少年の動揺 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

幾何の公理について、もう何度も書きましたが、また新たな考えが浮かんだので、書きます。

高校に入学したてで、開いた「幾何学」の最初のページには、こう書いてあった。
「点とは位置だけあって、大きさが無いもの」
「線とは距離だけあって、太さのないもの」

禿げ頭の数学教師は鞭をふりふり、幾何学は論理の体系だから、すでに証明済みの命題を使ってある仮定が正しいことを証明してゆく。しかし無限に遡ることはできないので最も基本的な命題を証明する必要のない、明らかに自明のものとして無批判に認めなければならない。この無批判に認める命題が「公理」なんだ、と説明した。

だが、新しく懐疑することを発見した少年の頭には
「まてよ、大きさが無い物が位置をもてるだろうか?」
「太さがない線なんて存在し得るのだろうか?」
と疑問が走ったのだった。

仮に、この教科書に

「点は位置を示すための記号で、大きさは考慮しない」とか
「線は距離を示すための記号で、太さは考慮しない」とか

書いてあったとすれば少年の頭にはこんな疑問が走らなかったかもしれない。
しかし、教科書には
「点とは位置だけあって、大きさが無いもの」
「線とは距離だけあって、太さのないもの」
と断定的に書いてあるものだから、学校では、真実であることが明らかな自明の理を教えるもの、とばかり信じ込んでいた少年には自分の頭の中に走った疑問に気がついて迷いが生じたのだった。

「まてよ、大きさが無い物が位置をもてるだろうか?」
「太さがない線なんて存在し得るのだろうか?」
という疑問を持ったのである。

少年はこの時、ユークリッド大先生の公理は、論理的に定式化された形式的な言明であるにすぎず、「真実」を言ってるわけではなく、ただ「こういうものとする」「これ以上疑っても無駄で、これを正しいとする暗黙の了解」を公理としたに過ぎないことを知らなかった。

「大きさが無い点、太さが無い線なんて、僕はどう考えても思い浮かべることができません」と正直なところを数学の教師に質問してぶつければ、あるいは公理というものの意味を、もう少し少年にも分かりやすく説明してくれたかもしれなかった。

しかし、少年は自分が懐疑してること自体に動揺していたし、自分の疑問がどこに重点があって分らないのか、疑問を充分に咀嚼せず、なんだかわからない不明瞭な言葉でもにゃもにゃと質問したのだった。

「無批判に認める命題が『公理』なんだ、と説明した教師にとってみれば、なんだか良くわからないがこの生徒は「公理」を批判したがってるらしいことだけは分ったので
「きみ、それは愚問だよ」
とにべもなく切り捨てた。

算数が得意だった少年にとって、愚問と片付けられたことは内心顔が真っ赤になるほどの屈辱だった。以来、少年はこの数学教師を憎み、憎しみは数学そのものに向き、家へ帰れば数学の教科書を開くことは絶対になく、授業にはどんどん置いて行かれた。入学試験では学年で一番の成績だった少年は、またたくまに落第生への道を転がり落ちて行った。

数学教師の反応は、質問の仕方が良くなかった、自分の疑問を充分に咀嚼せずなんだかわからない言葉でもにゃもにゃと質問したことに原因の大半があっただろう、と少年は反省した。疑問は少年の頭の中でもやもやとした霧に包まれていた。

考えを明確にする言語化の能力に欠けていることは、中学の頃から少年は
気づいていたのだった。小説や詩や歌というものを読んだことがなかった。
人間は、物事を伝えるだけでなく、心の中の感情や思いを言葉にして表現する、ということを少年は知らなかった。

言語表現力に欠けているという自覚は内向化して自分の攻撃に向かい、少年は激しい自己嫌悪に襲われた。小説や詩や歌を読んだことがなく、学校の科目だけを先生に言われるままに唯々諾々と勉強して来た今までの姿に嫌悪を覚えた。

幾何の公理に対して疑問を抱いたことは、少年の自我が目覚め始めたことを示している。「幾何の公理」が「証明を必要としない、正しいとする暗黙の了解」にすぎないことに少年は大胆にも懐疑の眼を向けたのだ。なんであれ世間でこうと決められたことに対して疑問を向けるのは良い事である。

少年期から青年期へ向かう途中の思春期を少年は迎えようとしていた。

そうした時代に日米安保条約の改定反対運動が起こった。

少年は、日本というものが、なにやら黒い雲のような得体のしれない者によって動かされているという印象を抱いた。国家権力というものや、いろんな社会制度が、幾何の公理と同じように、それが正しいとする暗黙の了解に基づいていることに気付いたのだ。いままで一度も考えたことがなかった時の首相だとか、つい最近まで日本を占領していたアメリカを中心とした連合軍だとかについて考えるようになった。

自我に目覚めることは、直接父親への反抗に、ついで母親への反抗となって現れた。

    (つづく)

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