一人の男が切り立った崖の淵にうつ伏せに寝そべっている。顔だけを宙に突き出し、深い谷底に向けて叫んでいる。
野太い声が奈落に吸い込まれていく。ほとんど反響はしない。声は谷底に堆積して小山を形成するのかもしれないし、或いは、風に乗って空中に飛散していくのかもしれない。ともあれ、発する声が確かな実体を持って喉の奥から放出されているような気がしていて、男はその感覚が愉しくて仕方がないのである。
男は何度でも叫ぶ。声を出せるという能力が途轍もなく誇らしいように感じられていて心地良い。いっそ崖の淵で永遠に吠えているいるだけの存在になりたいとさえ望んでいる。現状の他に何も必要ではないと考えている。男はようやく一人前の叫ぶ人になれそうな手応えを得られたと喜んでいる。
「人」シリーズ
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