ところで、マザー・テレサの生年月日については、8月26日を採用していますが、8月27日としているデータもインターネット上では見つけられます。
どちらかといえば26のほうが信頼性が高いように感じましたが、この裏付けは取れていません。
かりに27日としても、夜明けの瞬間ならまだサビアンシンボルが「守護天使」に留まりますし、次の「黒人と白人の子供たちが幸せそうに一緒に遊んでいる」のシンボルも、彼女の人生を語る上で有効であることは、前記事の通りです。
しかし、「守護天使」のほうが彼女には似つかわしいのと、解読が進むにつれ、「やはり26なのでは?」と思う点も出てまいりましたので、26という前提で進めたいと思います。
では、その後の彼女の人生を、ざっとですが追っていきましょう。
1919年 9才のとき、父が死亡。
※12才のころには、すでにインドへ行き、貧しい人達のために働きたいという願いを抱いていた。
1928年 故郷スコピエを去り、アイルランド系の修道会・ロレト修道女会に入り、インドへ向かう。
1929年 修道名テレサとなる。ダージリンで修練を始める。
1929年~47年 カルカッタの聖マリア学院で地理を教え、44年には校長に任命される。
1946年9月10日 移動中の汽車の車中で「最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受ける(本人の弁)。
1948年 教皇ピウス12世から修道院外居住の特別許可が得られ、修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入り、学校に行けない子供たちのために街頭で無料授業を行い始める。
1950年 「神の愛の宣教者会」設立の許可を受ける。「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことを目的とする会。テレサはリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる。
※1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動は全インドに及ぶようになる。65年以降は教皇の許可によってインド国外でも活動が可能になり、世界55カ国に211の修道院が開設され、会員は2000人を越える。修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになる。
1952年 「死を待つ人の家」開設(ヒンズー語で「清い心の家」というのが正式名称だが、ヨーロッパのジャーナリストが「死を待つ人の家」と呼び始めて一般化した)。
1953年 「神の愛の宣教者会」で終生誓願。
1955年 最初の「孤児の家」を開設。
1959年 ハンセン病診療所を開設する。「平和の村」と呼ばれている。
1960年 アメリカ、イギリス、イタリアなどを訪問する。ローマでは30年ぶりに兄と再会する。
1964年 ローマ教皇パウロ6世がインド訪問の際、謁見する。教皇から贈られた車を彼女は売却し、貧しい人への奉仕にあてた。
1965年 「神の愛の宣教者会」が教皇認可を受ける。ベネズエラにセンター開設。
1967年 セイロンのコロンボに修道院開設。
1968年 タンザニアのタボラに修道院開設。ローマのスラム街に修道院開設。
1969年 オーストラリアのバークに原住民のためのセンター開設。
1969年 マザー・テレサ共労者会が設立され、教皇の認可を得る。
1970年 メルボルン、アンマンなどを訪れる。 またロンドンにおいて、欧米での志願者を養成するため修練院を開設。
1971年 「教皇ヨハネ23世平和章」の最初の受章者となる。同年、ケネディー賞も受ける。
1975年 シュバイツァー国際賞受賞。
1976年 シンガポールでのアジア宗教者平和会議に出席。
1979年12月10日 ノーベル平和賞受賞。
1981年 初めて訪日。 東京に修道院を開設。
1982年 イスラエルとパレスティナにかけあい、武力衝突を一時休止させ、身動きの取れなかったベイルートの病院の患者たちを救出する。
1983年 ヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマで心臓発作に見舞われる。
1985年 アメリカ合衆国大統領自由勲章受賞。
1990年9月 心臓病で入院。再起を危ぶまれるが、回復し10月には退院する。翌年、ペースメーカーを埋め込む手術を受ける。
1991年 3月、ティラナでの活動開始のため、アルバニア訪問。 5月、バングラディッシュのサイクロン被災者の緊急援助に当たる。12月、メキシコを訪問中、肺炎にかかり、一時危篤に陥る。アメリカ、カルフォルニア州の病院に入院。手術を受ける。
1992年1月15日 病院を退院。
1992年 アルバニア政府、マザー・テレサにアルバニア市民権を授与。
1992年 ニューヨークで、コロンブス騎士会のガウデイム・エト・スペス賞受賞。
1994年 アメリカ上院議会金賞受賞。
1996年 アメリカ合衆国名誉市民権を与えられる。
1997年 4月、転倒し、首の骨にひびが入る。8月、マラリアに罹患。
1997年9月5日 87年の生涯を終える。
人生の後半期に入ると、マザー・テレサはにわかに多くの栄誉が世界中から贈られていますが、彼女自身が名声欲や金銭欲とはまったく無縁の人間であったことは、よく知られています。
ノーベル賞受賞時の、ノルウェーのオスロでの記念講演で、彼女は、
「私はノーベル平和賞にふさわしい者ではありません。けれど世界中の貧しい人々に代わって、この名誉ある賞をいただきます。私のための受賞晩餐会はいりません。どうぞ、そのお金を貧しい人々のためにお使い下さい。」
と、あの有名なスピーチを行ったのです。そしてその記念スピーチ賞金の19万ドルは、饑餓に苦しむ人々の食料や、社会から見放されたような孤独な人々のホームの建設資金に当てられました。
さて、彼女の足跡を追いながら、チャートの解読を行ってみましょう。
今日はそのさわりの部分だけですが。
まず9才のころに父が亡くなっています。
私の想定した、夜明け後間もない時間帯という出生時間で見たとき、彼女のネイタル(出生)チャートの中で、10ハウス(父親の意味がある)に冥王星が位置します。これが水星とシビアなスクエアを形成しています。
これが父親の死に関わる星位ではなかったかと推察されます。
というのは、冥王星がまず「死」や「暗殺」「テロ」に関わる星で、暗殺されたという噂もある父親の死の影としてはもっともふさわしいということが第一。第二の根拠としては、その水星と冥王星のスクエアは、彼女の生後、かなりの期間、持続して存在していた他、9才になったころ、トランシットの冥王星がプログレッションの冥王星と重なるなど、二重の効果を発揮する時期があり、このころに水星がもっとも被害を受けたと考えられるからです。
同時期には、ほかにトランシットの土星が太陽と合となる配置も確認でき、父親の死は幼かった彼女に大きな試練、精神的な衝撃を与えたことを物語っているようです。
そして、さらに重要な情報が、12才のころには彼女はすでに自分の将来を思い定めていた、「貧しい人のために尽くしたい」と願っていたというものです。
現代的感覚では、「ほんとかぁ」というような感じですが、今の生ぬるい日本人の12才ごろの話ではありません。時代も、生活環境も、まったく異なっています。
そして、チャートはそれをなんと、裏付けているのです。
そのころ、彼女の太陽は乙女座の13度付近へ進んでいて、これは私が想定した出生時間で算出された月と幸運のトラインを形成しています。
太陽と月のトラインは、「人生のパートナーとの出逢い、ライフワークとの出逢い」などをもたらすことがあります。この配置で結婚する人もいれば、一生涯を捧げるような仕事を始める人もいるのです。
このときの太陽のサビアンシンボルは「貴族的な家系図」、次の14度は「勇敢な祖先から受け継いだ、家宝である見事なレースのハンカチ」といったもので、これらのサビアンは自分の帰属する社会的な伝統、血統的な伝統などの中で、自分を発現させようというものですから、彼女は自己の存在を伝統的なキリスト教精神の中に反映させようとするのです。
それも、古の伝道者たち、苦難の道を歩いた先人たちのように。
