文部大臣や自民党の政務調査会長などを務められた保利耕輔先生がご逝去されたと自民党本部が発表しました。亡くなられたのは11月4日午後でしたが、ご遺族の意向で13日の発表となりました。私もご遺族の思いに従い、公式な発言を控えていました。
 
 お父さまの保利茂元衆議院議長の急逝を受け、保利耕輔先生が衆議院議員となられたのは昭和54年10月のことです。私は昭和54年8月に佐賀県唐津市で生まれたので、物心ついた頃から地元の代議士と言えば保利耕輔先生でした。
 
 文部大臣に就任されたのは私が小学4年生の頃。「学校のルールは地元の先生がつくっているんだ」と幼心に誇らしく思ったことを覚えています。
 
 同じ大学・学部・学科に進み、政治記者として番記者を務めるというご縁をいただきました。筋を通す、真面目な人柄を側で見てきました。

 2009年の衆院選で自民党が野に下った時、自民党に与えられる唯一のポストの『衆議院副議長』を打診されましたが、「党三役として政権転落の責任がある私がなる訳にはいかない」と固辞されました。一方、小泉純一郎政権で引責辞任した農林水産大臣の後任の話を「教育基本法の改正に専念したい」と断ったことについては、「自分が断ったことで亀井善之くんが激務を受けることになり、彼の死期を早めてしまったのではないか」と後年になっても悔やまれていました。
 
 口の堅い、番記者泣かせの政治家でもありました。政局の話を聞くと「私は政局に関心がない」。政策の質問には「政策が決まる前に責任者の政調会長が喋る訳にはいかない」。周りを取り込む政治記者に対して、唐津くんちなどの地元の伝統文化や西九州自動車道など佐賀県の事業について語って煙に巻いていました。奇しくも、その一つ一つが私の財産になっています。
 
 私が32歳の時、保利先生の自宅で「新聞記者を辞めて参議院選挙の自民党公募に挑戦したい」と相談しました。「まだ若すぎるのではないか」。予想に反した答えに正直たじろぎました。いま思えば、国政に臨もうとする私の覚悟を見たかったのだと思います。

 私が候補者に決まると、「この保利が国政に初挑戦した時に『おぎゃあ』と生まれたのが山下くんだ。次の世代に私たちがバトンを繋いでいかないといけない」とお願いに回ってくださいました。

 1年あまりではありますが、保利先生と同じ時期に国会議員を務めることができたのは何にも代えがたい経験です。
 
 2014年11月20日。翌日に衆議院の解散を控えた夕刻、保利先生の議員会館の事務所を訪ね、「国会議員としての最後の書を私に書いてください」とお願いしました。翌日、衆議院が解散された後、色紙をいただきました。

『任重而道遠』

 長年にわたり国政に真摯に向き合って来られた保利先生に、国会議員の職責の重さ、そしてその道の険しさを教えていただきました。
 
 保利耕輔先生、これまで本当にありがとうございました。