野良猫(野性トラ)と映画「ライフオブパイ」 | クラスタ民主主義システム研究室

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☆学習とディベート☆ ☆ネットワークデモクラシーを夢みて☆ 
☆教育ディベートを推進しよう☆ ☆「complex system」で思考してみよう☆「ネットワークデモクラシー(Demoex)研究室」からタイトル改題しました。 

ご存知のとおり、私は複雑系(complex system)で考える努力を続けてきました。複雑系は、集団とその要素と集団を境する境界線で考えることができます。境界線を大きくしたり小さくして、集団の大きさを拡大縮小することで、物事の相似性を考え、世界をフラクタル化するのです。


映画「ライフオブパイ」では、TSIMTSUM(ツィムツーム)号という日本船が出てきます。このTSIMTSUMは正確にはTZIMTZUMと言うようですが、カバラ思想では「縮小」を意味しています。世界が縮小したところにも世界がある…といったイメージで良いのでしょう。これは現代で言うフラクタル化と同じ意味だと思います。


TZIMTZUMを検索すると、車輪のイメージが出てきます。カバラは古代ユダヤの源流ですから、中近東に存在したイメージなのでしょう。これについては、今後、調べてみたいと思っています。車輪は、ヒンズー教でも像の題材になりますし、日本でも三つ巴といった車輪のイメージがあります。


クラスタ民主主義システム研究室-光の車輪


映画ライフオブパイにも神話の像が出てきます。主人公のパイがヒロインのダンスを見ている時の背景に、その像はあります。輪の中にいるシヴァ神が輪を廻しているような像です。舞踏の王、シヴァ・ナタラージャの像と同様のものだと思います。


シヴァの姿は、裸体に虎の皮を纏い、首には数珠と蛇を巻き付けた姿で描かれることが多いので、映画ライフオブパイに描かれているトラは、シヴァ神の化身を暗喩しているはずです。ですから、映画のオープニングではヘビも出てきたのでしょう。創造と破壊の神、シヴァ神の別称である舞踏の王、シヴァ・ナタラージャ…ダンシング・シヴァというわけです。


ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教には、似たところがあります。「三」とか「五」といった数字を重んじますし、満月や独楽(コマ)や輪といった円形を重んじます。キリスト教の三位一体は父と子と聖霊ですし、ヒンズーの三神は、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァですし、仏教でも三仏をまつりますし、神道も三神を祀ります。このように、世界の様々な信仰には、こうした相似性を見い出すことができます。


「三」や「五」は自然にもありますね。

花弁が三つのあやめ、花弁が五つの梅…

自然界には三元や五元の円形が存在しています。


様々な宗教のルーツといえる古代信仰には、三、五、六といった数字があり、円形があり、車輪のように廻るイメージがあります。こうしたイメージには、二元、三元、五元、六元といった次元と、円形が廻るという概念が込められているのだと思います。


この映画のエンドロールでも、ランゴリの絵柄が廻るんです…






前回の記事で自由と映画ライフオブパイ について書きました。


野良猫みたいに自由に生きたい、野良犬みたいに自由に生きたいと、人は、良く野性に自由を夢見ます。だから、野良というわけではないでしょうけど、野性に憧れ自由に憧れるわけです。


映画「ライフオブパイ」でも、成人した主人公が「野性=トラ」について語る部分があります。母を殺したコックは道徳や節制には無頓着で野蛮だったわけですが、いかだを造って魚を獲る知恵を持っていましたし、獲物のネズミを天日干しして保存食にする知恵を持っていました。その野蛮で野性的な知恵のおかげで、主人公パイも生還できたわけです。


だから、人は野生に憧れ、自由に憧れるのかもしれません。


しかし、人間は、現代社会に生きる限り、野生で自由に生きることはできません。必ず「公共」の恩恵の下に「飼い猫」として生きているのです。


つまり、人間は飼い猫でいる限り、自由を謳歌して、好き勝手に生きることはできないと考えるべきでしょう。


それに、野生の野良猫やトラは、自由に遊び、自由に楽しんで、生きているのではありません。野性の自由は、誰の束縛も受けず、自ら選択して、生き残るためにあります


野性では道徳も無く、何の節制も受けないのは、自由の下に生き残り、生命サイクルを廻し続けて行くためでしょう。


野性の自由には、楽しんだり、遊んだりしている暇はありません。


生きる目的を全うするために「野性の自由」は存在しているのです。




では、飼い猫や飼い犬は、なぜ存在しているのでしょう…


飼い猫や飼い犬は、とても人間的ですね。


飼われていると、自分だけでは生きれませんし、ネズミも獲らなくなり、猫も追わなくなって、本来の仕事をしなくなります。


自由に楽して遊んで暮らし、人間と共に生きる…、人間と共生する動物になっているわけです。


動物が共生すると、人間的になり、誰かに食べさせてもらい、自由に楽して遊んで暮すようになる…


飼われた動物が、飼い主に媚び、飼い主のご機嫌を伺うのは、公共の下に共生する宿命なのかもしれません。


((養われる動物の救いは、愛が生まれることである…という論点は後日解析します。))



最近では、飼い主が飼い猫に餌を与え過ぎるため、生活習慣病になる犬猫が増えています。


欲望のままに食べすぎ、肥満し、運動不足になり、高血圧、糖尿病…、まるで人間そっくりですよね。


そうやって、生活習慣病で早死にする犬猫は、幸せな一生だったのでしょうか…


自由に、好き勝手、食べたいだけ食べ、好きなことをして、早死にして幸せなのか…


生活習慣病にしてしまい、早死にさせたのに、もっと生きてほしかったという飼い主…




人間は、自分のためだけに生き、自分勝手に不健康して生きるより、健康に一生を全うし、野性本来の目的のために自由を活用し、自然な姿で己以外の生命のために生きる方が、幸せだと思うのです。


飼い犬も、飼い猫も、飼い兎も…


そして、公共の下に生き、自然の下に生きる、人間も…


人間は、自然によって生かされている飼い人なのですから…


ウサギ