「カルチェ・ラタン」/神は存在なりや? | 旧・日常&読んだ本log

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2005年3月10日~2008年3月23日まで。

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佐藤賢一「カルチェ・ラタン」

時は16世紀、舞台は学問の都、パリのカルチェ・ラタン。主人公は、今ひとつ世慣れない、童貞のパリ夜警隊長ドニ・クルパン。ドニは親の威光で夜警隊長に就任した、裕福な商人の次男坊。

この物語は「ドニ・クルパン回想記」という体裁をとっていて、巻頭と巻末には、ドニ・クルパンの子孫による序文や、「ドニ・クルパンとその時代」と題する佐藤賢一氏の解説文が載せられている。巻頭と巻末はちょっと堅苦しくもあるのだけれど、始まってしまえば、中世のフランスが生き生きと描かれる。

ドニ・クルパンは親の七光りで隊長になっただけあって、部下である隊員たちにもなめられてばかり。もともと彼はあまり優秀な方ではなく、学生時代の家庭教師、マギステル・ミシェルには「泣き虫ドニ」などという不名誉な渾名を進呈されている。

夜警隊長であるドニは、彼の管轄内で起こった事件を解決しなくてはならない。ドニは名探偵ばりの頭脳を持つ、マギステル・ミシェルに助けを求め、彼を職務に引っ張り出す。ミシェルは、眉目秀麗、頭も切れるが、女たらしの破戒僧。ドニがミシェルに泣きついた日も、彼は印刷屋の美貌の未亡人、マルトさんの所にしけこんでいると思われた。

ドニとミシェルはコンビを組んで事件を解決していくが、一つ一つは関係がないように見えた事件は、実はパリを揺るがす大きな一つの事件に収束していく。

これは「泣き虫」ドニの成長物語でもあるし、この時代の神学の砦であるカルチェ・ラタンを舞台としているだけに、カトリックとプロテスタントの対立が描かれ、宗教改革の嵐が吹き荒れる、この時代の学僧たちの青春群像であるとも読める。神の時代ではなく、人間の時代が来たときに、マギステル・ミシェルは、ジョン・カルヴァンは、フランシスコ・ザビエルは、イグナチウス・デ・ロヨラはどう行動したか?

最初は女たらしで、ドニに皮肉めいた警句を繰り返し、傍若無人に振舞うマギステル・ミシェルを、ドニの身になってちょっと恨めしく思いながら読んでいた。しかし物語が進むにつれ、ミシェルの本質が、研ぎ澄まされるように浮かび上がってくる。ミシェルの真実は、強く哀しく清廉であるように思う。

「エッセ・エスト・デウス(神は存在なりや)」

佐藤氏の本はこれでようやく二冊目なのだけれど、現実に生き、包容力があって強く、しかしながら弱い女性、悪ぶっているけれど、純粋な心、真っ直ぐな精神を持ち続けている男性がいいと思う。

「マギステル・ミシェルの鉄則、その一、女は何度でも生まれ変われる」

男に殺してもらえるから、男にその辛い過去を清算してもらえるから、女は何度でも生まれ変われる。そして、その時、男はその女の「小さな神」となる。ラストは、「ドニ!よくやった!」と声を掛けてあげたい気分になる。

 ← 私が読んだのはこちら
佐藤 賢一
カルチェ・ラタン
 ← 既に文庫化されているようです

*臙脂色の文字の部分は、本文中より引用を行っております。何か問題がございましたら、ご連絡ください。

☆関連過去記事
「王妃の離婚」/結婚とは、人生とは

中世の異端の話としては、こちらも面白かった。
ゴシック歴史ロマン/「グノーシスの薔薇」
十五世紀末から十六世紀初頭のルネサンス爛熟期に、教皇レオ十世(ジョヴァンニ・デ・メディチ)に仕えた小人、ジュゼッペ・アマドネッリ(ペッペ)の手記という形をとった物語。