少年が受けた衝撃 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

父親が仕事でアメリカへ行き始めたことは少年に少なからぬ動揺を与えた。

ひとつは少年が自然に持っていた愛国心(民族感情)と父親の行為が
相容れぬことだった。

小学生だったか中学生になっていたかは思い出さないが、父親がある日
映画に連れて行ってくれたことがある。少年が住んでいた地区は、新宿の
歌舞伎町から歩いて五分ほどの住宅地で、大久保病院脇の坂を下りた所に
映画館が数軒並んでいた。そのうちの最初の角にある映画館で「戦艦大和」
が封切りになった。父親は、兄は連れず少年だけを連れて映画館へ入った。
白黒のドキュメンタリー風の映画だったが、爆撃で甲板に脚や腕が飛び散り
死体がどんどん積み重なって、戦艦が激しく破壊されて行く場面は衝撃的だった。

父親から上の世代の日本人が総力を挙げてアメリカとこのような戦争をした
ということが少年にもありありと実感できた。

「日本は戦争に負けたんだ」

父親はそうひとこと言うだけで戦争については語りたがらなかった。
戦争に負けたということが、その後の父親の仕事と行動を全面的に正当化
しているのか? 父親の口ぶりを反芻すると、そう取れないこともなかった。

だけど、ついちょっと前まで鬼畜米英とかいってアメリカを眼の敵にして戦争していたのに、戦争に負けると、手のひらを返したようにアメリカ一辺倒となるような父親の世代の日本人が信用できない人間のように思えた。

父親はアメリカに生産方式と生産性向上の方法と技術を視察し学んで日本に
導入するため度々出張するらしかった。小学校でも親の職業を告げ合うことがあって少年は、その頃まだ珍しかった「経営コンサルタント」という言葉を半ば誇らしげにみんなの前で口にした。

いろんなメーカーの工場へ2ヶ月とか3か月泊まり込んで、生産性向上のための
現場の調査と現場での指導と工員さんたちと一緒に機械を移動したり作り変えたり調整したりする仕事が父親の職業だった。そのため、3か月も九州とか北海道とかへ出張したまま顔を見ないことが当たり前になっていた。父親が帰って来る日は、大抵「雨男」なので雨降りが多く、少年は傘を持って駅まで迎えに行くことが多かった。そういう父親を中学まで少年は尊敬し、誇りに思っていたのだった。

中学で、真面目に勉強を続けたおかげで、都立の難しい高校へその年の東京都では2番目の成績で入学することが出来た。しかし、母親が大学受験に苦しまなくても済むように国立大学や私立大学の付属高校の受験を進めて受けに行ったが、作文が出来ない少年は初めから、そういった名門校へは入学できないと思っていたし、通学にも便利な都立高校へ行くと決めていたのだった。

その高校へ入学したことは少年にとって、人生そのものを変える重大な心理的危機を迎えることとなった。

高校へ入学して最初の年に60年日米安保条約改定反対の国民的なデモがあった。少年も、判らないながらに、国の一大危機のように感じて国会請願デモに加わった。デモで知り合った同期生に誘われるままに、生徒会室へ行ってみた。そこに置いてあった新聞を手に取って読んでみると、少年には、激しい衝撃的なことが書いてあった。

「いま全国的に行われているゼロ・デフェクト(ZD)とかの生産性向上運動はわれわれ労働者を締めつけ経営者の利益を上げるための運動にほかなりません。われわれは、こうした労働者の利益に反する会社内の運動に反対し、働く者のほんとうの利益になる条件を団結して勝ち取っていかなければなりません」

少年が尊敬し、誇りに思っていた父親がやってる仕事が、働く者という視線で見ると利益を損なうもので反対しなければならない、と書いてあることがショックだったのだ。

「生産性の向上」という言葉が、一見どんな世界にも利益をもたらす普遍的で進歩的な行為だと信じていた少年の心は、激しい衝撃で揺さぶられるのだった。


  (つづく)

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