夜話 612  坂本繁二郎と青木繁の合作 | 善知鳥吉左の八女夜話

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夜話612坂本繁二郎と青木繁の合作


再び『図書一月号』にお世話になる。

同誌連載中の『詩の授業二十九<青春の十五年>』で詩人高橋睦郎は島崎藤村・薄田泣菫・蒲原有明・石川啄木の四詩人をあげ彼らの活躍した十五年間を日本近代詩の青春時代とくぎり 青春の昂揚と挫折を論じつつある。
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ひとつの宿題めいたものを来月号に残したいつもの論調は面白かった。

末尾に藤村・泣菫は詩人としての役割を果たして文学と随筆に転じたが、有明は昭和二十七年数え七十六才まで詩人として生き旧作にしばしば手を入れた。そして詩はその都度改悪されたと高橋は言う。

九州に縁がある有明には可愛そうな言葉ではある。高橋が有明の詩集の『春鳥集』の誌名を挙げたのみだつたのも絵描きの拙にはやや不満だった。

知人のМと「『春鳥集』のカバーつきの初版本はほとんど存在せず、もしあったら○万円の価格がする」などとしゃべっているうち、あれッあの詩集について此の夜話でしゃべったかな。と気になり始めた。

『春鳥集』については拙の得意とするところ。
あわてて昨夜過去の六百の夜話をひっくり返したが出て来ない。

なぜ『春鳥集』話を落としたのか。

あちこちでしゃべったおかげで夜話で済ましたと思いこんでしまったらしい。


詩人蒲原有明は専門家の高橋に任善知鳥吉左の八女夜話 せよう。

画家拙者は有明が青木繁の「海の幸」を『春鳥集』の挿画にし、そのジャケットを青木と坂本に描かせたそのの美的関心にまず驚いた。

「海の幸」は明治三十七年三月の白馬会展に出品され早速詩誌『明星』はそれを無色写真版で紹介し、同年十一月号に有明の画題と同一の詩「海の幸」を登載した。

後年、有明は詩を改作する。有明は明治三十八年六月詩集『春鳥集』に詩「海のさち」としてこの誌を選びその挿画に青木の無彩色の「海の幸」を使っている。誌の題は「幸」をなぜか「さち」に改めてもいる。

この詩により青木の画名は一躍天下のものになったと言っていい。

しかしこの挿画には白く浮かぶ「福田タネ」の貌はない。

青木はそのご「海の幸」に「タネ」を描きいれて改作した。青木の同僚の正宗得三郎?の随筆に改作のため悪くなったとあった。

有明と青木両者ともに改作して悪くなったということか?

有明のこの挿画と詩により「海の幸」は近代日本洋画の最高傑作の位置が決まったと言っていい。

驚いたことに有明は坂本と青木にこの詩集『春鳥集』のジャケットを合作させている。

いま両画家の製作分担は判明しない。

久留米で同年に生まれ両極端の画風を完成させた二人の画家の合作が残っていることの珍しさと有明の美術と詩に対する一つの意見を発見して楽しもうではないか。

美術評論家なんぞがいなかった時代。新体詩の雄が献詩したことで、この「海の幸」は一躍「重要文化財」のブランド名を獲得したと言っていいかも。

しかしジャケット合作の当事者坂本は青木の「海の幸」を生涯認めなかった。

このことは夜話でふれた記憶がある。

絵の『海の幸』は一時有明が所有していたことをいま思い出した。

『春鳥集』の原本はあきらめて複刻版で我慢しましょう。敬称略。


上 明星の「海の幸」

下 復刻版の『春鳥集』のジャケット