日本近代短篇小説選 昭和篇1 (その2) | れぽれろのブログ

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岩波文庫の「日本近代短篇小説選 昭和篇1」。
頭痛+お薬のぼんやり頭で読み続けた作品たち、
計16作品中後半8作品の感想と覚え書きです。


・生物祭/伊藤整 (1932年)
春のお話です。
北国の遅い春の描写と、死にゆく父の描写が対比されるように重ねられます。
動物の活動、植物の繁茂、生殖、鶯の声、飛び交う花粉、若い看護婦の肢体、
・・・まさに春の祭典。
全くの偶然ですが、先日ストラヴィンスキーの「春の祭典」の曲のイメージから
動植物が蠢く春を連想するという記事を書きました。
この作品ではまさにそういう春が描写されています。
そしてこの作品は、こういう春に対し、あまり好意的でないような
叙述となっています。
作品の語り手が、おそらく死にゆく父に対し好意的ではない気持ちを
持っている故に、このような描写になっているように感じます。

・あにいもうと/室生犀星 (1934年)
兄と妹の愛憎入り混じる関係性を描写した作品。
妹を妊娠させた男(妹のかつての恋人)をボコボコにする兄。
その事実を知り、兄に食ってかかる妹。兄妹は大喧嘩。
兄妹愛の深さ故、瞬間的な憎しみも増幅する。
ガテン系肉体労働者の家族の濃密な関係性が描かれます。
解説によると、こういう階層を描いた日本近代文学は少ないのだそうです。
戦後文学でいうと、中上健次なんかに少し近いような気もします。
こういう濃厚な関係性を持つ家族、今日では少なくなっている気がします。

・いのちの初夜/北条民雄 (1936)
この作品集の中で最も強烈で、かつ最も感動的な作品と言っていいと思います。
インターネットでこの作品集を読まれた方の感想などを読んでいると、
この作品をNo.1に挙げている人が非常に多い。
自分もこの作品は、とくに気に入った4作品のうちのひとつです。
北条民雄、まったく名前を聞いたことのない作家さんですが、びっくりしました。
この作品のテーマはハンセン病、当時は不治の病です。
感染後、菌が体内を侵し、外観が醜く崩れていく病気。
皮膚はただれ、四肢は崩れ、顔は二目と見られない容姿になり、
視力は衰え、全く動けない体になりながら、それでも死ぬことができない、
そんな病気です。
主人公はハンセン病を宣告された男。
当時の法令により隔離病院に入院させられることになります。
主人公は自殺を考えます。
海への投身や首吊りを試みますが、実行できず、結局隔離病院にやってきます。
病院内には、強烈な肢体を持ち、苦しみ続ける患者たち・・・。
壮絶としか言いようのない描写が続きます。
自分もこうなるのか・・・と考え、絶望的な気持ちになる主人公。
そんなときにある患者と対話により、社会的人間としては死ぬことになるが、
新しい人間として生まれ変わり、変わり果てた姿になりながらも、それでも
別の形で生命は続くのだという気付きを得ます。
最後に主人公は生き続ける覚悟を得るのですが、
それまでプロセスが素晴らしいです。
作者の北条民雄という名前は偽名で、本名は分らないのだそうです。
当時ハンセン病患者は名前を変えて生きることが多かったのだとか。
文章は他の作品に比べてずっと読みやすいです。
しかし、衝撃的で感動的、すごい作品です。

・築地河岸/宮本百合子 (1937)
この方もプロレタリア作家のようですが、
この作品は純粋なプロレタリア文学ではないようです。
左翼活動家の妻が主人公、夫は獄中、一人で出版業界であくせく働く主人公。
彼女の元に義父が引っ越してくるだとか、そういう日常的なゴタゴタに
翻弄される主人公が描写されます。
1937年なので既に共産主義者の一斉転向は終わっており、
時は既に日中戦争の時代、街には千人針、
昭和史を見ていると、1937年あたりから本格的に社会が、人々が、
様変わりしていくような気がします。

・虚実/高見順 (1936)
面白かった作品BEST4のうちの1作です。
作者の高見順は元々は(またしても)左翼活動をしていた人で、その後転向。
これは転向後の文学とういうことになります。
お話の主人公は作家。先妻とは別れ、現在は新しい妻と再婚。
別れた先妻も別の男と再婚している。
お金を巡るゴタゴタを軸に、先妻とその新しい夫のどちらが誠実で
どちらが不誠実か、主人公の印象が揺れ動き、その心理のゆらぎを描くのが
主要なプロット。
しかし話はあちこちに飛び、時間軸が前後し、先妻が死産した子供を
火葬場に運ぶ話や、かつての社会主義活動の同士の話が挟まります。
主人公は先妻をモデルに小説を書いており、その小説内で作り上げた
先妻のイメージが現実の先妻に投影され、先妻に対する印象が捻じ曲げられ、
ラストはちょっと衝撃的な結末になります。
この作品、プロットが面白いのですが、面白さはそれだけに非ず。
文章の語り口がいい感じです。時間軸の混ぜ方も良い。
そして、ある種の諧謔性があり、これがまた良い。
先妻の子供が死産したとき、その死体をみかん箱に入れて、
人目を恐れながら電車に乗る。
(ブラックですが、"みかん箱"というのがなんとなく笑えます。)
火葬場についた後、役所への届けがないと火葬できないと分ると、
死体をそのへんの椅子に置いたまま(笑)役所へ向かう。
火葬場で名前を聞かれ自分の名前を答える、
しかし聞かれたのは実は死んだ赤ん坊の名前で、結果赤ん坊の骨壷に
父親である自分の名前が刻まれた状態で、骨壷を渡される。
これなんか完全にギャグです(笑)。
といいうことで、高見順、面白いです。
高見順は詩人のイメージがありましたが、他の小説も読んでみたくなりました。

・家霊/岡本かの子 (1939)
作者は、漫画家岡本一平の妻で、現代美術家岡本太郎の母です。
夫の放蕩に悩まされる女、そんな家系に生まれた主人公の女の子。
数年の間、家を出て遊んだ後、料理屋「いのち」で店番をしながら家系を想う。
彫金師のサブストーリーがいいです。
ドジョウ食べたさに毎晩のようにやってくる彫金師の老人。
大げさな身振りで彫金の極意を語り、またある日は情に訴えて、
いつもお金を払わずにドジョウを持って帰る。
このお爺ちゃんが可愛らしくていいですね。

・待つ/太宰治 (1942年)
気に行った4作品、最後の1作がこれです。
二十歳の娘が駅のホームで何かを待つ。そんな彼女の短い独白。
彼女は何を待っているのか。
彼女にも分らない。
彼女は何を期待しているのか。
社会への貢献か、淫らな欲望か、幸福か、はたまた死か。
彼女にも分らない。
分からないが待つ。何かを待つ若者の期待と不安。
時は1942年、日米は既に戦闘状態。
戦闘の結果を待ち続ける内地の国民の気持ちも、
こういった心理だったのでしょうか。
事後的に1945年を知っているだけに何やら切ない。
わずか4ページの短い作品です。
1文、センテンスも、後半になるに従ってどんどん短くなっていきます。
横光利一とは真逆の小説です。

ところで自分は待つことが好きです。
鳴くまで待とうホトトギス、のタイプです。
根がのんびり屋さんなので、結果を早急に知りたいとか、
思い立ったらすぐ行動とか、そういう感覚からは少し遠い。
何かをやろうと思ってから実行に移すまで、
平気で1年とか2年とかかかります(笑)。
なんというか、時期が来るのを待っている感じなんですね。
待つことが楽しければ、死ぬまで待ち続けて、待ち続けたまま一生を終えても、
それもまたいいな、なんて考えたりします。
その代わり、待ち続けたあと、いざ「時期が来た!」と思ったときの瞬発力というか、
即断即決でのスピードであったり、問題解決の能力なんかは、
結構自分でもびっくりするようなパワーが出たりすることもあります。
まあ、この小説とあまり関係ないことですが・・・。

・文字禍/中島敦 (1942年)
古代アッシリアにて、楔形文字を解析する老博士。
あるとき博士は石板に刻まれた文字を見続け、ゲシュタルト崩壊に陥り、
それを"文字の精"の害と考えるようになります。
文字を持つようになってから人間は変わり、身体に様々な変化を生じ、
世界を世界として感じることができなくなった・・・。
"文字の精"に毒された人間たち。
歴史文献主義への批判のような、エクリチュール批判のような、
そんな見解が続きます。
何だかある種の現代思想みたいです。おもしろい。
我々は文字を用いてコミュニケーションをしています。
仕事でもプライベートでも、日々メールや文書で文字に頼ってます。
しかし、文字ですべてを伝えることは不可能。
コミュニケーションは文字だけでも言葉だけでもない、
相手の表情や雰囲気や佇まいなどから感じ取られる部分も多いですね。
しかし現代に生きる我々は文章に頼らざるを得ないことも事実。
そんなことをあれこれと考えてしまう作品です。


ということで、横光利一、北条民雄、高見順、太宰治は、
他の作品もいろいろと読んでみたくなりました。

日本近代短篇小説選、次は"昭和篇2"です。
敗戦、占領、東京裁判、
米国ニューディーラーの理想を投影した民主国家の成立、
一転冷戦体制の深刻化に伴う米国占領統治方針の変更と逆コース、
そんな中、日本文学はどうなるのか、楽しみです。

また次に読み出すまで平気で2ヶ月とかかかりそうですが・・・笑。

とりあえず、機が熟すのをのんびりと"待つ"。