生命の科学 VOL41 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

社会的弱者と言う事に関して
掲示板で早々と揚げ足を取られました。


最後にふれている弱者とは
自称社会的弱者と身体障害者の事です。


詳細は触れるまでも無いと思います。


真の弱者は一般の日本国民
勿論被害者はその筆頭です。



記事を読んで頂けば判るかと思いますが、
私はどんどん脳みそが腐ってきているような状態です。


記事を書くにも言葉も閃きも出てきませんし
論理的な文章構成を意識する事も出来ません。


私の脳は加害者たちの攻撃に晒され
壊され続けているようなものだと思います。


加害者工作員に、
私の記事をそれほど嫌っているのかと
突っ込んでやりたくもなりますが


恐らくは私のブログを彼らの関係者が読んで
覚醒してしまう事を恐れているのだと思います。


加害者関係者は平均的一般市民よりも
闇政府の策略を深く知ることのできる立場にいます。


自分達も策略をしているわけですから
闇の策略の存在の話も興味を持って見つめることでしょう。

まさか自分がその傀儡と化しているなどとは
夢にも思わずです。


そんな人間たちは何かの拍子に覚醒して
組織的犯罪の真の実態に気がついてしまう可能性が高いわけです。


その時に地球の法則の実態を知る事になります。


そして一旦覚醒してしまった人間は
彼らに騙される事もなくなります。


その覚醒のきっかけが私のブログになる可能性がある。。


其れが彼らにとっては脅威なのかもしれません。


久しぶりに政治ランキングを覗いたのですが
輿水氏のサイトのランキングもあがっていて驚きました。


あのように目に見える事、
若しくは科学力の関与を排除した
小さな身近な話に特化することで


それを組織の構成員に見せては信じ込ませれば
電磁波技術全般を隠蔽できますし


組織が関わっている危険な実態から
構成員の視線を逸らさせる事も可能です。


踊らされている本人はまだそのことに気がついていないようで
覚醒者には何の価値もない記事を書き連ねているようですが


地球の法則に従う人間には十分効果があるのでしょうか?


しかしどの組織の中にも資質の高い人間は存在し
そんな方々はいつまでも視線逸らしや
科学力の隠蔽などにはだまされる事もないと思います。


そして一度覚醒してしまった人間は
二度と眠らされることもない。


その意味でも彼らにとっては
”生命の科学”は厄介な存在だと言えます。


宗教やイデオロギーであれば
途中で意識を変えて挫折したり
変更する事もあるのでしょうが


生命の科学を正しく学んでいる人間は
中断する事は有り得ないからです。

元々が組織でも宗教でも思想でもありません。


私たちが知覚するのは普遍的真理の欠片です。


そのために無理な瞑想や集中など不要です。


何かをするたびに
心だけでなく精神を意識するよう努力する。。


それだけでも自分の中で変化が起きていることを
自覚する事になるからです。


そして元々の魂の器が濁っていない人間や
賢明な人間ほどその効果は高いと思います。


自分の進化を身をもって体験し続け
しかもどんどんと精神は私達にその存在を
強く主張するようになりますし


自らの行動の正しさを確信する事にもなります。


一旦普遍的真理の欠片に気が付けば
其れをしっかりと握り、手放す事も無いと思います。


地球の法則から卒業できた人間は
次の転生まで宇宙的記憶を積み重ねる事を意識するのが良いと思います。


その事が地球での私達の体験を
より意味のあるものにするのだと思います。


そして今現在苦しんでいる事や嫌な思いをしている事は
転生後に他の事を学んで行く中で
忘れてしまえば良いのだと思います。


私達は永遠を生きなければならない。


永遠を生きる事が出来る。。


いつまでも負の記憶を引きずる必要もありませんし
それは精神の進化の妨害にもなるようです。


そして大切なのはその時々を懸命に
生きる事なのだと思います。


マスターが触れていた
「真理は常に現在にある」


その事を忘れないでほしいです。


未来を憂うのではなく、過去を悔やむのではなく
今の時間を今のために生きるということが
神の法則に則った生き方なのだと思います。


(過度の集中と、緊張はいけません。
リラックスして生きてください。
私もこれに関しては意識して努力しています)


アダムスキーの21世紀生命の科学からの引用です。
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【宇宙の意志に自分の意志をゆだねること】


人間と自然との唯一の相違は、
自然は自身の意志を持たないと言うことです。


というのは、先述のように自然は
”全包容的な英知”の意志の下にあるからです。


ところが最高の表現としての人間は
自由意志的な心を与えられています。


人間が苦悩を持つのは実にこの点にあるのです。


一つの結果としての心は、
宇宙の意志に自分の意志をゆだねようとはしないで
他の色々な結果によって導かれようとします。


人間が自由意志的な心を与えられた理由は
人間が生活の方法と目的を”至上なる英知”から
学び取るかもしれないと言う点にあります。


人間には創造主のようになる可能性が与えられていて
イエスが言ったように
「私と父とは一体である」のです。


だから貴方が他人を見る時は”父”を見ているわけです。


金星人や他の惑星の人は自己の心を意識の指導に委ねる事によって
このことを日常表現しようと努力しています。


われわれも事故の目的を果たそうと思えば
このことを成さねばなりません。


【心は習慣の奴隷となりがち】


ところが地球人は数千年続いた生活法のために
習慣に堕落した人間となってしまい
心に関連した習慣的な細胞群を作っています。


そして習慣は自分の(習慣それ自体の)食物に餓えています。


たとえば飲酒家の心は極端に酒を飲むのは良くないことを知っていますが
習慣が心の主人となっていて、習慣に抵抗しようとする自分の意志の
強さと決意の力とを心は失ってしまったため


それは(心は)習慣の奴隷として存続しています。


このことはあらゆる習慣に当てはまります。


習慣の殆どは両極端に渡って作用するからです。


ただし、これは貴方が一滴も酒を飲んではならないといか
類似の物事をやってはならないと言う意味ではありません。


何事でも適度にやればそれで良いのです。


むしろこれは、人間は習慣を自分の主人にさせないで
自分が自分の生活の主人になる決意を持たねば
ならぬことを意味します。


そしてこれは、無限の力と知識とを持つ意識に
その家を(肉体を)整頓させる事によってのみ成され得るのです。

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動物を見ていて気楽で良いなと考えること事が
時にはあるかと思います。


自分がこんなに悩んでいるのに
その側で大きな口を空けてあくびをしては
再び眠りだす猫を見て、


そして会社での憂鬱な出来事に暗い気分で帰宅したときに、
尻尾を振って明るく出迎えてくれ犬を見た時に


「お前は悩みが無くて良いな。。」


そんな事を考えることがあるかもしれません。


どうやら彼ら動物達は私達のように
はっきりとした自由意志的な心を持った存在ではないようです。


感情らしき物を持っている事は確かなので
心のような物を持っている事も間違いないでしょうが
彼らは基本的には精神によって動いている存在だと言います。


まして植物に関しては一切
心らしき物は存在してはいないようです。


彼らは神の意識である精神に従って生きている存在なのです。


そのために私達のごとく心で暴走する事もありませんし
意図的に争って殺しあう事もなければ
”悪意を持って”他の生命体を”意図的”に傷つける事もありません。


そして悩みもなければ不安も持たない。


動物に至ってはその行動は本能に従ってもいます。


それを見ていて羨ましいと思うかもしれませんが
彼らはただそれだけの存在なのです。


万物を支配して、それを調和させていく役割を
果たすことも出来ませんし、


彼らは元素を利用しては多くのものを
作り上げることも出来ません。


その代わり人間のように思い悩む事もない。。


一体どちらが幸せだと思うでしょうか。


神が人間に与えた自由意志と心は
時には精神から人間を遠ざける存在であります。


そのために私達は神を感じられなくっていますし
その存在が私達を本来あるべき姿から
かけ離れた存在とさせる原因にもなっています。


でも、もしも私達に心と自由意志なる物が存在しなければ
私達は自ら思考する事無く、単に神の意識により
動くだけの他の動物を同様な存在となっていたはずです。


心があるからこそ精神とかけ離れる事もある一方で
心と自由意志での思考が可能だからこそ
さまざまな物事に興味を示し、


そして体験を通じては
多くの知識を積み上げていくことにもなる。


誤った行動をする事もあれば
一方ではそれを訂正する事で自らが学習する事にもなる


試行錯誤してはその精神を進化させていく事を期待して
神は人間に心と自由意志を与えたのだと思います。


そして私達の想像通り
私達は限りなく神に近づく事が出来る存在だと言うことです。


以前から繰り返し触れている
人間の使用している脳の領域の少なさは


私達が進化してこそ
初めて利用できる物があることを
示していると思いますし


金星の住人でさえ30%に満たない脳の使用と言うことは
私達の進化は先が見えないぐらい延々と続く物である事をも
髣髴しています。


恐らくは脳の使用領域も
私達の精神と心の一致が進めば進むほど
増えていくのだろうとも想像出来ますし


私達地球人はその進化においては
未だ最低レベルに近い存在だと言うことかもしれません。


(数千年前の地球レベルの進化の惑星も
存在していると言う事です)


精神を深く感じれば肉体と言う存在だけでなくて


万物が全て自分と一体であることを
認識できるようになる。。


勿論神の意識を通じてですし


その時私達は神と一体化するのだと思います。


ブラザーズは常にその練習をしているそうです。


そして生命の科学はそのための初級の教材なのです。


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私達の悪しき習慣も、
実は心と密接な関係のある細胞の働きとも無関係ではないことを
アダムスキーが取り上げています。


そしてここでは飲酒のような習慣についても触れています。


宗教の中には特定の行動を禁止するような組織も
多いかと思います。


恐らくはその禁止の理由は
その習慣に浸かってしまって悪しき行動を続けるような
人間が出てくることに由来しているのではないでしょうか。


飲酒にしても喫煙にしても肉食にしても性行為にしても
全て同じようなことが言えると思います。


私達はそれらを習慣として持っていて
尚且つ心がそれを心地良く感じるわけですから


その心地良さに身を任せていれば
時には執着にも繋がるのだと思います。


飲酒であれば深酒をしてアルコール依存症のような
状態も存在しています。


勿論そんな行動が私達の精神に良いわけがなく
それな人間を見てその行為を禁じた。。


戒律にはそんな事情もあるのかもしれません。


ただ、アダムスキーはここでは習慣に関しても
それを禁止しろとは言ってはいません。


何事もほどほどにすれば問題はない。


それは程度の問題であるとしています。


心が望むままに、心の満足を満たすために
それを無制限に繰り返せば
私達は心の暴走を正当化することにもなります。


それは精神からかけ離れることに他なりません。


しかしそれが明らか間違っているという行為であれば別ですが
それが自分の中で制御可能であり


肉体よって心が誘導されないのであれば問題ないと
アダムスキーは触れているのではないでしょうか。


たとえば酒は百薬の長とも言われます。


飲む量によっては肉体にも精神にも
良い影響を齎すこともあるのだと思います。


喫煙行為も同様です。


少なくともこの両者はストレス発散の効果を持っています。


私達がストレスを感じなくなり
そしてそんな嗜好品に頼らなくても
心を保てるような存在に進化すれば


その時はそんな物は必要なくなるのかもしれませんし
この社会が変貌すればストレスも感じる事も無くなるのですから
それは実現可能なのかもしれません。


恐らくは依存症の原因は、
単なる脳のドーパミンや脳内ホルモンの影響だけではなくて


アダムスキーのいう、心に従う細胞の影響も
あるのだろうと想像できます。


そして恐らく精神を感じる能力が進化すれば
私達はその行為の良し悪しを自らも認識することになるから


生命の科学では特別な禁止事項も
必要とはしていないのだと思います。


精神が全ての細胞をも誘導するようになれば。。


心で動くのではなくて精神で動くようになれば、
依存症などと言う状態もなくなるのかもしれません。


(科学力の関与でも依存症は引き起こせると思います)


以前触れたようにアダムスキーは喫煙家でしたし
アルコールも嗜んではいたそうです。


それが節度あれば問題ないことを
アダムスキーが自ら示してくれたいるような物だと思います。


何事も適度にやれば良いと
アダムスキーは触れています。


勿論これは個人の嗜好の問題であり
明らかに良くないと認識できる行為をも含むわけではありません。


ただ、精神を使用して物事の良し悪しを判断してきたわけでない
私達の慣習に関して言えば、


其れが本当は良い事なのか悪いことなのかは
今は判断が付かないともいえます。


私達は精神を学ぶ中で嫌でも其れを
判断していく機会を得る事になる。。


私達は自分の嗜好が精神にとって必要か不要かを
その時々の精神の進化に合わせて判断し


不要なものや悪影響の物を
取り除いていく事になるのだと思います。


100点満点の答えを持っているのは
私達の心や心の作り上げた価値観ではありません。


其れは精神と言う神の意識こそが教えてくれるものであり
私達は自分の精神の進化の程度に合わせて
その事を自ら学び行動を改善していく事になるのだと思います。


だから今は何事もほどほどにするのが良いのだと思います。


精神性が高くないのに自分に厳しい戒律を課す事は
かえって精神のためにならないと私は思います。


それは過度な緊張と不満を齎す事になるからです。


私達はこの人生の中でいきなり聖人のような存在へと
変貌する事は出来ないのです。


禁止事項は自らが精神の進化の過程で判断して
決めていけばよいのだと思います。


アダムスキーは一番大切な姿勢は
リラックスであるとも言っていました。


肩に力を入れ過ぎることなく 
しかし意識はしっかりと精神を捉える様努力して


その状態で地道に生きていく事が
一番良い結果に繋がるのではないでしょうか。


私たちは永遠に学ぶ存在です。


その事を理解して、先の長い人生を
肩の力を抜いて経験を積み重ねて行きたいです。

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P.S.


肉食に関しては私の過去記事
”宇宙の法則 VOL11”を参考にしてください。


自由意志の存在は実はとても大切なのだと思います。


私達の真の姿は精神という形で受け止める事になるようですし
その精神は誰もが同様に受け止める神の意識です。


つまり自由意志としての心が存在しなければ
私達は自分と相手を区別し認識する事も無ければ
自分を自分と感じる事もなくなるのです。


つまり神の分身として存在するだけでなくて
それぞれに個性を持たせるためにも


そして個々の神の分身に、
自らの存在を時には他と独立したものとして
意識させるためにも


自由意志なるものは大きな役割を果たしている事になります。


自由意志があるからこそ
私達はそれぞれが異なった体験を通じて


自分と言う存在を他の固体と区分する事になりますが
この場合の区分は分割と言う意味ではありません。


個性と言われる物がありますが
自由意志の作り出すものはその個性だと思います。


自由意志が私たちの心を形成するのだと言う事です。


考えてみれば、人間全てが神の分身だからと言って
全く同じ価値観を持っていて同じ精神レベルにいて


右習えで同じ行動をしていたのでは
神もつまらないと考えたのかもしれません。


神は人間と言う創造物に
色んな表現をさせたかったのかもしれません。


私達はバリエージョンにとんだ
神の分身としての創造物である。。


そんな受け留めかたも出来るかと思います。


そして心は、精神とは異なるもう一つの私たちの魂である。。


アダムスキーがそう触れていました。


その魂を神に委ねるかそれとも神から乖離させるのかは
これも自由意志に掛かっているという事になるのでしょうね。


心は環境に併せて変貌しやすい暴れん坊かも知れませんが
私たちを他と識別する大切な存在でもあるのだと思います。