が高い抵抗より、
もしかしたら生き残ることができるかもしれない不抵抗を選びます。
もしかしたら生き残ることができるかもしれない不抵抗を選びます。
組織が個人を巧妙に操作するテクニックは、この辺りにあるのかもしれません。
・小さな礼拝堂/長谷川四郎 (1951)
続いては、もう一つの戦後、シベリア抑留のお話です。
自分はたまたま今年の2月に、舞鶴の引揚記念館に行きました。
なので、そのときの展示の記憶が重なる作品でした。
ソ連の捕虜となり、労働を強いられる日本兵たち。
発疹チフスで死んでいく人、ロシア人に殺害される人。
過酷なシベリアの事実。
キノコ中毒で死んだ(とされる)人の淡々とした解剖シーン、
これまた凄惨な、前回の坂口安吾の作品並のグロテスクさ、これも印象的です。
・プルートーのわな/安部公房 (1952)
最後に登場するは安部公房。
ネコとネズミを巡る、寓意的な物語。
平和な倉庫の中のねずみ国。
ある日その倉庫の扉が開かれ、猫のプルートーがやってきます。
みんなが一丸となって戦えば勝てる可能性があるものの、
ねずみたちはみな怖気づいて戦おうとはしない。
ねずみたちはみな怖気づいて戦おうとはしない。
ねずみの中の一匹がプルートーと交渉し、取引しようとしますが、
彼はプルートーの「ルール」を守れず、あっさり殺されてしまいます。
1952年はサンフランシスコ講和条約発行の年。
そして講和条約と同時に締結されたのが、日米安保条約。
作者の意図は分りませんが、なんとなく、猫のプルートーはアメリカ、
ねずみ国が日本であるようにも見えてきます。
ねずみ国が日本であるようにも見えてきます。
この「日本近代短篇小説選」のシリーズ、毎回一番最後の作品が
次の時代を予感させるような作品で閉められており、これまた面白いです。
ということで、この巻も非常に面白く読みました。
「日本近代短篇小説選」は、明治篇も2冊刊行されているようですので、
これもまた(いつになるやら分かりませんが)、機会があれば
読んでみたいと思っています。
読んでみたいと思っています。