こんにちは
私たちが “ブッダの教え” を 深く 学ぶと・・・
これまでの生活が ”誤りである” ことに 気づかされることになります。
それは 前回の記事でも ご紹介したように・・・
私たちは できるだけ多くの ”快楽” を 獲得することが・・・
これまでの 人生における ”最大の関心事” だったようです。
そして 私たちが ”快楽” を 獲得するに 比例して・・・
私たちは ”苦しみの原因” を ”増幅させる” ことになるのです。
つまり 私たちは 幼いころから ずっと・・・
”苦しむための努力” に 明け暮れてきてしまった・・・ということなのです。
しかし だからといって 私たちは ”これまでの生活” というものを・・・
いきなり ”変える” あるいは ”捨て去る” ということは できないわけです。
それは なぜか? といえば・・・
私たちは 自分自身の これまでの ”努力” というものを・・・
とても “惜しい” と 思ってしまうからです。
そして 私たちは “ブッダの警告” を ”無視” して・・・
これまで 進んできた道を そのまま 歩もうと してしまいます。
そして その結果 私たちに 待っている ”未来” というものは・・・
ブッダが 示していた通りに さまざまな ”苦しみ” が 待っているのであり・・・
さらには ”取り返しがつかない” ような ”激しい苦しみ” も 待っているのです。
これが 私たちの 未来における “厳しい現実” であると 考えられます。
このことを もっと ”わかりやすい例” で 考えると・・・
冒険家が ”高山に登頂する” という ケースを考えれば よくわかります。
たとえば その冒険家が 多くの仲間たちと 共に・・・
ヒマラヤ山脈にある “エベレスト山(8848m)” への 登頂を 計画し・・・
”多くの時間” と ”多額のお金” を 費やして 現地に 赴きました。
しかし 現地での天候が 登山の途中で 荒れ始め・・・
現地の ”登山のプロ” である ガイドが・・・
もうこれ以上の “登山は無理だ” と 判断したとします。
そこで その冒険家は どのような判断を すべきでしょうか?
その冒険家は 現地のガイドが・・・
これまでの ”豊富な経験” から 導き出した・・・
”正しい判断” を ”信頼” して・・・
これまで わざわざ 登ってきた道を “引き返して” でも・・・
登山そのものを ”断念” すべきなのか?・・・
あるいは これまで この登山のために 費やしてきた・・・
”多くの時間” と ”多額のお金” を ”無駄にしない” ためにも・・・
現地のガイドが出した ”正しい判断” を “無視” してでも・・・
登山を “強行” すべきなのか?・・・
皆様は どちらの判断が ”賢明なのか?” について・・・
もうすでに お分かりでしょう。
”冒険” というものは・・・
“生還” しなければ 意味がありません。
つまり 冒険の途中で ”死” を 迎えてしまえば・・・
その冒険は ”何も意味がない” ことに なってしまうわけです。
つまり その冒険家は・・・
もしも これまで 積み上げてきた 多くの努力を ”惜しむ” ことで・・・
その後も 登山を 強行した結果・・・あえなく ”遭難” してしまい・・・
それによって 周囲の仲間たちも 巻き添えにして ”死んでしまった” としたら・・・
その冒険家は まさに ”死への道” を 進んでいたことになります。
そして その冒険家の “勇気” とは・・・
“蛮勇(ばんゆう)” と 言われるものなのであり・・・
周囲や 後先のことを考えずに 物事を行う “愚かな勇気” なのです。
それは 後世まで “愚かであった” と 評価されてしまいます。
その一方で その冒険家が・・・
”登山のプロ” の ”正しい判断” を ”受け入れる” ことで・・・
これまできた道を ”引き返す” という ”勇気” を 持てば・・・
自分自身と 周囲の人々に 今後 起こり得る ”さまざまな危機” を ・・・
前もって ”回避できる” ことに なるのです。
そして それこそが “本当の勇気” であると 賞賛もされるのです。
つまり 私たちが 現在 ”立っている場所” というのは・・・
まさに ”遭難寸前” の ”登山道の途中” なのです。
そして その状況を ”警告” しているのが・・・
仏教の開祖としての “ブッダ” であると 考えられます。
私たちが ”これまで通り” に 何も疑わずに ”進み続ければ”・・・
その先には ”激しい苦しみ” が 待ち受けています。
それゆえに 私たちは ”せっかく登ってきた道” であっても・・・
ここで ”引き返す勇気” が 必要なのです。
そして 再び ふもとの ”スタート地点” に戻り・・・
仏教の開祖であった ブッダが 示していた・・・
”正しい道” を 歩み始めることが 必要なのです。
そんな “決意” を ここで することが・・・
私たちにとっての “本当の勇気” であると 考えられるのです。
私たちは これまで通り・・・
“快楽” を 獲得することを 中心に 生きていれば・・・
それは 自分自身だけでなく ”周囲の人たち” も 道づれにして・・・
“苦しみの渦の中” へ 巻き込むことになります。
それは 人間として “罪を重ねる” ことも 意味するのです。
そして さらに 重大なことは・・・
それによって 私たちは ”人間の完成” も 遂げられない ことになり・・・
その結果 ”現世” で ”死” を 迎えたとしても・・・
その後の ”来世” においても ”人間に生まれ変わる” ことになります。
それが 何を 意味するのか? といえば・・・
私たちは ”死の苦しみ” を ”繰り返す” ことに なるのです。
それは ”無限の死” を 意味しており・・・
私たちは それに向かって ”努力し続けている” のであり・・・
それは まさに 冒険家が ”死への道” を 進んでいるのと 同様に・・・
私たちは ”愚かな道” を 進み続けていることに なるのです。
このように ”ブッダの教え” とは・・・
私たちが これまで進んできた “愚かな道” から・・・
”引き返す勇気” を 試しているとも 考えられます。
皆様も 人間としての “本当の勇気” について・・・
ここで 改めて お考えになってみては いかがでしょうか?
(※) 仏教の開祖であった ”ブッダの警告” の 意味について 書きました・・・
“ブッダの 思いやりを 知りましょう” という記事は こちらです
そして ブッダ が 示していた ”正しい道” である・・・
”八正道(はっしょうどう)” の 内容は こちらからどうぞ
私たちが “ブッダの教え” を 深く 学ぶと・・・
これまでの生活が ”誤りである” ことに 気づかされることになります。
それは 前回の記事でも ご紹介したように・・・
私たちは できるだけ多くの ”快楽” を 獲得することが・・・
これまでの 人生における ”最大の関心事” だったようです。
そして 私たちが ”快楽” を 獲得するに 比例して・・・
私たちは ”苦しみの原因” を ”増幅させる” ことになるのです。
つまり 私たちは 幼いころから ずっと・・・
”苦しむための努力” に 明け暮れてきてしまった・・・ということなのです。
しかし だからといって 私たちは ”これまでの生活” というものを・・・
いきなり ”変える” あるいは ”捨て去る” ということは できないわけです。
それは なぜか? といえば・・・
私たちは 自分自身の これまでの ”努力” というものを・・・
とても “惜しい” と 思ってしまうからです。
そして 私たちは “ブッダの警告” を ”無視” して・・・
これまで 進んできた道を そのまま 歩もうと してしまいます。
そして その結果 私たちに 待っている ”未来” というものは・・・
ブッダが 示していた通りに さまざまな ”苦しみ” が 待っているのであり・・・
さらには ”取り返しがつかない” ような ”激しい苦しみ” も 待っているのです。
これが 私たちの 未来における “厳しい現実” であると 考えられます。
このことを もっと ”わかりやすい例” で 考えると・・・
冒険家が ”高山に登頂する” という ケースを考えれば よくわかります。
たとえば その冒険家が 多くの仲間たちと 共に・・・
ヒマラヤ山脈にある “エベレスト山(8848m)” への 登頂を 計画し・・・
”多くの時間” と ”多額のお金” を 費やして 現地に 赴きました。
しかし 現地での天候が 登山の途中で 荒れ始め・・・
現地の ”登山のプロ” である ガイドが・・・
もうこれ以上の “登山は無理だ” と 判断したとします。
そこで その冒険家は どのような判断を すべきでしょうか?
その冒険家は 現地のガイドが・・・
これまでの ”豊富な経験” から 導き出した・・・
”正しい判断” を ”信頼” して・・・
これまで わざわざ 登ってきた道を “引き返して” でも・・・
登山そのものを ”断念” すべきなのか?・・・
あるいは これまで この登山のために 費やしてきた・・・
”多くの時間” と ”多額のお金” を ”無駄にしない” ためにも・・・
現地のガイドが出した ”正しい判断” を “無視” してでも・・・
登山を “強行” すべきなのか?・・・
皆様は どちらの判断が ”賢明なのか?” について・・・
もうすでに お分かりでしょう。
”冒険” というものは・・・
“生還” しなければ 意味がありません。
つまり 冒険の途中で ”死” を 迎えてしまえば・・・
その冒険は ”何も意味がない” ことに なってしまうわけです。
つまり その冒険家は・・・
もしも これまで 積み上げてきた 多くの努力を ”惜しむ” ことで・・・
その後も 登山を 強行した結果・・・あえなく ”遭難” してしまい・・・
それによって 周囲の仲間たちも 巻き添えにして ”死んでしまった” としたら・・・
その冒険家は まさに ”死への道” を 進んでいたことになります。
そして その冒険家の “勇気” とは・・・
“蛮勇(ばんゆう)” と 言われるものなのであり・・・
周囲や 後先のことを考えずに 物事を行う “愚かな勇気” なのです。
それは 後世まで “愚かであった” と 評価されてしまいます。
その一方で その冒険家が・・・
”登山のプロ” の ”正しい判断” を ”受け入れる” ことで・・・
これまできた道を ”引き返す” という ”勇気” を 持てば・・・
自分自身と 周囲の人々に 今後 起こり得る ”さまざまな危機” を ・・・
前もって ”回避できる” ことに なるのです。
そして それこそが “本当の勇気” であると 賞賛もされるのです。
つまり 私たちが 現在 ”立っている場所” というのは・・・
まさに ”遭難寸前” の ”登山道の途中” なのです。
そして その状況を ”警告” しているのが・・・
仏教の開祖としての “ブッダ” であると 考えられます。
私たちが ”これまで通り” に 何も疑わずに ”進み続ければ”・・・
その先には ”激しい苦しみ” が 待ち受けています。
それゆえに 私たちは ”せっかく登ってきた道” であっても・・・
ここで ”引き返す勇気” が 必要なのです。
そして 再び ふもとの ”スタート地点” に戻り・・・
仏教の開祖であった ブッダが 示していた・・・
”正しい道” を 歩み始めることが 必要なのです。
そんな “決意” を ここで することが・・・
私たちにとっての “本当の勇気” であると 考えられるのです。
私たちは これまで通り・・・
“快楽” を 獲得することを 中心に 生きていれば・・・
それは 自分自身だけでなく ”周囲の人たち” も 道づれにして・・・
“苦しみの渦の中” へ 巻き込むことになります。
それは 人間として “罪を重ねる” ことも 意味するのです。
そして さらに 重大なことは・・・
それによって 私たちは ”人間の完成” も 遂げられない ことになり・・・
その結果 ”現世” で ”死” を 迎えたとしても・・・
その後の ”来世” においても ”人間に生まれ変わる” ことになります。
それが 何を 意味するのか? といえば・・・
私たちは ”死の苦しみ” を ”繰り返す” ことに なるのです。
それは ”無限の死” を 意味しており・・・
私たちは それに向かって ”努力し続けている” のであり・・・
それは まさに 冒険家が ”死への道” を 進んでいるのと 同様に・・・
私たちは ”愚かな道” を 進み続けていることに なるのです。
このように ”ブッダの教え” とは・・・
私たちが これまで進んできた “愚かな道” から・・・
”引き返す勇気” を 試しているとも 考えられます。
皆様も 人間としての “本当の勇気” について・・・
ここで 改めて お考えになってみては いかがでしょうか?
(※) 仏教の開祖であった ”ブッダの警告” の 意味について 書きました・・・
“ブッダの 思いやりを 知りましょう” という記事は こちらです
そして ブッダ が 示していた ”正しい道” である・・・
”八正道(はっしょうどう)” の 内容は こちらからどうぞ