生命の科学 VOL22 | 不幸のブログ 

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


今日の記事は下書きをした日も
精神的に荒れていたこともあり


内容も見苦しい物になっている事を
まずはお詫びましす。


地球の法則の信奉者は
私達の理解を超えた存在なのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大家関係者と創価学会広宣部幹部と
その協力者達と思われる人間達は
半ば開き直っているようです。


(と書いていると大家は逃げ出したようですが)


結局はユダヤ・朝鮮軍団はやりたい放題という事です。


考えてみれば現実的には正義を味方にすることのできない、
国家権力に保護されていない、私の方が分が悪いのですよね。


警察はこの人間達を見て見ぬ振りの立場ですし
この社会には義を支持する権力などありませんでした。


パソコン画面はWEB画面も小さくされた状態で
マウスでそれを大きく開けない私は
ひどい状況でのブログ更新を強いられてもいます。


(マウスは左右にしか動かないし他はキーボード操作です)


実は色々工作されていて
ネットが使用できなくなった所で
一気に加害強化したいような気配も感じています。


だからこそ”姑息”な意識を持っているのだと
判断してしまうのです。


寝ている間から延々と脳への様々な関与により
苛ついたり神経が高ぶるような感覚、
更には妙な感覚(そのうち紹介します)まで強いられています。


今日も作り上げられた異物の排泄妨害は続いていますし
それを腸内に貼り付けて
電磁波照射に利用していることは体感しています。


ぶら下がりと言われているようなものだと思います。


腸壁にそれがワンセット張り付いていると思います。


直腸を腫らしてまで排除妨害をしてきますし
余程身体に負担をかけるためにも
重宝する存在なのだと思います。


顔への関与にも重宝するようです。


最近この人間達のおかげで進行している
頭髪の脱毛にも一役買っています。


もしも私が放って置けば異物の腸内発酵も進むようですし
彼らの大好きな匂いのためにも重宝する物のようです。


目的のためには、
そしてそれが犯罪と立証されないのであれば
手段を選ばない。


そんな意図を持った身体への関与が実行されている気配です。


先日からの肺近辺の筋肉の痛みと
呼吸時の肺の痛みが消えません。


想像ですが、良くて炎症や切り傷、
最悪腫瘍や癌化でも狙っているような気がします。


入院させるには呼吸困難でも用いれば
私は妻の手前逃れることはできない。


そんな事でも考えているのでしょうか。


ぶら下がりを付けた状態で
今日はお出かけしなければなりませんね。


職業安定所の三ヶ月間の
給付付の職業訓練に応募しようと思っています。


求職も応募はしましたが
これらの行動も彼らには好ましくないようです。


そのために私に動き出される事も嫌なようで
要するに私を如何に実社会に出さないで
葬り去ろうかと言うことを意識しているようにも思えます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

彼らは自分達の行動を変える意識はないと思います。
それに対してコメントをする事は批判に当たるのか?


それともそれも表現の仕方次第なのかと
色々考えていました。


イエスキリストはパリサイ派の行動を
はっきりと否定的に取り上げていました。


でもその内容は正しい認識に基づくものでした。


それは批判でなくて理解であるともいえますし
時には批判をされなければ判らない人間が存在しているという
事なのかもしれません。


今日の話はその批判に関する内容です。


私は耳が痛くもありますが
同時に何が批判で何が理解なのかと言う
疑問も感じています。


両者は対照的でありながら似ているからです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アダムスキーの21世紀生命の科学から引用します。


【創造物を批判するな】


あなたは今理解できると思いますが、
人間又は人間の心は創造の過程にあるのであって、
学習によって完全な現れ方の方向へ働きかけています。


これについて時間は関係ありません。


永遠のなかには時間がないからです。


そこで創造物の存在の理由を知ることができるようにするために、
創造物の様々な面を研究することがわれわれの義務でもあるのです。


ですから知識の欠乏によって過去にやってきたようには
もうこれ以上創造主を批判しないことにしようではありませんか。


というのは実は人間は創造主や其の創造物のいかなる物をも
批判することはできないからです。


人間が生命の目的を徹底的に研究するならば
理解が批判に取って代わります。


其のとき最高の表現としての人間は創造主と一体になり
人間の英知は創造主の英知と調和するのです。


あなたは尋ねるかもしれません。
行為または表現の結果として人間が分類している知性なるものを
筆者はどのようにして分類しているのかと。


我々がこれと同じ分類を用いるならば
人間か知能の海の中に生きていると言うことを認めなければなりません。


生きて表現している万物は知能のある面を利用して
創造された目的を遂行しています。


こうした低級な動物のすべては自然の指導の元に
自動的に働いています。


創造物の直接の指導によってと言っても良いでしょう。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


私にとって一番難しいテーマです。


万物は神の化身である。


万物を批判することは神を批判する事になる。


アダムスキーやブラザーズは私達にそう告げています。


他の人間は神の子であり神の分身であるから
それを批判することは神の意志ではない。。


それは理解できます。


しかし、どこまでを批判と捉えるべきなのか、
そしてマスターが語ったようにそれが結果的に其の対象にとって


良い結果をもたらす事を前提とすれば
批判的な行為も許されるのか?


それとも一切の批判は精神的なものとは認められないので
すべきでは無いのかと言うのが私にとってのテーマです。


何故にこの話を
そっくりそのまま受け止めることができないかと言えば


それが批判的な意見であっても、
それは時にも人への啓蒙・警告に繋がるのでは
無いかと考えるからです。


そして悪意に触れないことは
それを増徴させることにも繋がると思うのです。


闇政府支配に関しても日本の中の有志や覚醒者が
あちこちで触れ回ったからこそ今現在は子の程度で済んでいるというのが
私の認識なのです。


組織的犯罪の実態に関しても同様です。


今の日本社会の実態にしても、
特定の人間たち、タブーといわれる物をそのまま放置してきたがために
今のような現状を齎したと言う事を私達は理解できます。


君子危うきに近寄らず。


長いものには巻かれろ。


そんな意識を持った人間達が日本の特権階級の存在を
作り上げたと言っても過言ではないと思います。


批判はだめでも実態を知らせる事は良いのではないのか?


そうも考えますが批判しても実態を知らせても
そんな人間達に与える感情は結果的には同様だと思います。


神の創造物であっても
其の意識が限りなく神とかけ離れてしまっているような
そんな創造物が間違いなくこの社会には存在しています。


勿論、中には理解の足りなさや誤った情報を信じ込まされたことで
暴走へと走る人間もいることでしょう。


その中には、
洗脳含めて誤った価値観を植えつけられ


それを正義や真実と勘違いしては私達の意識を乱して
結果的に神の法則からも遠ざけるよう
誘導しているような人間だっています。


更には端から悪意を持って
他人に危害を加え続けているような
人間まで存在しているのです。


私はこの件についてマスターやアダムスキーに
直接、尋ねて見たいと心底願います。


ただ、例えば日本の中での組織的犯罪行為の一部は
他人への批判の上に成立している事も気がついています。


例えどんな価値観を持っているにしても
やっている人間達の中には自分の行為を正しいと信じている
人間がいるわけです。


それがエゴに基づく誤解や嘘に起因していたとしてもです。


そして他人への批判意識が
その行動の動機の一つにもなっていると想像しています。


「あいつは悪魔だ」
「あいつは悪いやつだ」


そんな勘違い意識であっても、それが思い込みであっても、
それは他人に対しての批判的意識であることは
間違いありません。


そしてそれが組織的犯罪を蔓延させてきたとすれば
誤った批判が社会を乱して来たという事に
繋がるのかもしれません。


そんな人間達と、私達一般人の違いはと言えば
彼らは”私法”を持って他人を裁いていると言うこと。


そして一般人はそんな事はしないと言うことです。


例え心で批判的な意識を持っていたとしてもです。


そして彼らによれば、その”裁き”が組織的犯罪でもあるのです。


もちろんイエスキリストは「他人を裁いてはいけない」と
聖書でも触れていました。


それは神の領域であり、
人間にはその権利など与えられていないからだと思います。


そして万物に対する行動はそのまま自分へと
跳ね返ってくると言うのも宇宙の法則です。
(因果の法則、因果応報ですね)


イエスも「裁かれたくなければ裁くな」
と触れていたはずです。


私個人の立場でこの話を取り合げると
彼らと同じレベルで遣り合っていると評価されそうですが


過去の経験からしても、
放置しておいて被害が酷くなることはあっても
無くなるとは思えません。


それは私に対しての攻撃が
私のネット環境と合わせて強化される行為にも現れています。


それに、批判的と言われそうな広報や情報であっても
それを一般に知らせなければ
彼らの暴走はエスカレートするばかりだと思います。


放置しておくことで
善良な一般市民は彼らの都合の良い意識へ
誘導されることになりますし、


灰色の意識を持った人間や誤った価値観を持たされて
半ば意識を壊された人間たちの手による社会が実現されてしまいます。


その社会の中では覚醒の可能性のある一般市民すら
壊される事になりかねないと思います。


つまり自由意志で人が覚醒する機会を
彼らは私達から永遠に奪いかねないのです。


極端な話をすれば、壊れた人間がさらに一般市民を壊して歩けば
地球の人間は誰も永遠の転生へと進む事ができなくなるのです。


良くて、地球での人生を記憶を失った状態でのやりなおし、
悪いと魂の消滅を迎える事に繋がると思います。


そう考えると、この件に関してはアダムスキー直伝の話であっても
どうしても素直に受け止めることができないのは
私の理解が足りなすぎるためなのでしょうか。。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
批判が理解へと変わると言うアダムスキーの話を
私が理解している範囲で説明しておきます。


例えば自分の価値観を押し付けでも、
物事に何かと口を出しては命令してくる人間がいます。


やり方や手順含めて、全てを自分の手法そのままに押し付け
それ以外の方法をも認めようとしないような人間です。


これを”心”で見つめると
横暴な人間、自分勝手な人間と評価する事になるかと思います。


しかしここで”精神”を使用して見つめると
其の行為は必ずしも単純なエゴからだけではなくて


例えば、「自分が信じている其の方法こそが一番だから
それを実践して貰いたいのだ」


と言う一生懸命な気持ちであると捉える事もできます。


「相手に早く自分と同じような能力を持って貰いたい」


という意識が前面に現れている行動と言うことも
あると思います。


もちろん、先のほうが”批判”で後の二つは”理解”です。


アダムスキーは他人や物事を見つめた時に
批判的に捉えるのではなくて
それを理解する事が大切だと触れています。


つまりは今の例えのような事を指しているのではないでしょうか。


他人を騙してお金を得ているような人間に対しては


「酷いやつだ」と考えるのが心の動きで


それを
「彼の生きるための手段なのだろう」


もしくは
「彼は宇宙の法則を理解できていないのだから仕方が無い」と
と受け止めるのが理解でしょうか。


騙されて暴走いている人間に対しては
「騙されて可哀想だ」と感じるべきなのでしょうし


「正義感が強く情熱的ゆえに攻撃的にもなるんだ」


と感じれば良いのかもしれません。


「組織の命令で本人もやむを得ずやっているのだろう」


と受け止めれば良いのだと思います。


ただ、其の行動や理解がそのまま地球規模の運命にも
関わって来るような状況で、


半ば洗脳されロボットのごとくなっている人間含めて
それを理解してやる事が、


そしてそれを見守ることが、
地球全体の利益となるのであろうかと考えれば疑問なのです。


しかも私であれば彼らの行動を放置して置くと、
記事を書いて覚醒者を増やそうと言う行為すら
妨害されることになります。


被害コメントを書かなくてもそれは変わりません。
彼らが私に書かせたくないのは本質的には記事なのです。


(私が記事を書いて広報する行為は
神の意思に叶っている行為だと思いますが)


(身近な加害工作員達は私を甚振るのが自分の目的で
記事妨害は組織の目的ではないかと想像しています)


そして彼らの中には私の存在こそが邪魔だと認識している
人間達がいるのです。


彼らを理解をしようとすればいくらでも理解はできます。


中には私に危害を加えている人間をたしなめているような
人間がいるらしいことも気がついてはいます。


しかし組織的犯罪を繰り広げている人間や
闇政府の傀儡と化して暴走している人間達を放置すると言うのは
やはり別な話になると思います。


もしかしたら私達の社会は
ブラザーズたちの想定している社会を絶する
凄まじい状態へと変貌しているのではないでしょうか。


もしもここにマスターがやってきても
地球は何も変わる事は出来ないのではないかとさえ
考えてしまいます。


この社会を変えるきっかけが出来るとすれば、
イエスキリストやその弟子だったアダムスキーが再臨して


世界で一番多いと言われる”クリスチャン”の
意識を変えてくれることしかないと思います。


以前も触れましたがアダムスキーはクリスチャンではありません。


”イエスの教えの信奉者”としての立場をとっています。


イエスの12使徒のうちのヨハネだと言われる
アダムスキーがクリスチャンではないのです。


そして私もそれこそがあるべき姿だと感じています。


私が”真性”クリスチャンだと触れるのは
自分がイエスキリストの正しい教えの信奉者だと
考えているからです。


そして皆もそうなって欲しいと願っていますし
そのためにも記事を書いています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

話はかわります。


動物達は私達人間と異なり
自由意思なるものを持っていないそうです。


本能的といえば語弊があるかもしれませんが
彼らはその殆どが神の意識に基づいて生きているようです。


人間が関わる事で彼らにも人間の想念が
大きな影響を与える事になりますし


人間ほどのものでは無いようですが
微々たる心のような物は持っているようです。


そのために人間の身近にいる動物はおそらくは野生の動物とは異なり
それぞれが個性を持って見える事になるのだと思います。


(高等生物ほど心に近いものを持っているようではありますが
明確な記述が見当たらないのです)


愛情たっぷりに買われている動物と
虐待され続けている動物とでは受け取る想念も異なるのか


それとも体中に付着している想念や
体験に基づくものが異なるためなのか


やはり心に近い物をかろうじて持っていて
そこに自分なりの意志に近いものを持つことになるのか
私達人間に対しての対応も異なることになります。


ただ、本来の動物は人間に対する警戒心も恐怖心も
持ってはいないという話をブラザーズがしていたようです。


人間と同じ環境で暮らす中で、
人に虐待された経験を持ったり
人間社会の荒れた想念を感じる羽目になり


動物達も時には獰猛になるのだと言う話です。


金星あたりの動物には獰猛なものは存在しておらず
動物は穏やかな性格をしているとアダムスキーは触れていました。


自由意志で動いているわけではない動物でも
勿論想念は感じています。


感じるどころか彼らは精神を元に活動をしているわけですから
想念を感じるのは当たり前と言うことのようです。


そして実は動物同士の会話には
テレパシーが使用されているそうです。


鳥や猫や犬と言った動物同士が
声など出さないのにお互いに合図でもしたかのように
一斉に移動し出す。


そんな光景を見た事もあるかと思います。


彼らは精神を利用しては
イメージで情報をやり取りすることができるそうです。


アダムスキーは犬と猫を使って面白い実験をしたそうです。


其の家には犬と”耳の聞こえない猫”がいたそうです。


家の人間が、わざと犬の手に届かない高さの
テーブルの上に食べ物をおいて放置すると、


犬は暫くはそれを取ろうと努力するのですがやがてそれを諦めて
猫が寝ている場所に向かって行ったそうです。


その後そこで猫と見詰め合うわけです。


すると猫はすべてを悟ったかのように
テーブルのところにまでやってきては


テーブルの上に飛びあがり食べ物を下に落とし
その後再び寝に戻ったそうです。


勿論犬は喜んでそれを食べたそうです。


何度やっても同様の事を繰り返したようですが
少なくとも猫は犬から何らかの意識を受け取ったことになります。


(二度目以降は単なる学習と説明する事もできますが
一度目は学習では説明できません)


彼らがテレパシーを使用しているであろうと言う事を
髣髴させる話です。


彼らは常に精神を感じている存在なので
テレパシーでイメージでやり取りをしていると言うことだと思います。


一方人間は神様に試されているようです。


私達に与えられた自由意志は人間特有のものだそうです。


それは心に基づいて行動をするか
神の意識に基づいて行動するかの
その選択を可能とするもののようです。


私達が行動するにも
自らの意思をその行動に反映できるのは
その自由意志の存在のためのようです。


そしてこの自由意志は生活環境のためか
私達人間では通常心に直結しがちでもあるようです。


しかし一方ではこの存在が私達が神を感じるための
大きな障壁にもなっているようです。


自由意志を与えられている私達は
心なる存在と精神なる存在を
自ら選択して行動することにもなります。


そしてこの社会で言えば私達の其の行動の殆どは
心が齎す物でもあります。


つまりエゴで生きるも精神に従って生きるも
それは私達自分しだいですが
私達は自由意志を心に直結しているような存在だと言えます。


そして地球ではその自由意思なる物の存在のために
精神を感じる事ができなくなっている人間で
あふれる羽目にもなっています。


自由を頻繁に主張しては
自由であることが権利であり素晴らしい事であるかのように
吹聴する人間たちもいますが


自由なる物はそれをどう受け止めるかと言う
人の意識にもかかわる物だと言うことが


心と精神の選択をするという自由意志の存在からも
私達は理解することが出来そうです。


そしてこの自由意志なる存在は
神が私達に与えてくれた試練でもあると言えそうです。


この存在が神の意識である精神を感じることの
障害ともなっているからです。


自由意志を持たない動物達は、
心と精神の選別と言う行為とは無縁に近いと言えますし、
彼らはほぼ精神に従って生きているそうです。


しかし人間はそこからかけ離れた状態にさせられているのです。


一方この試練を乗り越えれば永遠の転生が待っているわけですから
その見返りも大きいともいえますが、


今のこんな社会においては
”自由”こそが一番の価値観のように触れられているのですから


その自由意志を持って私達の心にとっての
不自由を選択する様な行為は難しく、


それゆえに覚醒する人間も少なくなってしまうのでしょうね。


神が人間に自由意志を与えたその理由は
私達がすべて本能と精神で動くのではなくて


自らが思考し体験しそれで行動を起こすと言う存在に
私達を作り上げるためだと思います。


そして私達は神の意識と言う100点満点の行動と
心に拠るそれとは異なる行動の選択が認められています。


そこから神に近づくことが出来るのか
そこからかけ離れることになるかも
結果的には自らの意志で選択していることにもなります。


おそらくは神は沢山の分身の中から
自分の理想とする人間に近づける資質を
探しているのだと思います。


もしくはそうなるように全ての人間を鍛えていると
言うことかもしれません。
(あまり鍛えられたくはないのですが)


そしてその意味では
その後神が人間を選択すると言うことに
なってしまうのかもしれません。


しかし私達には神に選ばれるための機会が
繰り返し与えられています。


その間には神の事を学ぶ機会も
宇宙の法則の欠片にも触れることもあるわけで
おそらくは全員が平等にそんな機会に恵まれるのだと思います。


でもその機会を生かせなかった魂は
神の法則の社会では不合格である。。


そういう事かもしれません。


しかし15回1000年もの期間
延々と神の意識からかけ離れて生きている存在は


平和と調和を乱す存在でしかありえない事も
いうまでもありませんし、


神の分身であっても、それが神を無視して暴れだせば
それを抑えるのも神の法則なのだと思います。


勿論それは極端な話で
神の法則の厳しい側面に過ぎないと思います。


私達は宇宙意識に基づく体験を繰り返せば
限りなく全てに於いて神のような意識と能力を持った存在へと
近づいていく事も出来るのです。


人間として生を与えられたことを光栄と思い
その機会を十分に生かすも


自由意志に身を任せて心を選択し続けて
心が気持ち良いと感じることを繰り返すも


勿論神の前では自由なのでしょうが
その結果何が自分にとって一番なのか、
それを考えて行動する事ができるのが覚醒者。


そして宇宙の法則の存在を知った人間は
皆その選択権を得たことになっているはずなのですが。。


後はやはり本人の”自由意志”が魂の行く末を
決める事になるのだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
P.S.


最近は聖書のマタイの福音書を記事で下書きしています。


私はイエスキリストの言葉の奥深さを
今こそ身をもって感じているところです。


覚醒者は、聖書をブラザーズの気配を感じることと
イエスの言葉の真意を読み取ることこそに
利用していただきたいと思います。


多くの神や神の子としてのブラザーズの気配を
旧約聖書からはひしひしと感じることになります。
(当時の二つの勢力をもそこから感じるはずです)


不思議なのは何故にイエスキリストを信奉しながら
現実にはその行動が伴っていない人間達が
世界中に散乱しているのかと言うことです。


争いや批判や戦争をしている人間達にとりわけ
それを言って遣りたいです。


イエスは”争うな””戦うな””嘘を付くな””人を殺すな”
とも言っています。


しかし今の世界では”神の冒涜者”だと言っては
それを叩く人間、


戦争の結果に神の祝福を願う人間で満ちています。


そんな事をイエスキリストが願っていない事も
弟子の記述からもよく理解できます。


ブラザーズは
「あなた方は兄弟を殺すために
神の祝福を求めているのだ」


と話していました。。


それとイエスキリストの例え話の内容に
イエスの頭の良さをつくづく感じてもいます。


私達も生命の科学を学んでいることで
ずいぶんとその真意が読み取れるようになっているかと思います。


そして理解が深いほど
その受け止める内容も奥深い物となるようです。


巻いた種が100倍に実るの例えもありますが
私達はイエスの一つの言葉から
100を学べる人間になって生きたい。


そう願いながらイエスの言葉を懸命に考えている日々です。


記事でも紹介しますが、時間があれば
ネットでも聖書を取り上げているサイトがありますし


キリスト教の聖典としてではなくて
イエスの言葉を知って理解する道具として
それを使用していただければ幸いです。


偉大なるもう一人のマスターの言葉が
そこには詰まっています。


(マタイ、マルコ、ルカの福音書が良いと思います。
ヨハネの福音書に関してはアダムスキーの記述となるのでしょうが
どうも改ざんが大きく混じっていて事実の選別が難しい気がするのです。

しかも他の使途の30年後に編集されたと言いますし
参考程度にするのが良いと思います)


【その時は悪霊のお払いに関しては”取り合えず”無視してください。】