『能登はやさしや、土までも』
 岸田総理が施政方針で述べられたように、昔から石川には「能登はやさしや、土までも」という言葉があります。総理が「外にやさしく、内に強靱」と表現されたごとく、純朴で我慢強く、互いに支え合って生きていた能登の人々の優しい気持ちは、その土にまで深く染み込んでいるという意味でしょう。
 しかし、一説には「やさしや」は「やせしや」、つまり痩せているという意味ではないかとも言われております。日本海に突き出した能登半島の厳しい地理的条件、自然条件の中で過疎化が進み、高齢化率も半島先端の珠洲市では50%を超えております。
 敢えて申せば、能登は地震前から厳しい土地柄でありました。みなさま、能登はもちろん石川県にあります。しかし、石川県にだけあるのではありません。全国の半島、離島、そして人口減少や高齢化に悩む地域はすべて"能登"と呼ぶことができると私は思います。
 今回の地震は全国のいたるところの厳しい環境にある過疎地域の共通した大きな不安を投げかけております。人々は故郷に戻り、住み続けることができるかの瀬戸際にいます。自治体も存続の危機に立たされております。
 能登の人々には将来の希望の光が必要です。まず、いかなる手段を用いても、被災地の復旧復興を成し遂げる、断固たる決意を岸田総理にお伺いいたします。


 今日の参議院本会議での代表質問で、石川県選出の岡田直樹幹事長代行はこう質問を始められました。被災地の人間としての言葉は胸に突き刺さるものがありました。
 党派を超えて被災地の復興に当たらなければいけません。


◆岡田議員の質問動画 






 自治大臣や自民党の政務調査会長、国会対策委員長などを務められた保利耕輔先生の葬儀が都内で行われました。
 岸田文雄内閣総理大臣や額賀福志郎衆議院議長、福田康夫元総理など300人もの方が参列されました。
 葬儀が始まる前に車椅子で駆け付けられた森喜朗元総理は「青木(幹雄)さんにも保利さんにも先に逝かれてしまった」と別れを惜しまれていました。
 麻生太郎副総裁などの弔辞から、保利先生のありし日の姿が思い出されました。


麻生副総裁の弔辞:
 保利先生は私の選挙区福岡県の隣、佐賀県唐津を地盤とされていて、昭和54年の当選同期でもありました。
 初当選間もない頃、先生や私、佐藤信二先生など、親や爺さんが総理大臣や議長といった役職を務めた議員の当選祝いを藤波孝生先生にしていただいたことがありましたが、それがご縁でお付き合いが始まったと記憶をしております。
 先生と私は実業界の経営者から政界入りをした数少ない議員でした。口数の少ない保利先生でしたが、『日本精工フランス』の経営者をされていた頃の話を聞いた時は感心をしました。
 日本精工フランスが当時のEC(欧州共同体)委員会からダンピングの認定をされたところ、日本の本社は事が大きくならないうちに早く穏便に収めようと和解のための資金を送ってきたそうです。しかし、保利経営者は本社の方針に背いてそのお金を真逆の方向に使われます。EC委員会を相手取り欧州裁判所に対して、行政訴訟を起こされました。
 まずEC側交渉官の出身大学に行き、同期の法学部卒で彼らより成績の良かった弁護士を洗い出されておられます。そして、彼らを日本精工側の弁護士として雇い、裁判で争ったのであります。結果はなんと保利経営者側の勝利。
 「かっこええな、あんた。顔はえらいドメスティックな顔だけど、やってることはインターナショナルな人なんだな」と、えらく感心したもんであります。
 私が自民党総裁になりました時、政調会長の就任をお願いをさせていただきました。今度は「俺は細かい政策をいまさらやるつもりはないから、とにかく優秀な人を政調会長代理にしてくれることが条件」と交渉力を発揮されます。いろいろ考えた上、「園田博之代議士を充ててはどうか」と伺いましたところ、即了解の返事をいただいたことを今も鮮明に覚えているところです。
 そうした感じで不思議と波長が合ったのか、本当にありがたいことに随分と長い間ゴルフなど親しくさせていただきました。
 政策通でありながら決して理屈だけで動かされるのではなく、人間の情というものに通じた本当に懐深い政治家でありました。同期とはいえ、尊敬の念すら私は抱いておったところです。
 大変残念でしたのは郵政選挙の際に先生を引き留めることができなかったことです。忘れもしない平成17年の夏、私は総務大臣という立場で内閣におりました。政治信条を大事にされる保利先生のこと、信念を貫かれて反対をされるのではないかと心配しながら、何か良い着地点はないかと模索をし続けました。私にとっては大変苦しい毎日でありました。
 しかし、先生はその後も無所属での出馬をよぎなくされた郵政選挙で圧勝をされておられます。「さすが唐津に保利党あり」と思わせられる、堂々たる戦いぶりでした。
 先生、私もいずれそちらに伺います。その時には、大変甘いものがお好きな保利先生、地元唐津の松露饅頭でもお持ちをいたしますから、ぜひ昔話に付き合っていただければと思っておるところです。それまでどうか、保利先生の御霊の安らかならんことをお祈り申し上げます。



 文部大臣や自民党の政務調査会長などを務められた保利耕輔先生がご逝去されたと自民党本部が発表しました。亡くなられたのは11月4日午後でしたが、ご遺族の意向で13日の発表となりました。私もご遺族の思いに従い、公式な発言を控えていました。
 
 お父さまの保利茂元衆議院議長の急逝を受け、保利耕輔先生が衆議院議員となられたのは昭和54年10月のことです。私は昭和54年8月に佐賀県唐津市で生まれたので、物心ついた頃から地元の代議士と言えば保利耕輔先生でした。
 
 文部大臣に就任されたのは私が小学4年生の頃。「学校のルールは地元の先生がつくっているんだ」と幼心に誇らしく思ったことを覚えています。
 
 同じ大学・学部・学科に進み、政治記者として番記者を務めるというご縁をいただきました。筋を通す、真面目な人柄を側で見てきました。

 2009年の衆院選で自民党が野に下った時、自民党に与えられる唯一のポストの『衆議院副議長』を打診されましたが、「党三役として政権転落の責任がある私がなる訳にはいかない」と固辞されました。一方、小泉純一郎政権で引責辞任した農林水産大臣の後任の話を「教育基本法の改正に専念したい」と断ったことについては、「自分が断ったことで亀井善之くんが激務を受けることになり、彼の死期を早めてしまったのではないか」と後年になっても悔やまれていました。
 
 口の堅い、番記者泣かせの政治家でもありました。政局の話を聞くと「私は政局に関心がない」。政策の質問には「政策が決まる前に責任者の政調会長が喋る訳にはいかない」。周りを取り込む政治記者に対して、唐津くんちなどの地元の伝統文化や西九州自動車道など佐賀県の事業について語って煙に巻いていました。奇しくも、その一つ一つが私の財産になっています。
 
 私が32歳の時、保利先生の自宅で「新聞記者を辞めて参議院選挙の自民党公募に挑戦したい」と相談しました。「まだ若すぎるのではないか」。予想に反した答えに正直たじろぎました。いま思えば、国政に臨もうとする私の覚悟を見たかったのだと思います。

 私が候補者に決まると、「この保利が国政に初挑戦した時に『おぎゃあ』と生まれたのが山下くんだ。次の世代に私たちがバトンを繋いでいかないといけない」とお願いに回ってくださいました。

 1年あまりではありますが、保利先生と同じ時期に国会議員を務めることができたのは何にも代えがたい経験です。
 
 2014年11月20日。翌日に衆議院の解散を控えた夕刻、保利先生の議員会館の事務所を訪ね、「国会議員としての最後の書を私に書いてください」とお願いしました。翌日、衆議院が解散された後、色紙をいただきました。

『任重而道遠』

 長年にわたり国政に真摯に向き合って来られた保利先生に、国会議員の職責の重さ、そしてその道の険しさを教えていただきました。
 
 保利耕輔先生、これまで本当にありがとうございました。


 参議院の代表質問が行われ、自民党からは世耕弘成幹事長が登壇されました。 世耕幹事長は岸田文雄内閣総理大臣に対して「是は是、非は非」と参議院らしい質問をされました。
 同じ党だとしても国民の声を届けるのが国会議員の役割です。政権を支える立場であっても率直な意見を言っていくことが国家をより良き道に導くことになると思います。


【世耕幹事長の質問一部抜粋】
 
 支持率が向上しない最大の原因は、国民が期待するリーダーとしての姿が示せていないということに尽きるのではないでしょうか。
リーダーの役割とは何か。サラリーマン時代からずっと私は自分自身に問いかけ続けてきました。上司や先輩の言動を見つめ、過去の偉大な政治家や経営者が残した言葉から学び、そして自分自身の数多の失敗から教訓を得て、私なりのリーダー像を作り上げてきましたが、まだ道半ばです。
 いや、永遠に完全な答えを得ることはないでしょう。岸田総理ご自身は、リーダーとはどうあるべきとお考えでしょうか。本音をお聞かせ下さい。
 私が現段階で考えているリーダー像は「決断し、その内容をわかりやすい言葉で伝えて、人を動かし、そしてその結果について責任を取る」という姿です。しかし残念ながら、現状において、岸田総理の「決断」と「言葉」についてはいくばくかの弱さを感じざるを得ません。
 その弱さが顕著に露呈したのが、今回の減税にまつわる一連の動きです。
9月25日に総理は「税収増を国民に適切に還元する」と表明されました。しかし、この「還元」という言葉が分かりにくかった。自分で決断するのではなく、検討を丸投げしたように国民には映った。総理のパッションが伝わらなかった。
 その後「還元」という「言葉」が一人歩きして、「給付なのか減税なのか」「はたまた両方なのか」、総理の真意について与党内でも様々な憶測を呼んでしまいました。世の中に対しても物価高に対応して総理が何をやろうとしているのか全く伝わりませんでした。
 もし、9月25日に総理が「物価高による生活困窮世帯の苦境は深刻なので十分な給付を迅速に行う。一方で、物価高は中間層の家計も圧迫しており、消費の停滞にもつながっている。これには所得減税で対応する。どのような手法を取るかについては技術的な問題もあるので、党税調の専門家とも相談しながら決めていきたい」と分かりやすく述べておられたら、政府与党での議論が混乱することもなかったでしょうし、多くの国民も物価高に対する総理の姿勢をよく理解してくれたことでしょう。
 総理は過去の総理よりも頻繁に会見に応じられるなど、国民への情報発信に心を砕いておられます。しかし「綸言汗の如し」と申します。リーダーの発した「言葉」はかいた汗のように元に戻すことはできません。
 今後、重要な局面で発信される際には、総理ご自身がじっくりと考えて決断し、水面下の根回しも入念に行なって、その発言により政権の政策の方向性を確定させ、何としてでも国民の支持を得るという覚悟で、政治家としての言葉で発信していただきたいと思います。
 「そんな確定的な『言葉』で全てを発信することは難しい。発言の修正に追い込まれたらどうするのだ、逃げ道を作っておかなくては」と思われるかもしれません。
 ウインストン・チャーチルは、政治家に必要な資質として以下の言葉を残しています。
「政治家に必要な能力とは、明日、来週、来月、来年何が起こるかを予言すること。そしてそうならなかったときに理由を説明できることである」と。変更を迫られた時は、また真摯に自分の言葉で説明すればいいのです。
 
(中略)
 
 岸田総理、繰り返しになりますが、総理は今「いくら頑張って成果を出しても、国民から評価されない」という焦りの気持ちをお持ちではないでしょうか。
 「拱手傍観、坐して敗るるを観ているのは果たして如何であろうか。・・・四夷に武威を示せ」
 安政三年、開国への圧力が高まる中で、松下村塾生の久坂玄瑞は、自分が思い描く攘夷が十分に実行できない日本の現状を憂い、自分一人でも結果を出したいと功を焦っていました。
 これに対して、吉田松陰は、こう諭しました。「天下後世を以て己が任と為すべし」
この国のことと、その未来をどうするかということこそを、自らの任務と自覚すべきである。目先の結果を出すことに焦るより、もっと大きな視点で取り組むべきだと説いたのです。
 世界に目を向ければ、これまでにない荒波の中に、我が国は置かれています。国内に目を向ければ、物価の高騰、さらには少子高齢化に伴う諸問題は待ったなしの課題です。社会保障制度の再構築をはじめ根本から日本の構造改革を進めていかなければなりません。
岸田総理。どうか、こうした大きな課題。総理大臣という地位にある者にしか挑戦できない課題にこそ、真正面からぶつかっていく。そのことに集中していただきたい。様々な声に耳を傾けることは重要ですが、目先のことに汲々とする必要はありません。
 どうか「天下後世を以て己が任となすべし」
 参議院自民党もその思いで共に国内外の重要課題に立ち向かっていく。そのことを同僚議員と共にお誓い申し上げ、私の代表質問を終わります。
 以前、参議院同期の島村大さんから「雄平ちゃん、明日の会議に俺の代わりに出てもらえないか?」と声を掛けられました。「いいですよ。その時間帯になにかあるんですか?」と聞くと、「母校の東京医科歯科大学の評議員をやってて、うちの学校と雄平ちゃんの学校(慶應大学)の合併に向けて調整していて、どうしても大学に行かなくちゃいけないから、明日の会議には出られなくて…。慶應のためにもなるから宜しく頼むよ」と言われました。

 国会に限らず、本当にいろんな場所で汗をかいていました。「島村さんが亡くなったのではないか」と耳にした時、信じられず、嘘であって欲しいと携帯に電話をしましたが、あの優しい声を聞くことはできませんでした。2年にわたりガンと戦いながら活動されていたことを亡くなった後で知りました。

 歯科医として厚生分野の政策に情熱を注がれていました。今日の葬儀で菅義偉前内閣総理大臣は「新型コロナワクチンの射ち手不足で接種が進まない時に、歯科医師が接種に加わることを、それに向けての道筋を示した上で提案してくれました」と感謝の弔事を述べられました。

 奥様の奈津子さんは「亡くなる10日ほど前、最愛の娘の結婚式でなんとか娘と一緒にバージンロードを歩けたことが、家族にとって何よりの宝物です」と仰っていました。

 みんなから愛された島村大さん。これまで本当にありがとうございました。安らかにお休み下さい。