マスメディア等により、「お受験」が批判的に扱われることがあります。
(A)メリット、デメリットを大局的に判断できない子供に対して受験を強制すること
(B)機械的なパターン学習をさせること
(C)お受験版「よい子」に育てること
批判されている論点を上記のように整理し、これに沿って考えていきます。
と記すのはこれで三度目になります。前回 に引き続き、今回は(C)について考えます。
お受験版「よい子」。
これについては、「お受験版「よい子」とは?(1)
」と、「お受験版「よい子」とは?(2)
」とで詳述しました。杉山由美子さんの言葉を再び引用すると、「コミュニケーション能力があり、自己抑制できる、規則に従える子ども」です。
同時に、「よい子」にはまらない「個性の強すぎる子(大野啓子さん)」「頭のよい子(杉山由美子さん)」「考える子(宮本哲也さん)」が存在することも記しました。私見では、多数への教育においては、そのような子供は「異物」扱いされ、十分伸びやかに育つ環境を得られない点も指摘しました。たとえば、異物を認める社会へ【考える子供に育てるには?(7)】 を参照願います。
両者を大人社会に当てはめてみると、「よい子」は既存のものを維持することに能力を発揮し、「異物」は既存のものを壊してあらたなものを創造する、というのが私のイメージです。そう考えると、バブル絶頂期(日本経済が頂点にあったころ)にお受験ブームになって、「良い子」を大量生産しようとしたことは道理なんですね。何れにしても、どちらかが不要というものではありません。
さて、そのお受験版「よい子」はどのように批判されるのか?
上記の裏返しとして、「均質的な子(個性がない子)」「深く考えない子」「相手の顔色をうかがう子」という言い方が成り立ちます(「事実として皆がそうだ」という意味ではありません)。
そして私見では、それ以前に「子供らしくない」という批判があるようです。子供らしくない子供に、親が無理矢理仕立てていると。では「子供らしい」とは何を指すか?まさか、子供=「よい子でないもの」ではないですよね。
幼児に何をどこまで教えるか 。身につけさせるか。それが、お受験版「よい子」たる能力なのか。「考える子」たる能力なのか。単にそういうことです。知能の個性はありますが、「自然に育つ」などということはありえないので。
年齢があがり自我が目覚めた時、あるいは何かをきっかけに、子供は違う方向に進むかもしれません。だからといって、幼児期は放置して「他人の作った周りの環境に任せる(これが「自然に」です)」のでよいのですか?
そうではないですね。親として望むものを初期値として正しく与える。それが幼児教育ですね。
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