画材屋の想い出 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

短期アルバイトを除いて最初の就職先は画材屋だった。 学生時代はヴェトナム戦争の時代で、大学の入り口がバリケード封鎖されたり、学園紛争で授業が半年もなかったりしたので政治に関して晩熟だった私にも、知らず知らず帝国主義とか金融資本主義による支配とかのイデオロギー的な考えの影響が浸み込んでいた。

大企業に就職することは学業の成績からいっても無理と判っていたので中小企業に勤め口を見つけようと決めていた。 絵が好きだったし幸い親の家に住んでたので会社勤めで貯金を貯めてヨーロッパへ行こうと決めていた。街頭絵描きにでもなって暮らせれば最高だなどと甘い夢をぼんやりと見ていた。プロの絵描きになる気持ちはさらさらなく、とても絵を売って暮らしを立てる自信は無く、 ただ絵描きの世界に近い仕事をして食べて行ければ好いと考えていた。

中学の絵の先生がゴッホの話をしてくれた。ゴッホは描いた絵は一枚も売れず弟のテオに生活を支えて貰っていた。そしてゴッホは画材屋に勤めたという話をしてくれたことを思い出した。そうか僕もゴッホみたいに画材屋に就職出来たら好いなと思った。すると偶然にも、新聞の求人欄に聞いたことのある画材屋さんが求人広告を出しているのを見つけたのだった。迷わず履歴書を送ると面接の知らせが届いた。

その会社は原宿駅の近くにあった。原宿駅には表参道に近い出口と竹下通りに近い出口があった。竹下口を出て代々木方面に進むと緩い坂があり、毎朝その坂を上って出勤した。坂の途中左手に60年の東京オリンピックのために有名建築家が設計した菅笠の形をした室内競技場が見えた……と思う。もしかしてこの記憶は間違っているかもしれない。というのは、その数年前にやはりこの近くのコロンバンという洋菓子屋さんの工場で夏休みのアルバイトとして働いたことがあり、この競技場を見ながら出勤したのはその時だったかもしれないな、と今思うからだ。記憶に自信が持てなくなっている。コロンバンでの夏休みのバイトは原宿じゃなかったかもしれない。懐かしい木造の原宿駅は現在近代的デザインの駅舎に建て替えられたとニュースで知った。

 

                                 

                                      

 

運よく画材屋に就職が出来た。最初の半年間は配送の仕事だった。この会社は都内に直営の店が10ほどあり、乗り古したワーゲンのバンを運転して倉庫へ行き、各店が注文した品を揃えて届ける。社長はいかにもタフそうな若い身体と明晰な智能を持つ面構えをした男で面接で初対面した時すぐに「ゴルゴ13」みたいだと思った。社長が言うには最初は配送の仕事をやって会社の仕事がどんなものか知ってほしい。さらに店を回ることで同僚の社員と面識を持つことがとても大事だ。地味で慣れない身体にはちょっときつい力仕事だがしっかりやって欲しい。時期を見て貿易部の事務職へ配置転換する、と約束のように言った。

社長が言った通り、配送の仕事のおかげで画材屋がどんな商品を扱っているかほとんど知ることが出来た。先代の社長は女性でフランスに住んだこともある人だったが、今は隠居同然で会長職に就いていた。社長はその息子で、アメリカに留学して経営学を学んできた。ガッツのあるビジネスマンを自他ともに許していた。社長が息子の代になってから会社は従来のクラシックな画家を顧客とする体制からデザインの世界に市場を広げた。画材の中では一番重量があるに違いない粘土を運ぶことがあった。自動車のデザインに当時は粘土で3次元のモデルを作っていたのだ。その粘土を倉庫から取り出す時に、身体をひねったまま粘土に手を掛け持ち上げた時、バキっと音がして背骨を傷めてしまった。重症じゃなく1日休んだだけで痛みは引いたけど、今でも時々背骨に違和感を感じることがある。

画材の中で扱って楽しかったのはやはり「色」に関係した商品だった。
パントン・カラーチャートは色見本でその束は5~6センチも厚みがあり、色の数は数百あった。そして触るだけで胸をときめかしたのはヨーロッパから届いた水彩と油絵具だった。 レンブラント、ホルベイン、ヴァンダイク、ターレンス、ヴァン・ゴッホ、セヌリエ、など。 そして、それぞれの絵の具のチューブに書かれている色の名前が限りない空想を誘った。 エメラルド・グリーン、サップ・グリーン、プルシャン・ブルー、セルリアン・ブルー、マジェンタ、ヴァーミリオン…コバルトイエロー、ジンク・ホワイト、カドミウム・オレンジなど、当時すでに絵の具の中には毒を持ったものがあると言われていたが、これらヨーロッパ産の絵の具の色の深さ、なんとも言えない深みのある「色」に限りない魅力を感じた。

(つづく)