日本近代短篇小説選 昭和篇1 (その1) | れぽれろのブログ

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美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

6日の土曜日、この日は出かける予定があったのですが
朝から雨が降っていています。
しかも暴風を伴う大荒れの天気になるのだとか。
おまけに朝から強烈に頭が痛い・・・。(雨が降るとよく頭痛が起こるのです。)
ということで予定をキャンセルし、家で過ごすことにしました。
いつもの如くバファリン君をドーピングし、安静に。

以前も書きましたが、岩波文庫から出ている「日本近代短篇小説選」のシリーズが
面白く、年明けから"昭和篇3"と"大正篇"を読みました。
過去のブログによると前回の"大正篇"を読んだのが2月初め、
記事には次の"昭和篇1"が楽しみだとか書いています。
実は"昭和篇1"も"昭和篇2"も既に買ってあるのですが、
2ヶ月間読まずにほったらかし。相変わらずののんびりぶり。
この日は家にいることに決めたので、おクスリの作用したぼんやりとした頭で
"昭和篇1"を読み始めたのですが、これがかなり面白い。
あまりに面白いので、全16作品、一気に読んでしまいました。
前の"大正篇"は様々な種類の作品の百花繚乱ぶりが
非常に面白かったのですが、"昭和篇1"は多様性よりも、
ある種の時代性・共通性が見られる部分を面白く感じました。

ということで、また感想や覚書などを残しておきます。


前置きを2つほど。

ひとつめ。
1910年代後半~1930年代前半は西洋史でいういわゆる「戦間期」にあたる時期。
第一次世界大戦で悲惨な戦闘を経験した西洋諸国、それまでの19世紀的な
理性・倫理に基づいた近代的主体に疑義が生じます。
自分は美術史が好きなのですが、美術においてもこのような時代を反映してか、
シュルレアリスムやダダイズムのような、偶然の作用が強く、
人間の理性のコントロールを超えるような芸術が生まれます。
これらの美術作品は非常に面白いものですが、作家が自らの
意思・感情・主張に基づいて作品を制作するという、それまで当然であった
前提が急速に崩れたため、これらの前提を当然と思う人たちにとって、
美術は"分からない"ものになっていきます。
今回、戦前昭和の日本の文芸作品を読みましたが、人間の意志の不安定さ、
よく分らなさが全面に押し出された作品もあり、
西洋美術作品との同時代性が感じられます。
これらは"よく分らない作品"といえるのかもしれませんが、
自分はたいへん面白く読みました。


もうひとつ。
日本の時代背景。
"昭和篇1"はいわゆる戦前昭和に当たる時期、
1927年~1942年の作品が収録されています。
この時期の歴史のおさらい。
 1923年 関東大震災
 1925年 治安維持法成立
 1928年 三一五事件(共産主義者の初の一斉検挙)
 1931年 満州事変
 1933年 小林多喜二の死、共産党主要幹部の転向
 1936年 二二六事件
 1937年 日中戦争
 1941年 日米開戦
 1945年 終戦

関東大震災により、帝都は崩壊します。
その後、治安維持法の成立と共産主義者の一斉検挙。
小林多喜二は殺され、共産主義者の多くは獄中で転向します。
要人暗殺、右翼テロ、陸軍内部の覇権争い。
やがて起こる日中戦争と日米戦争。
陸軍の暴走、マスメディアの扇動による大衆の高揚、
上層部の脆弱な意思決定が重なり、ダラダラと引き返せないまま
戦争が拡大して行きます。

関東大震災には何の必然性も合理性も無い、
しかしこの非合理を引き受けなければならない。
その後の思想弾圧・テロ・戦争・・・非合理に翻弄される社会。
昭和期の文学は、非合理をどう引き受けていくかという、
退廃とは一言で言えない、深刻な問題が孕んでいるようにも思います。
そんなことを考えながら読み進めました。


またダラダラした前置きが長くなってしまいましたが・・・


すべての作品が初見でした。
井伏鱒二、堀辰雄、梶井基次郎、太宰治、中島敦は少し読んだことがありますが、
他の方の作品は初めて。

以下、まずは前半8作品の覚え書きです。
例によって作品と関係ないことも書きます。

・施療室にて/平林たい子 (1927年)
いわゆるプロレタリア文学。いきなり衝撃的なお話です。
左翼活動の取り締まりにより、中国大陸で獄中生活を送る女性。
妊娠しているうえ脚気を患たっため、
キリスト教系慈善病院の施療室に移されます。
日常的に人が死に満足な医療行為も受けられない慈善病院。
慈善活動のため医療も適当、
患者の命より高額な医薬品の管理を優先するあり様。
人が死んだまま当たり前にように数日間放置される。
主人公の女性は脚気を患ったまま劣悪な環境で出産しますが、
生まれた子供は栄養不良ですぐに亡くなります。
左翼活動のリアリティは今一つ分かりにくいですが、
当時の病院のリアリティはこういうものであったのだという気がします。
"大正篇"の葉山嘉樹の「淫売婦」も陰惨極まる描写でした。
こういうある種の残酷な現実の描写は、プロレタリア文学の特徴なんでしょうか。

・鯉/井伏鱒二 (1928年)
若くして亡くなった友人。
その友人からから過去に預かった鯉を大学のプールに放ち、
悠々と泳ぐ鯉と死んだ友人を重ね合わせるお話。
この作品は人の死を扱ってますがなんとんなくユーモラス。
この"昭和篇1"、結構衝撃的な小説が多いのですが、
この作品は中でも一番のんびりした雰囲気の作品になってます。

・キャラメル工場から/佐多稲子 (1928年)
またしてもプロレタリア文学です。
今度は女工、キャラメル工場で働く13歳の女の子のお話。
甲斐性のない父、家計のため仕方なく工場で働く女の子。
不器用なのか、がんばっても生産量が稼げない。
それでも一生懸命頑張る、けなげさがいじらしい感じ。
やがて日給制が歩合制になり、生産量の少ない労働者は給与が下がります。
割に合わないと判断した父によりキャラメル工場はやめさせられ、
家族と離れラーメン屋さんに奉公に出され、女の子が涙するシーンで終わります。
「施療室にて」の衝撃性と残酷性に比べて、
こちらは比較的オーソドックスな「かわいそうな女の子」。
文学としての訴える力はどちらが強いんだろう・・・、なんて考えてしまいます。
この時代の工場は延々続く単純労働(フォーディズム型)。
現在は単純労働は機械化され、あるいは国外の工場に移管され、
労働者はより複雑で神経を擦り減らす労働(ポスト・フォーディズム型)を
強いられます。
さらにコミュニティの繋がり・商店の自治を背景にした"奉公"という選択も
現在ではほぼなくなっており、多くの人が完全に企業に
依存せざるを得なくなっています。
この作品では昭和初期の辛い労働現場が描写されますが、
この時代と現代とどちらがより過酷であるかは一概には言えないと思います。

・死の素描/堀辰雄 (1930年)
結核で入院し、危なっかしい看護婦の元で危険な目に遭い、
肋骨の摘出手術を受ける・・・。
これだけ書くと病気の苦しみを描いた小説に見えますが、
この作品、非常に幻想的かつオシャレな描写になってます。
生と死の間をフラフラと彷徨う浮遊感覚。危険な看護婦は天使に例えられます。
シュルレアリスム的といっても良いかもしれません。
恋の描写もあります。
恋や天使云々の描写は、現代人の感覚からするとロマンチックすぎて
ちょっと笑ってしまいますが、それもまたいい感じです(笑)。
ショパンのノクターンが登場し、音楽が真っ赤な小鳥に例えられています。
ノクターン何番のことなのか、ショパン好きとしては気になったりします。

・機械/横光利一 (1930年)
この作品集、全16作品中とくに気に入った作品が4作品あるのですが、
そのうちの1つがこの作品です。
ネームプレート製造所で働く私の心理描写が延々続きます。
面白いのがこの作品の文体。
改行がほとんどなく、読点がほとんどありません。
いわゆる饒舌体というのでしょうか?
自分は筒井康隆が好きだったのですが、
70年代以降の筒井さんのある種の作品の文体にそっくりです。
(そういえば虚航船団の出だしの1文も、この作品の出だしに少し似ています。)
心理がどんどん移り変わっていくのが面白く、
しかしその心理変化の理由は語り手にもよく分らない。
結構こういう文体は好きで、一見読みにくそうですが意外と読みやすく、
言語に脳が侵されていくような感覚が快楽的です。
暴力描写が続くシーンもあるのですが(これも筒井康隆っぽい気もする)、
今起こっている暴力がどういう心理に起因しているのか
よく分らないままヒートアップしていくのも面白いです。
横光利一は名前しか知らなかった作家ですが、
他の作品も読んでみたくなりました。
映像化不可能、映像化したら面白くなくなる類の作品だと思います。
こういう作品を読むと、やはり小説は面白い、と思ってしまいます。

・闇の絵巻/梶井基次郎 (1930年)
檸檬で有名な例の人です。
夜の闇を描写した短い文章。
都会の明るい夜に対し、田舎の暗い闇が肯定的に描写されます。
闇は人間の心を象徴的に現わしたものと思われます。
自分は大学生のとき、家庭教師の仕事をしており、
物凄い田舎の夜の山道を2キロほどあるいて教えにいっていたことがありました。
初めのうちは暗い山道がイヤだったのですが、慣れると意外と暗闇も
いいものであることに気付いたとういう経験があります。
暗いなりにも一応所々に街灯がありましたが、あるとき停電が起こり、
本当に真っ暗になりました。
このときは恐怖感とともに、何だかよく分らない安堵感を覚えたことも
記憶しています。
そして少しずつ目が冴えてくると、月の光が意外と明くて、
びっくりしたことも覚えています。

・ゼーロン/牧野信一 (1931年)
東京から田舎の村まで、ブロンズ像を抱えて運ぶ旅路が描かれます。
途中までは電車ですが、途中からなぜか馬に乗っていきます。
日本近代の関東地方の旅なのですが、中世ヨーロッパの旅のような
描写が続き、
折に触れて古代や中世の文学・歴史上の人物が引用されます。
現実と虚構が入り混じる。
日本の田舎を西洋の騎士が滑走しているような光景が浮かびます。
シュルレアリスム絵画のような、何とも不思議な作品。

・母たち/小林多喜二 (1931年)
プロレタリア文学その3。
プロレタリアといえばこの人、小林多喜二です。
治安維持法以降の、左翼活動家の一斉検挙の様子と、
その母たちを描いた作品です。
田舎の家にやってくる警察と母の対応。
拷問で頭がおかしくなった活動家とその母。
裁判の様子、転向する者・しない者、それぞれの母。
改めて思ったのが、昭和初期の左翼活動の広範さです。
描写されているのは東北地方と思われる田舎ですが、
こんな田舎にまで組織的な左翼活動がある。
当時の為政者たちが治安維持法の制定を急いだ理由がよく分ります。
左翼活動というと自分の中では都市の労働者のイメージがあるので、
日本の地方と左翼活動という組み合わせが何やら眩暈的です。
「ゼーロン」の次に読んだせいか、何だかシュールに見えて来ます。

さて、この本の解説によると、昭和文学は芥川龍之介の死から
始まるのだそうです。
芥川龍之介の自殺が1927年。昭和2年。
この時代の多くの作家が芥川の影響下にあったのだそうで、
その自殺は相当な衝撃だったようです。
プロレタリアの作家たちは芥川に対しては「プチブル的」ということで
冷淡だったようですが、少し思い出したのが芥川龍之介の「玄鶴山房」。
日本的なドロドロした家族共同体のやるせない陰鬱さを描いた作品なのですが、
この作品のラスト、この家族のお葬式のシーンで、
別の大学生がリープクネヒト(共産主義活動家)の本を読んでいる。
日本のドロドロコミュニティに嫌気がさした芥川は共産主義に希望を見出したのか
あるいは共産主義に傾く都市の若者を冷笑的に取り上げているだけなのか。
その後、小林多喜二は国家により殺され、共産主義者は獄中で大量転向します。
日本政府はかなり巧妙に、戦略的に弾圧したように見えます。
昭和初期、芥川の描くドロドロ日本共同体、その地方の田舎にまで
広がりを見せていた左翼思想。
もし国家による弾圧がなければ、共産主義革命が起こっていたんだろうか・・・。
我々は共産主義国家が結局うまく機能せず、多くの悲劇を生んだ
その後の歴史を知っています。
ある行為が良かったのか/悪かったのかについての
政治判断・歴史判断は難しい。
そんなことを考えたりもしました。


ということで、戦前昭和は面白い・・・。
後半に続きます。