生命の科学 VOL16 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

またも薬品が撒かれています。


異物作成の準備なのか
同時に腹部の圧迫も頻繁にあります。


昨日の分も未だ解放されきっていませんし
最悪、腸の中には更なる量の異物が出来上がる事になるかもしれません。


A.M11:45



朝から腸内に異物まみれの排泄物で満たされていて
息苦しい状態が続いています。


意図的に圧迫も続けているようですし
量が多い分電磁波照射も楽なのだと想像しています。


下腹あたりに異物まみれの排泄物をセットしての
その近辺への熱照射を感じています。


昨日は胃腸こそ最悪でしたが
昼間は脳への関与は殆どなく私は不快感を感じながらも
穏やかにすごせました。


すると真下の工作員は
それではいけないと考えたようで
胃腸の圧迫だけでなく脳への関与が再び激しくなっています。


記事も書けなくなるような思考能力低下と
苛々の促進を誘導されているようです。


髭の急激な伸び方と頭の不快感からすると
またしても寝ているときから延々と


私の神経を逆なでするために、苛々させるために
脳に色々な関与を仕掛けているらしいことも判ります。


とりわけ狙われているのが男性ホルモン強化と
性的欲求不満を引き起こすことで
苛々を強化する手法のようです。


性器や睾丸、更にはそれに関わっていそうな
脳の特定部位への照射も続いています。


この工作員は、兎に角
私を苛々していて態度の悪い嫌な奴に
仕立て上げたいのだと思います。


これも保身のためなのか
結果的には自分のため、組織のために


私の脳までいじっては陥れているようなものですから
まったく心無い人間達だと思います。

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自分達が生きていくことしか考えていない人間たちが
日本中で暴走している。


特定の価値観に踊らされた人間達が
暴れている。


私には今の日本で起きている多くの出来事が
その延長に存在しているような気がしてなりません。


最近は事件や事故や人の死に関する報道も多いですが
その中には恐らくはそんな暴走と無関係ではない
実は目に見えない事件も沢山存在しているのではないでしょうか。


いつ、その矛先が自分に向けられるかわからない。


その事を自覚して心の準備・卒業の準備をして欲しいと
心から願っています。


流石に多くの方が
今の日本の実態に気が付かれて来た頃かと思いますが
私たちには為す術はありません。


予防は必須ですが難しいことだと思いますので
いつも心の準備だけはしていて欲しいのです。


精神を感じる練習、
宇宙の法則を理解し実践する事。


お願いですから実践して欲しいと思います。


とりあたって日本人の血を強く引いている人間と
組織的犯罪被害者と
闇政府の関係者に睨まれているような人間は要注意です。


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テレビ受像機があれば動く画像が室内で見られるほどに
そしてラジオという増幅器があれば空中を流れる音響や
音楽を聴けるほどに人間の心は発達しています。


視覚や聴覚以外の感覚器官でもそうです。


しかし意識が肉体を離れたなら我々は肉体が死んだと考えます。


ところが人間の心の機能が失われ、
感覚器官の全てが極めて鈍くなりながらも


意識が存在する限りは本人は生き物であるのです。


これでもって心は別個に存在しえる事がわかりますが、
心は独立して存在することは出来ません。


人間のこの二つの面を考えて見ますと
それは一人が他方に頼りながら一軒の家に住んでいる二人の人間に
例える事ができます。


一方は心で他方は意識です。


意識は宇宙的性質を帯びていますが、心は世俗的です。


世俗的な心は、想像主を伴う一致和合が実現するまでに
宇宙的な意識と融合することを知る必要があるのです。


その融合をなすためには、
あらゆる行為の背後にある原因がなんであろうと
その原因について心に考えさせられる習慣を養う事が必要です。


そして各行為がたんに過去の体験からきた習慣で
純粋に心の欲望の表れであり自己中心的な行為か、


それとも人間が達成しようと努力しなかればならない
宇宙的な性質の物かを分析する必要があります。


表現されるのが何であろうともその表現体の
生命としての意識を心に認めさせ、尊敬させねばなりません。


意識は万物や人間を尊敬させるものではなく
それは大体に行為に対して自分を貸しているだけです。


意識自体は善も悪も知りませんが
その指導の手はわれわれが善と呼んでいるものに
常に差し向けられています。


意識からくる印象類に対する心の誤った解釈は
我々に悪い結果を与えます。


大体に心は他から指令される事を好まず、
自分勝手に行動しています。


ある場合の心は熱いストーブに触れるとヤケドをするぞと
教えられて居る子供のような物です。


しかし子供はそういわれることを望みません。


そこで手にヤケドして苦しい目にあいます、


しかしこれがつらい学習法であるにしても本人はその体験を持ったわけです。

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アダムスキーがテレパシー入門でとりあげていた
心と精神の接近を齎す方法に以前触れました。


自分の一日の行動を書き出して、それを心の動きによるものか
精神の働きによるものであるかを分類し
自分の心を抑制する練習です。


正直言って、私は実践できていませんが
自分の心の動きと精神の動きを認識するためには
有効なのだと思います。


アダムスキーの著書では、
私達が何よりも苦手としているものがあることを
ブラザーズは指摘していました。


それは”感情を抑制すること”です。


私はその事を身を持って実感する羽目に遭い続けていますが
地球の人間は感情を抑える事を一番の苦手としているそうです。


それは私であれば環境柄もあり、怒りの感情ですし、
人によっては恐怖や不安の感情かもしれません。


ブラザーズ達は明るく微笑んでいるのが常のようですが
アダムスキーが彼らから感じたのは、


彼らは喜びや楽しいと言う感情ですら
表に強く出す事はないという事でした。


アダムスキーの著書の中から感じる事の出来る
彼達の言動から読み取れる感情は
地球人に対しての同情の意識やアダムスキーに対する人間愛の意識


神やマスターに対する尊敬の意識などで
それほど種類は多くはありません。


しかしその全てが穏やかな物のようです。


そして地球の人間にとって、
精神を感じるに当たって一番の弊害となっているのは
どうやらその感情を抑える術を知らないと言う事になるのだと思います。


私達が心と精神を同時に働かそうとした時に
その理由は判る事になると思いますが、


感情が表に強く出るのは
私達が心に強く支配された状態であるからだと思います。


つまり感情が暴れだすと私達は精神を余計に感じ難くなる、
もしくは私達であれば精神を感じる事を忘れがちになるのだと思います。


そしてその間の行動は心によって決められる事になり
もちろん、その結果は精神の導きによる物とは異なりがちとなる。。


つまり感情と言うものは、私達に”心”を強く感じさせる
原因にもなるのだと思います。


勿論、無感情になれば良いという話ではありません。


ブラザーズの語る神の意識は
慈愛と深い理解に満ちた存在であると言う事なので
精神もそれと同じ意識を感じているはずです。


私達は自分の心がエゴで固まっている事を理解していますし
感情はその心の意識の表れである事も何となく理解できます。


でも、今の私達は、感情を抑えることなく表に出し続けていたり、
自分の心の中でも押し殺すことが出来ずにいると
それは精神の動きを妨げる事を理解できるはずです。


ブラザーズは無知な私達に危惧して
その事を指摘してくれていたのだと思います。


先述のアダムスキーの触れていた心と精神を接近させる手法は
いかに自分が心によって行動しているかと言う事実や


感情を元に行動していると言う事実を
後で反省させるためにも効果的な手法なのだと思います。

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私達の中の”精神”と言う存在は
自らがその存在を主張するものではないと言う事を
アダムスキーが触れています。


私達は行動をする時に何も意識しなくても
常に心がその存在を主張していますから


気分の赴くままに行動する時は
私達に対しては心が指令を出している事になります。


心は精神とは異なり、私達がご機嫌伺いするまでもなく
その存在は自分を勝手に主張しているのだと言う事だと思います。


一方精神は存在こそしていても
それは全く自己主張しないために


その主張を知りたければ、私達は心の動きを抑えて
その精神の意識を自ら感じる必要があるわけです。


その時にも心はその行為を妨害する事になるようです。


心は私達のプライドの固まりでもありますし
自分の意識こそが正しいと私達を誘導するはずなのです。


心が如何に身勝手であるかは
私は自分を通じても良く理解できます。


心は他人の意見をも聞こうとはしないからです。


それが絶対に正しいのだと確信ある事に関しては
意思を貫き通す事も大切だと思いますが


通常は私達の心が物事の100%の正解を導く事は
不可能だとおもいます。


心の誘導が100%正解に近いと言う事は、
それはそのまま精神と心の意識が重なっている事になるからです。


そしてその意識は神に近いと言うことにもなります。


エゴにまみれ、心に揺り動かされ、精神を理解できず、
神の意識、宇宙の法則からかけ離れた私達は
当然何事をも容易に正しく実行する事はできないはずです。


となれば当然、自分の心の考えた行動よりも、
行動に対して他人から受けるアドバイスが
実は精神の誘導するであろう答えに近い事もあるはずですし


人の言葉に耳を傾けなければいけない場面も当然出てくるかと思います。


しかしアダムスキーが触れているように
私達は得てして他人に指示される事を嫌う傾向にあると思います。


そのような時の多くの場合は、その結果を自ら体験していないが故に
心が納得しない事に由来するのだと想像出来ます。


アダムスキーが子供のやけどに例えて
痛い目にあって学ぶ事に触れてくれています。


例えば今頻繁に起きている詐欺事件があります。


金融詐欺などは人の欲を巧みについては
人から金を騙し取る手法ですが


もしも
「100万円が一月で二倍になりますよ」


などと言う旨い儲け話があったとします。


TVでの詐欺の知識のある方や
世間の金融機関の利息等の一般相場が理解できていれば
そんなうまい話は有りえないと言う事を即座に理解します。


しかしそんなTVからの詐欺知識も金融知識も無い人間であれば、
そしてお金に対して執着があるような人間であれば
それを信じてしまう可能性もあります。


頭の中がうまい儲け話で一杯になり
一月後の儲けたお金の使い道でも考えている人間に


「それは危険だから止めたほうがよい」


と周りの人間が意見をしたとすると
その人間は少なからず不満の意を示す事になるはずです。


詐欺のうまい口上にすっかり乗せられていて
本人はすでに一月後の百万円の増加分を
夢見ている幸せな気分なのですから


その夢を潰される事になるからです。


しかしその時に警告をしてくれた人間の言葉を
冷静に聞く事が出来たとしたら
その投資話を怪しいと理解してやめる事もできると思います。


一方では欲に駆られてしまって
警告の声を受け入れる事が出来ない人間であれば
その声を不快としか受けとる事はないでしょうし


結果的には投資をして後で痛い目にあって
初めて自分の行動の愚かさを知る事になるのです。


ここでは欲に暴走した自分の行為は”心”の表れであり、
警告をくれた声は精神ではありませんが
限りなく精神に近いアドバイスです。


その声を無視したがために自分は痛い目にあって
初めてその精神の声の正しさを認識する事になる。


こんな経験はする必要はありませんが
少なからず身をもって体験しないと心が納得しない
そんな事象も存在していると思います。


時には痛い目に遭ってその経験に基づいてそこから学ぶことも、
行動しないで学ばないよりは大切なのかもしれません。


そして今現在の私達の究極の目的は
心と精神を限りなく接近させることで


意識を宇宙意識、神の意識に少しでも近づけさせる練習を
繰り返すことですから、


感情を抑える事で心の暴走を抑える練習や
深く物事を考えてから行動するような事も有効だと思います。


そしてそれは私が一番苦手としていることでもあります。


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私事で感情に関して触れてみたいと思います。


高いプライドやエゴが怒りの原因となる事は
私も良く理解しています。


とりわけ若い頃の自分は見栄っ張りでしたし
とても高いプライドに踊らされていたからです。


自分はこれだけの能力がある。。


自分はもっと色んなことが出来るんだ。


そんな意識を持ちながら、生きていたと思います。


悪意の無い嘘であっても
それは自分を美化するためであった。。


今から思えばそんな経験もあります。


要するに見栄っ張りでもあったのでしょうね。


自分を正しく評価して欲しいと言う気持ちは
誰でも当たり前に持っているかと思いますが、


プライドが高い人間は
自分を過大評価してもらいたい、自分を大きく見せたいと言う
意識を持っている事も自分の体験から理解できます。


そして同時に恥を掻く事をとても嫌います。


若い頃の自分が激怒した事を思い起こすと
その多くが自分を馬鹿にされたとか
過小評価された事に対する不満が原因だったような気がします。


そしてそれは心が持っている高いプライドのなせる業であることも
今では良く理解できます。


更に、他人に対して依存したり、他人に物事を期待する態度も同様
不満や怒りの原因になると思います。


そして私の自覚している二台弱点のもうひとつも
まさに他人への期待や依存心にあります。


「自分を判ってくれるだろう」という意識を持ったり、
他人に対して何かを期待しては
それが裏切られると不機嫌な気分になる。


若い頃は頻繁だったような気がします。


ただ、私の場合は元々自分に甘いだけでなくて
他人にも甘い人間でしたし


仕事や行動では不正以外の理由で他人を責めた事も
ほとんどありません。
とりわけ勤勉さを他人に求める事は一切ありません。


求めているのは常に精神的な物だったようです。


他人への依存心や期待が大きい人間は
他人が自分の要望に答える事を強く願うと思います。


そしてそれが叶わないと怒りの感情を抱くことになるわけです。


更に、私の場合は、
自分に対しての甘さもなかなか消す事ができず


それはやはり自分可愛さゆえのエゴに基づいているのだと
今では理解できます。


今ではプライドはボロボロのズタズタでその殆どは捨て去っていますし、
他人に物事を期待して勝手に裏切られたと感じて
怒ることもありません。


残っているのは自分への甘さです。


今なら私の怒りの原因の多くは
不条理を許せない妙な正義感がその中心にあります。


もう一つは肉体や脳といった自分への加害行為に対する怒りです。


怒りの感情を意図的に刺激されて生きているわけですし
今現在も神経を逆撫でされながらこの記事を書いています。


怒りんぼはなかなか全てに関して寛容になれるものではないようですが
これでも環境を考えればその怒りの対象が妙な正義感と加害行為に対するものに
狭まっている事は一応は成長なのかもしれません。


ただ、加害行為が一年中なので
いつも怒らされているような状況ではありますが。。。


この社会で多くの人間が偉くなりたいと願っていたり
勝ち組負け組みなどと言っては
社会の中での立場を重視しがちなのは


勝ち組と言われる人間達が
経済的にも裕福で社会的地位にも恵まれていることに
由来すると思います。


社会的地位が高い人間は
周囲にちやほやされるので、心が気持ち良いのでしょうね。


勿論、それは地球独自の価値観に基づく意識であり
私たちの心(エゴ)に起因するものであることは
いうまでもありません。


金持ち喧嘩せずと言いますが
要するに周囲が気を使ってくれるので
神経を逆なでされることも少ないでしょうし


経済的に貧窮することもないので
心にゆとりがもてると言う側面もあるのだと思います。


それは金持ちが心が広いとか人格者であると言う事には
成らないと思います。


しかしそれでも恐らくは怒りの感情は
実はしっかりと抱く事になると想像しています。


人間の欲は際限を知らないからです。


心地良い思いをし続けると心はその環境に慣れて
それが当たり前になる。。


心は心地良さを感じなく成るのだと思います。


すると今度は以前なら苛々しなかった些細な事柄にも
不快感を示すようになる事もあると思います。


結局は心が変わらなければ
金持ちになろうと社会的地位を得ようと
人の感情は抑える事は出来ないのではないでしょうか。


更に、私が失いつつある感情が
人間への愛情と、悲しみの感情です。


私たちが一番持たなければいけないものこそが
この愛情だと言うことです。


イエスキリストは万物への無償の愛を説いた存在ですし
本当のクリスチャンはその教えを受け継ぐべきなのだと思います。


私くらい心が狭いと、本来愛すべき他人に
さまざまな迫害を受け続けると人間自体が嫌いに成ってしまうようです。


それは結局は他人の悪意から
自らを守る意識の表れなのだろうと考えています。


そして恐らくはそこにはエゴが強く働いているのだと思います。


悲しみの感情に関しては、男として悔しくても辛くても
それを表現したくないと言う意識が強く


すべてを怒りに置き換えてきたと言う
経緯にも関係しているようです。


つまりは私の場合は喜怒哀楽の感情のバランスが
とても悪い人間なのだと思います。


そしてこれは人間として精神を感じて生きるにあたり
良くないことであろう事も言うまでもありません。


こんな私の意識を反面教師として
ぜひ心を安定させ強い負の感情は持たないようにして
日々暮らすことをお勧めしたいです。


宇宙の法則を実践して精神を感じるためにも
強い負の感情を持たない様にすること。


精神(神の意識)が本来強く持っている
愛情という感情を豊かに持てるようになること
とても大切だと思います。


と言うことで、私達は感情の起伏を抑えることも
練習していきましょう。。。


と言う話でした。

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P.S.


右の頬を打たれたら左の頬を出す。。


身包み剥がれたらズボンまで与えてやる。。


そんな意識にはとてもなれない自分が
さびしくもあります。


自分の敵のために祈るとか
自分の敵を愛せと言うことは


私の場合は自分に加害行為を仕掛けてきている人間達に
愛情を注げと言われていることに成るのでしょうが


それが如何に難しいかと言うことを
日々身をもって感じているのです。


イエスキリストは偉大でしたね。


そしてその意識を受け継いだ
アダムスキーも同様です。