自治大臣や自民党の政務調査会長、国会対策委員長などを務められた保利耕輔先生の葬儀が都内で行われました。
 岸田文雄内閣総理大臣や額賀福志郎衆議院議長、福田康夫元総理など300人もの方が参列されました。
 葬儀が始まる前に車椅子で駆け付けられた森喜朗元総理は「青木(幹雄)さんにも保利さんにも先に逝かれてしまった」と別れを惜しまれていました。
 麻生太郎副総裁などの弔辞から、保利先生のありし日の姿が思い出されました。


麻生副総裁の弔辞:
 保利先生は私の選挙区福岡県の隣、佐賀県唐津を地盤とされていて、昭和54年の当選同期でもありました。
 初当選間もない頃、先生や私、佐藤信二先生など、親や爺さんが総理大臣や議長といった役職を務めた議員の当選祝いを藤波孝生先生にしていただいたことがありましたが、それがご縁でお付き合いが始まったと記憶をしております。
 先生と私は実業界の経営者から政界入りをした数少ない議員でした。口数の少ない保利先生でしたが、『日本精工フランス』の経営者をされていた頃の話を聞いた時は感心をしました。
 日本精工フランスが当時のEC(欧州共同体)委員会からダンピングの認定をされたところ、日本の本社は事が大きくならないうちに早く穏便に収めようと和解のための資金を送ってきたそうです。しかし、保利経営者は本社の方針に背いてそのお金を真逆の方向に使われます。EC委員会を相手取り欧州裁判所に対して、行政訴訟を起こされました。
 まずEC側交渉官の出身大学に行き、同期の法学部卒で彼らより成績の良かった弁護士を洗い出されておられます。そして、彼らを日本精工側の弁護士として雇い、裁判で争ったのであります。結果はなんと保利経営者側の勝利。
 「かっこええな、あんた。顔はえらいドメスティックな顔だけど、やってることはインターナショナルな人なんだな」と、えらく感心したもんであります。
 私が自民党総裁になりました時、政調会長の就任をお願いをさせていただきました。今度は「俺は細かい政策をいまさらやるつもりはないから、とにかく優秀な人を政調会長代理にしてくれることが条件」と交渉力を発揮されます。いろいろ考えた上、「園田博之代議士を充ててはどうか」と伺いましたところ、即了解の返事をいただいたことを今も鮮明に覚えているところです。
 そうした感じで不思議と波長が合ったのか、本当にありがたいことに随分と長い間ゴルフなど親しくさせていただきました。
 政策通でありながら決して理屈だけで動かされるのではなく、人間の情というものに通じた本当に懐深い政治家でありました。同期とはいえ、尊敬の念すら私は抱いておったところです。
 大変残念でしたのは郵政選挙の際に先生を引き留めることができなかったことです。忘れもしない平成17年の夏、私は総務大臣という立場で内閣におりました。政治信条を大事にされる保利先生のこと、信念を貫かれて反対をされるのではないかと心配しながら、何か良い着地点はないかと模索をし続けました。私にとっては大変苦しい毎日でありました。
 しかし、先生はその後も無所属での出馬をよぎなくされた郵政選挙で圧勝をされておられます。「さすが唐津に保利党あり」と思わせられる、堂々たる戦いぶりでした。
 先生、私もいずれそちらに伺います。その時には、大変甘いものがお好きな保利先生、地元唐津の松露饅頭でもお持ちをいたしますから、ぜひ昔話に付き合っていただければと思っておるところです。それまでどうか、保利先生の御霊の安らかならんことをお祈り申し上げます。