私は早く死にたい。私は老人になりたくない。
/ ジョージ・ゴードン・バイロン
■
朝生の東浩紀退場動画が面白いと聞いて見てみたら、その相手が想像以上にメタメタでした。
その名は堀紘一。
該当する動画は削除されているみたいですが、あのジーサンは凄まじかった。
内容ゼロでとにかく相手の言葉尻や態度に対して見下して悪口(いやもうそれ以外の何でも無い)言いたい放題。基本戦略は「相手の言ってる事に悪口を被せて煽る」。
頭いいとか悪いとかそういうレベルじゃないです。というか頭の悪さを憎悪でカバーみたいな。あれはもう胆力とか根性とかそういう世界。TVの演出とはいえ、スゴイものを見てしまいました。
■
そんなのを見た後で読んだ面白い記事。
幼児化する大人たち『一億総ガキ社会』
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20100805/240470/
ほうほう。
世の中の大人は幼児化していると、偉い先生が仰っております。
なるほどなるほど(←イヤな予感)
あまりに素晴らしい内容だったので、その文章のコンテクストを維持しつつトリビュートを意識した web2.0 的なパラダイムシフトを行ってみようと思います。
※注意:原文を読んで無いと面白さ半減です。ウィンドゥを2枚出してご賞味ください。
--------------------------------------------------------------------
老害化する大人たち『一億総クソジジイ社会』
日本が一億総中流社会といわれたのは、高度経済成長期のことだった。ほとんどの人が自分は社会のなかで中流である、と自認した時代である。この言葉はいまや死語になろうとしているが、昨今の日本を、この言葉になぞらえて表現するなら、変化を受け入れられない大人たちが大量出現している社会、というのが本書のタイトルの示す意味だ。
ゲームクリエイターでありブログで教鞭をとる著者は、アクションゲームやRPGの文法、また昨今の日本の老人をめぐる諸分析をもとに、いつのまにか“クソジジイ”になってしまう人間がどうしてこれほど登場したのか、そこから脱却するにはどうしたらいいのかを考察する。
頑固ジジイ、会社などへの組織依存といった人たちに象徴される人間像を著者は、“クソジジイ”というのだが、彼らに共通するのは、自己愛が強く、傷つくのを恐れ、変化を拒否するところだ。
昇進、再就職に失敗したり、営業で成果を上げられなかったり、あるいは会社で部下にバカにされたりと、自分の思ったとおりにならないことがあると、すぐに怒り出し、それ以上バカにされるのを恐れ自分の殻に閉じこもったり、逆にうまくいかないことを他人のせいにする。
この背後には、一人では何もできない組織への依存関係があるという。自分と社会を一体化して、コントロールしたいと願ったり、所属部署の可能性や営業の挫折を自身のものと同一視してしまう老人は、会社が失敗することを恐れる。そして、老人達は変化に正面から向かい合えなくなったり、何かにチャレンジすることをうまく受け入れられないという。
こうした変化拒否の老人が増えていることに対して、著者は、 「老害になるというのは、『なんでもできるようにしていくこと』ではなく、むしろ「何でもできるわけではないと諦めていく」過程だからである。老人的な敗北感をひきずり、自己愛的イメージにしがみついたまま、現実の世界と向き合うことができないのは、まさに老害化、クソジジイ化、なのである」と診断する。
この変化拒否がどこからくるかというと、政治用語で用いられる「思想批判」を受け入れられないからだという。自分にとって大切な意見を批判されたときに、人は嘆き悲しむと同時に、批判されたという事実をしっかり認識していき、そこから抜け出す糸口をみつける。しかしそれができない。では、なぜ受け入れられないかというと、現代の老人集団間では、最大の思想批判である「ネット」に遭遇する機会がほとんど無いからだと。
直接にせよ間接にせよ、ネットとの遭遇によって、人は様々な心理的反応を経てそれを乗り越える。そこで苦しかったり悲しかったりして、しっかりと喪失感を覚える。仕方のないことを身をもって感じる。そうしたある意味で貴重な経験がないことで、悲しみや不快感を受け入れられなくなる。
奇しくも今、テレビ番組などで乱暴な物言いをする高齢者が多数不明発生しているという事件は、その一例かもしれないが、世界有数の長寿国の一方で、確かに今の老人社会では批判される事の重みが実感として薄れている。核家族化や地域のコミュニティーがつくる人間関係に老人は問題の原因を求めようとするが、もちろん全く関係ない。
こうした先進的な社会や文化の下では、ネット上の掲示板やブログによって人々は学ぶ事が出来ている。しかし、いま思えばこうした携帯電話やゲーム機などの先進的なデバイスによって、他人が思い通りならないことを子供のころから身をもって学ぶ時代になっていた。
それが、老人社会に埋没するようになって、著者の言うように、ネットからの情報を遮断されて自由になり、「我が儘」や「既得権益」を追求できるようになった一方、その代償として晒され者になる危険がのしかかってきた。失敗すれば向き合うのは自分自身という社会になった。
自分の失敗や変化出来ない事を、他人のせいにする傾向、こうしたものは社会の構造的な問題であり、そう簡単に処方箋をほどこせるものではないという著者の意見には同感である。ならばどうすればいいかといえば、新しく得たものや変化したもの、成功したもの、そうした対象をしっかり認識することからはじめよと著者は言う。
この点について、本書が、個人だけでなく社会や国家にもあてはまることを、縄文時代やジュラ紀を例にとって説明する点もとても示唆に富む。
--------------------------------------------------------------------
ジュラ紀はやりすぎた。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□