日本近代短篇小説選 昭和篇2 (その1) | れぽれろのブログ

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岩波文庫から出ている「日本近代短篇小説選」のシリーズ。
今年1月に「昭和篇3」を読み、2月に「大正篇」を読み、
4月に「昭和篇1」を読みました。
「昭和篇2」も既に購入済みで、そのうち読もうと思いつつ、
他の本に浮気しているうちに時がどんどん流れ、
約4ヶ月が経過した8月3日の土曜日にようやく読み始めました。
読み始めると面白く、あっという間に読み終えましたので、
また感想などをまとめておこうと思います。


まずは前置き。

この巻には1946年~1952年の7年間の作品が収録されています。
大正篇、昭和篇1、昭和篇3がそれぞれ約15年~20年間から
作品を選定しているのに対し、昭和篇2は約半分の短さである
7年間から選定されています。
さらに、この巻には計13作品が収録されていますが、1947年の作品が4作品、
1948年の作品が3作品と、この2年間で半数以上を占めています。
ある特定時期の作品がすごく目立つ形になっています。

そして、1946年~1952年の7年間といえば、
1945年が敗戦、1952年がサンフランシスコ講和条約発行の年ですので、
ほぼまるまる占領期に相当します。
敗戦後、闇市とバラックが立ち並ぶ中、兵隊さんたちが引き揚げてきて、
占領下での日常が開始されます。
その生活は、決して豊かとは言い難いもの。
日本国憲法(施行は1947年)の前文の一節
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
あえて一言でこの巻の特徴を現わすなら「恐怖と欠乏」です。
戦地から帰還した兵隊さんが戦地での恐怖を語り、
内地で空襲を受けた人たちもまたその恐怖を語る。
そして、戦争という恐怖からは解放されましたが、
欠乏が社会全体を覆っている・・・そんな時代。

「大正篇」を読んだとき、大正期の文学の多種多様ぶりが面白いと書きました。
「昭和篇1」では、社会の不条理を描く作品や、プロレタリア文学の勃興と
弾圧による転向など、同時代の共通性が目立つと書きました。
そしてこの「昭和篇2」は大正期とは真逆で、
何を書いても戦争の記憶と占領下での現実に収斂していきます。
「大正篇」では私小説作家のダメ人間ぶり(笑)が目立つ作品も多かったですが、
「昭和篇2」ではダメ人間がダメ人間でいる余裕はなく、
誰しもが恐怖と欠乏向き合わなければいけない現実がある・・・
総じてそんな印象を受けました。


以下、計13作品の個人的覚え書き。
まずは前半の6作品です。


・墓地の春/中里恒子 (1946)
1920年に生まれ1940年に死んだ、マリアンヌという名の
イギリス人と日本人のハーフの女性。
彼女のお墓参りをする主人公の、マリアンヌに対する思い出と、
墓地に対する関心をまとめた話。
1920年~1940年というと、ちょうど第1次大戦と第2次大戦の間、
戦間期に相当します。
マリアンヌはハーフゆえ、時局が切迫するに従って日本では
生きにくくなって行く事実が回想されます。
そんな彼女が埋葬されたお墓は外人墓地。
日本人とは異なる場所に埋葬された彼女ですが、その外人墓地の中でも、
ユダヤ人のお墓はまた一層さびれた場所にかたまっているという事実が
描写されます。
お供えの花を盗むポーランド人の挿話も印象的です。


・焼跡のイエス/石川淳 (1946)
自分は石川淳は過去何作か読んだことがありますが、すごく好きな作家です。
何が好きかというと、とにかく文章・文体が好きです。
ひらがなを多用した大和言葉的な響きがよいですし、
何と言うか独特のリズムがある文章で、読んでいてものすごく心地がよいです。
石川淳は物語の中身より文章・・・というのは言いすぎでしょうか。

この物語もとにかく文章が楽しい作品ですが、一応お話について書くと・・・。
物語は1946年7月31日、上野の闇市でのお話。
見るからに身なりの悪い少年が、おむすびを屋さんのおむすびを食べたあと
女の子を押し倒し、語り手である主人公はその騒動に巻き込まれます。
その無言の小汚い少年の中に、主人公はイエス・キリストの面影を見ます。
その後、主人公はその少年に付け回され、組み伏された後、
パンと財布を盗まれます。
翌日、主人公はもう一度上野へ向かいますが、8月1日、GHQのお触れにより、
闇市は撤去されてもぬけの殻・・・。
この物語、なぜ少年がキリストなのか、理論的にはよく理解できませんが、
「俗なるものの中に聖性を見る」という感覚は、なんとなく理解できます。
欠乏から立ち上がる生命力が印象的な作品です。


・夏の花/原民喜 (1947)
広島の原爆体験の話です。
この話、中学生のときの教科書に載っていたような記憶もありますが、
中身はなぜか全く記憶から抜けていました。
描写がかなり強烈なので、脳が意図的に記憶を隔離したのでしょうか・・・?
この作品は、8月6日の状態を、作者自身の経験や知人の聞き取りなどを元に
まとめられたと思われる作品です。
8月の朝、突然の光る閃光、爆風。
主人公はたまたまトイレにいたため爆風の影響を免れ、
火傷にならずに済みます。
倒壊する建物、街の惨状、やがてやってくる黒い雨、
かと思うと一転してまた灼熱の陽光。
街に出た主人公が目撃したものは、見るも無残な火傷の人々、
夥しく重なる死体の山・・・。
生き残った人も、満足な治療を受けられず、日が経つにつれやけどが重篤化し、
体が腐って蛆が湧き、死んでいく・・・。
やがて現れる放射線障害、頭髪が抜け落ち、鼻血を出して死んでいく人たち。
感情を排した事実の描写、重い現実描写が続きます。
どんな物語も、感情描写も、恐怖の現実描写には勝てません。


・桜の森の満開の下/坂口安吾 (1947)
一転して平安時代、もしくは中世と思われる物語。
山に住む山賊と、都に住む女の子のお話。
山賊はある女の子を山にさらってきますが、さらわれた後女の子は豹変します。
女の子は山賊の妾の殺害を命じ、さらに都へ引っ越し、人間の首を求めます。
山賊は女の子の喜ぶ顔見たさに、夜な夜な殺人を繰り返し、
女の子に殺したての人間の首を与えます。
女の子は首と戯れます。やがて首の肉は腐り剥がれ落ち、骨が露出します。
そんな首が部屋の中に無数に集積する・・・。
この首の描写が、先の原民喜の原爆による火傷で腐敗していく
人体の描写を思い出させます。
やがて山賊は首狩りのくらしがイヤになり、山に帰ろうとします。
女の子を背負ってちょうど鈴鹿峠の満開の桜の下を通り抜ける際、
得も言われぬ気持ちになり、よく見ると女の子は鬼の姿・・・。
山賊はそのまま女の子を殺害し、おしまい。
桜の下で見たものは女の子の正体か、
はたまた山賊が物狂いに取りつかれたのか・・・。
一見現在とは関係ないお話ですが、命じられるままに人を殺害する様子や、
凄惨な死体の描写など、戦時の恐怖感情が影を落としているような
印象を受ける作品。


・顔の中の赤い月/野間宏 (1947)
戦地から帰って来た主人公と、夫を戦争でなくした未亡人の女の子。
二人は惹かれあうが結ばれない・・・そんなお話。
主人公はかつて、たいして好きでもない女の子と仲良くなりますが、
その女の子はほどなく亡くなります。
やがて戦地へ送られる主人公。
過酷な戦地で思い出すのは、母の顔とかつての恋人の顔・・・。
そして主人公は戦場で仲間を見捨てる経験をします。
戦後、主人公は夫を戦争でなくした未亡人と出会い、お互い惹かれあいます。
ある日の夜、2人は転機を迎えますが、主人公は未亡人の顔の中の斑点に、
かつての南方での赤い月を見出し、戦場で仲間を見捨てたのと同様、
自分が生きるために、未亡人を拒絶してしまいます。

人は一人では生きて行けません。他者との関係性の中で人は生きるしかない。
主人公は、他者(母、そしてたいして好きでもなかった昔の恋人)の思い出に
支えられて、戦地を生き抜くことができました。
しかし、恐怖と欠乏の中では、生きるためには他者を
かなぐり捨てる必要に迫られることもあります。
それが戦地で仲間を見捨てた経験、そして、
現在の未亡人に対する踏み込めない主人公の心境も同じ。
自分の生活を大切にするあまり、近しい人と決定的な関係に陥ることを、
最後の最後どこかで拒絶してしまう・・・。
理解できます。何やら感慨深く、あれこれ考えてしまいます。
この物語、とても気に入りました。


・蜆/梅崎春生 (1947)
飲み屋で出会ったある男に外套をもらい、その後同じ男にまた
外套を盗まれるという奇妙な経験をする主人公。
そして後日、主人公はその外套の男に再び出会い、
彼の闇屋にになった経緯を聞くことになります。
この経緯がなかなか壮絶です。
電車から落下した人間、それを笑って済ます乗客たち、
そして落下した人間の鞄を持ち帰り、中身を売りさばく男・・・。
その鞄の中に入っていた「プチプチと鳴く蜆」が印象的です。

この物語で個人的に印象的なのは以下のセリフです。
「日本人の幸福の総量は極限されてんだ。
一人が幸福になれば、その量だけ誰かが不幸になっているのだ。」
外套の男は、このような考え方から、闇屋になる決意をし、
電車から落ちた人の鞄を売りさばきます。
欠乏から逃れるため、生きるために悪人になる瞬間。
上記の野間宏よりも、ずっと生々しいエゴイズムの肯定。
この作品から漂うのは、深いニヒリズム・・・。

後味の悪い作品で、これに共感できる現代人はおそらく少ないと思います。
欠乏・極限状況に陥れば、人間の持つ素朴な共感能力は消えてなくなります。
人がエゴイズムに走るのは、貧しさや社会の歪みのせいです。
個人のエゴイズムやニヒリズム、そして社会の中の特定の悪人を
糾弾しても始まらない。
人を欠乏や極限状況に追い込む社会が、やはり良くないのだと思います。
個人がエゴイズムに陥るのは仕方がない、しかしこの「仕方がない」を
乗り越える手段は、「幸福の総量の極限」を増す、もしくは偏りをなくすような
社会設計しかありません。
この作品を読みながら、そんなことを考えました。


ということで、どれも魅力的な作品ですが、
個人的に石川淳と野間宏がとくに気に入りました。

全体的に、生々しい世界がそのまま経ち現われてくるような
表象的なシンボルが作品にも現れてくるのが印象的です。
ユダヤ人墓地、闇市の少年、満開の桜、南方の赤い月、蜆・・・。
ある種の象徴主義というか、そういったものが
この時代の傾向としてあるのかな・・・そんなことを考えたりもしました。


次回は後半の7作品の覚え書きです。